それは紛れもなく まさの声だった。
もはや此の世には居まいと思っていた人の声を聴き、左之助は嬉しい反面、もしかすると夢ではないだろうかと云う不安に陥った。
「どちら様」
黙っていると、戸の向こうからもう一度問う声が聞こえてきた。
「俺だ。遅くなったが今戻った」
そう答えると戸が開き、窶れて目の落ち窪んだ女が姿を見せた。結い上げた髪も幾筋かが解れて背にかかっている。
「まさ」
名を呼ばれ夫の姿を認めると、彼女の虚ろだった瞳が輝いた。
「遅くなってすまない」
まさは黙ったまま左之助を見つめている。
「それにしても、今迄独りで浅茅が原に住んでいるとは驚いたな」
不意にまさははらはらと涙を落とした。
左之助はそれを見て慌てふためき、さて如何したものかと思案し、とりあえず妻を抱き寄せて言った。
「お前がこうして独りで暮らしていると知っていたら、長い年月を江戸で過ごしゃしなかった。向こうで京都の戦乱を聞き、一度は壬生に戻ろうとしたんだが、道中で追剥に遭って荷物を奪われちまった。帰るに帰れねぇんで江戸に戻ったんだよ。江戸から京都へは至る所に関が出来て往来が難しいと人伝に聴き、更に病に罹って長い間床に臥しちまった。回復してからは志した道を極めようと再び剣術に身を入れ、道場で過ごしていたんだが、お前の事が懐かしくなってな。せめて住んでいた所を見ようと思って帰ってきたんだが、まさかお前が此の世に在ろうとは想像だにしていなかった。まるで夢のようだ」
まさは涙を止め、夫の背に手を回した。
「あなたが発ってから頼みにしていた春より前に恐ろしい世の中になり、里人は皆家を捨てて海に漂い山に隠れてしまいました。此処に残った人は何かに憑かれたかのように浅ましくなり、寡婦となった私に言い寄ってきました。ですが私は、例え死のうとも不義を犯すつもりはなかったので頑なに断り続けました。
鶯が鳴いて春を知らせてもあなたは帰って参りませんでした。夏が過ぎ、落ち葉が風に舞う頃になっても便りすらありませんでした。江戸へ下って尋ねようかと思いましたが、男さえ通り難い関を、如何して私が越えられましょう。軒端の松を眺めながら待つこの家で何とか今日までこられました。
今は恨みも晴れる程に嬉しく思っています。
あなたに逢う間に焦がれ死になんてしてしまったら、この気持ちが通じませんものね」
そう言って再び泣き出したまさの髪を掬い、優しく撫で付け、左之助は不義理を幾度も謝った。
その夜は、障子の破れ目から松の梢を渡る風が吹き込んできて涼しく、また長旅の疲れもあって左之助はまさの傍らで熟睡した。
東の空が漸く白みはじめる頃、夢心地にも寒くなり衣を取ろうと探る手に、何やらさやさやと音がするのに気付き目が覚めた。顔にひやひやと物が零れる。雨漏りかと思い天井を見上げれば、屋根は風に捲くられ、空に懸かる有明月が見えた。戸は在れどもその意味を為していない。床板も朽ち崩れ、間から萩薄が高く生い出でて朝露が零れ落ちる様は袖を絞るほどである。壁には蔦葛(つたくず)が這い懸かり、庭は雑草に埋もれて、秋でもないのに草の生い茂る荒れ宿になっている。
辺りを見回しても横に伏していた筈のまさの姿は見えない。
狐の仕業かと思ったが、このように荒れ果ててはいても、広い間取りの奥の方から端の方、稲倉に至る迄が自分の好みに合わせて作った我が家である事に間違いない。
呆然として足元も覚束無いまま熟々考えるに、まさは既に亡くなり、今は狐狸が住み着き、浅茅が宿と成り果てた為に怪しい物の怪が在りし日の妻の姿を見せたのかも知れぬ。いや、もしかすると自分を慕う魂が還って来てあのように語らったのか。
己の身だけは変わらぬまま家の中を歩き廻り、寝所であった場所へ向かうと、床板が不自然に重ねられて盛り上がった個所があった。何だろうかと板を取り払うと、土を積んだ塚があり、雨露を防ぐ設けまでしてある。
昨夜の霊は此処から出てきたのかと恐ろしくなったが、それでも懐かしさが込み上げてきた。床に膝を付きよくよく見てみると、供物用の茶碗に混じって古びた那須野紙が置かれている。紙は黄ばみ書かれた文字も所々が消えて見え難いが、正しく妻の筆跡である。戒名も年月も記さず、ただ三十一字に最期の心の内を表わす。
さりともと思ふ心にはかられて 世にもけふまでいける命か
これを読んで初めて妻の死を悟り、左之助はその場に倒れ伏した。
いつの年の何月何日に亡くなったのか、それすら知らぬ情けなさ。
誰か知っている人も居るだろうと、彼は涙を拭い立ち上がった。破れた屋根から空を見ると、日は高く昇っている。
先ず隣の家へ向かうが昔見知った主は居らず、逆に左之助が「何処の人だ」と問われる始末。彼は挨拶をしてから言った。
「此の隣家の主だが、思う所があって江戸で七年過ごし昨夜帰って来たものの既に荒れ果てて人も住んじゃいねぇ。妻も死んだらしく塚の設けが在るが、いつ死んだかも判りゃしねぇ。もし知っていたら教えてくれねぇか」
「お気の毒です。私は此処に住んで未だ一年しか経っていませんが、隣に住んでいる人は見たことがありません。恐らく細君はそれ以前に亡くなられたのでしょう」
主は応え、更に続けた。
「此処壬生界隈に古くから住んでいた人達は戊辰の年に起こった戦乱の時に逃げ失せて、今住んでいるのは大方他の土地から移って来た者ばかりです。ただ一人、八木邸の御主人は昔から変わらず此処に住んでいるようです。時々、あの家に行って亡くなった方の菩提を弔っておられますから、あの方なら細君の死なれた月日を知っているのではないでしょうか」
左之助は主に礼を述べると、八木源之丞の許へ向かった。源之丞の邸へは幾度か訪れた事がある。かつて通った道を行くと、八木邸が以前と変わらぬままに建っていた。
家人に取り次いで貰い邸の中に這入ると、一人の翁が縁側に腰を下ろし茶を啜っていた。老け込んではいるが、紛う事なく彼こそが源之丞である。
左之助が声をかけようとするより早く翁が彼に気付いた。
「お主、何でこんなに遅う帰って来たんや」
言われて左之助は、先ず源之丞の高齢を寿、次に江戸へ発ってから昨夜の不思議な出来事までを詳しく語り、塚を築いて弔ってくれた感謝の意を告げた。
「まさが、妻がいつ亡くなったが御存知ねぇか」
問われて源之丞は暫く俯いて何かを思案していたが、やがて顔を上げて語りだした。
「お主が遠くへ行きなはってから秋の頃より幕府と薩長土の間柄が悪しゅうなりましてな、戦になりよった。里人は所々に逃げ、住む者が居なくなった所為で辺りは荒れ野となったんや。ただ、まさだけがお主の約束を信じて家を出んかった。儂も足が弱ってきとったから此処を出んかった。若い身空で一人暮らしていられたまさの気丈さには感心させられたもんや。
せやけど春が去り冬を迎え、また春が過ぎ、その年の葉月十日にまさは死んでしもうた。
余りにも哀れやったから儂が手づから土を運んで柩をおさめ、今際に残した筆の跡を塚の標とさせて貰うた。戒名を求めようかと思うたが、壬生寺の住職も戦乱に紛れて何処ぞへ逃げよって人が居らん。そのまま四年が過ぎてしもうたんや。
お主の話を聴くと、まさの魂が帰ってきて恨み事を言ったんとちゃうやろうか。もう一度家に戻って細君に誤り、供養してやりや」
左之助は源之丞の話を聴き終えると、声をあげて泣き出した。
まさは恨み事など言わなかった。むしろ自分が帰って来たことを喜んでくれた。この荒れ果てた地に一人で暮らすのはどんなに心細かっただろうか。己の我が儘で江戸へ行き、志を遂げる為とはいえ恵まれた生活をしていた事への後悔が押し寄せてくる。
「儂の祖父のそのまた祖父すらも生まれてへん遥か古の事やけどな」
一頻り泣いて落ち着いてきた左之助に目をやり、源之丞は冷めた茶を啜った。
「吾妻の国に真間の手児女っちゅう何とも別嬪な娘子がおったんやそうな。家が貧しかったから何時も麻衣に青衿をつけてな、髪も梳かさん、靴も穿かんという身なりやったが面は望月のようで笑えば花が匂うようで、そりゃあ綾錦を付けた女御にも勝るほどやった。そんなやから壬生の者は当然、都から下った国司等や隣国の人までも恋い慕って来たんや。手児女は困ってしもうて『多くの人の心に報いましょう』と入り江に身を投げた。
この話は哀れな例として古の人は歌に詠んだりして今に語り伝えてんのや。
まさの心は昔の手児女の純粋な心よりも哀れで悲しいなあ」
言い終えると源之丞は涙ぐみ肩を振るわせた。
左之助は深く頭を垂れて例を述べると立ち上がり、邸の外へ出た。
日は既に西に傾き、空を赤く染めている。
左之助は先程の物語を思い浮かべ、口下手ながらも一首詠んだ。
いにしへの真間の手児女をかくばかり恋ひてしあらん真間のてこなを
思う心の僅かも言い表す事は出来ない。しかし、歌人の心にも勝って哀れだと言う事は出来る。かの国をしばしば訪れる剣術師範が聞き伝えて語った噺である。
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