知らないわけではなかった。いや、むしろよく知っていた。
あの人が彼をどの位大切に思っているか、彼があの人をどれだけ慈しんでいるか。
あの人が彼に依存しきっている事も、彼があの人に激しい恋情を抱いている事も。
あの人が彼を見つめる眼差し、彼があの人に触れる指、それらが余りにも愛しさに溢れ、一方でも欠けようものなら総てが崩れるような気がしていた。
何故そんな事を思い得たのか。
それはいつもあの人を見ていたから。
月が辺りを照らす、ただそれだけの夜。
京都鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸へ下った新撰組は、幕府から甲府城委任を託され甲州に向かった。しかし甲府城は既に新政府軍の手に落ちており、それを知った隊士達は援軍がなければ戦わぬと言い出した。甲府城をなんとしてでも手に入れたい局長・近藤勇は援軍はこちらに向かってきていると告げた。だが援軍が来る予定などない。そこで副長・土方歳三を神奈川宿へ向かわせて菜っ葉隊の応援を請おうと試みたが、土方は神奈川での説得に失敗したらしく援軍は来なかった。
当然、数が勝る上に軍備の整った新政府軍に敵う筈もなく、新撰組は後退し、更に隊士達は局長への不審から八王子へ去っていった。瓦解した隊で戦うわけにもいかず、幹部達も八王子まで退きそこで隊を立て直すことにした。
故に今、此処に居る。
残った隊士たちに混ざって床に就いていた原田左之助は、寝苦しさを感じて目を覚ました。身体を起こして周りに目をやる。
隣りでは永倉新八が寒いのか丸くなり、寝息を立てている。それを眺めて原田はちっと舌打ちした。
「あんな勝ちそうにもねぇ戦をさせられてさ。よく眠っていられるもんだ」
甲州出兵を命じた幕府も幕府だが、それを引き受けた近藤も如何かと思う。新撰組がいくら選りすぐりの剣客集団と云えども、新政府軍の持つ最新式の兵器には敵わないと先の京都での戦で証明されたばかりである。それともあの敗戦を身を以って経験していない近藤には判らなかったのだろうか。
彼は城を獲れば大名に成れると意気込んでいた。それだけならまだしも、副長以下を自分の家来に対するような態度で接するようになっていた。
しかし戦に破れ近藤は崩れた。
崩れた己を隠す為か如何なのか、彼の態度はますます横柄に成っていった。
昼間、永倉が原田に新撰組を離れないかと言ってきた。原田は少し考えると答え、その話はそれまでになった。
確かにこのまま此処に留まっていても、嫌な思いこそすれ良い事など無さそうに感じられる。
「新八っつぁんも腹に据えかねているんだろうな」
原田は、世俗の事など総べて忘れているような永倉の寝顔をしばらく見ていたが、ふらりと立ち上がって表に向かった。外の空気でも吸えば少しは落ち着いて眠れるだろう。
京都に住んでいた頃と今との境遇の差は何たるものか。
屯所の外に屋敷を構えていた。妻もあり子もあった。ほんの四ヵ月ばかり前のことである。原田は自嘲気味に笑った。過去を振り返るとはなんと女々しいことだろう。
前を見ると、宿舎の戸が開きそこから月の光が差し込んでいる。その外側には戸にもたれるような格好で人が立っている。原田からは顔は見えないが、その体つきと短く切った髪から、その人物が土方だと判った。
ははぁ、と原田は頷く。あの人も眠れねぇのか。
彼は土方に近づき、肩を軽く叩いた。同時に土方は弾かれたように振り向いた。原田と目が合うなり急いで顔を背け袖で覆った。
月に照らされ、夜目にも明るい白く綺麗な顔、猫のような目許。その大きく見開かれた目には涙が溢れていた。
原田は思わず土方を凝視する。
鬼と呼ばれ、隊士から恐れられるだけでなく、古い仲間からも不気味がられる土方が、まるで脆く弱い人間のような表情をしていた。
「左之」
言葉の出てこない原田に、静かなよく通る声が掛けられる。
「こんな夜更けに何してやがる」
掠れた涙混じりの声。
「ちょっと眠れなくてさ。外の空気を吸いがてら、散歩しようかと思って」
「じゃあ、行きゃあいいだろう」
相変わらず、袖で顔を隠しながら云う。
原田は「そうするかな」と呟き、空に目をやる。
満月でもない月が辺りを照らしている。月夜というものは、もしかすると闇夜よりも静かなのかも知れないと思わされる程の静寂の中、砂利を踏む原田の足音のみが響く。
宿舎からほんの十歩ばかり離れた時、後方から押し殺したような嗚咽が聴こえた。
泣いている。
原田は上体だけで振り返った。
淡い光の下、戸に身を預け、両手で顔を覆い、土方は肩を震わせていた。
何を思い泣いているのか。
何を憂えて泣いているのか。
白い頬を涙で濡らし、薄い肩を震わせ、声を殺しながら。
原田は懐かしい感情が躰中を駆け巡るのを感じた。江戸の試衛館に食客として住み着いていた頃に抱いていた想い、秘めていた恋心を。
大股に原田は土方の許へ歩み寄ると、驚いて顔を上げた彼の華奢な身体を胸に抱き締めた。
伊予の国、松山に生まれた。
中間という下っ端にありながら態度がでかい等の理由から殴られることが多かった。藩に居る限り生活は保証されるだろうと思っていたが、変わり映えしない毎日に嫌気が差して脱藩した。
何処を如何やって生きていたのか詳しく覚えていない。<
諸国を巡り、いつの間にか江戸に着いていた。そこの天然理心流道場「試衛館」の道場主。近藤や、師範代の沖田総司、食客として厄介になっている松前脱藩の永倉らと気が合い、気が付くと彼らに混じって道場に住み着いていた。
ある朝、邸の縁側で横になっていると門を潜り薬屋が這入ってきた。年は原田より上だろうか。色白の美しい顔立ちをし、漆のような黒髪を髷に結っている。撫肩で華奢なその姿は男でも女でも通じるものがある。その薬屋を男たらしめているのは服装と背の高さと、一寸した骨格の違いくらいであった。
薬屋は原田に気が付くとふわりと微笑んだ。濡れ縁に薬の入ったつづらを置き、
「勇さんは居るかい」
と澄んだ声で問うた。
「居るが」原田は身を起こしながら云う「薬は間に合っているだろうよ」
「行商に来たんじゃねぇよ」
青年が眉を寄せた時、障子がからりと開き「あ」と明るい声がした。振り返らずとも判る、この声は沖田だ。
「土方さん、帰っていたのですか」
「惣次郎」
薬屋は親しげに師範代の名を呼んだ「勇さんは居るかい」
「道場に居らっしゃいますよ」
沖田は薬屋の手をとった。まるで大切で繊細なものを手にする時のように優しく、そして愛しげに。
薬屋は手を引かれるままに道場へ向かっていった。
原田は訳が判らぬまま二人の後ろ姿を見送り、そして薬屋が置きっ放しにしているつづらに目を向けた。
漆塗りの黒いつづらには傘をつけた丸印と「石田散薬、土方氏」の文字が見て取れた。
夕食時、原田は近藤から薬屋の青年・土方歳三を紹介された。
彼は試衛館の門人らしいが、家伝の薬を行商する為時々長期に渡って道場を留守にするのだという。年は原田より五つ上だという事だった。
「宜しくな、左之」
土方は人なつこい笑顔で言った。原田もつられたように笑うと「こちらこそな」と返した。
土方という男は明るい前向きな性格で、真面目な顔で冗談を言うかと思えば、人の事を本気で心配する優しさもあり、近所でも人気があった。剣術は本当に天然理心流を習っているのかと疑いたくなる程に雑多な他の流派の混じった剣を使うが、なかなか強い。また彼は勘が鋭く頭も良い。
原田はいつしか常に土方のことを気にするようになっていた。それが特別な感情へと変わるのに然程時間は掛からなかった。
全く可笑しな事だと原田は思った。いくら女形顔負けの美人振りといえども、相手は己と同じ陽の性を持つ者ではないか。可笑しいとは思っていても心だけは如何する事も出来ない。
この感情を伝えると彼はどんな顔をするのだろうか。困ったように俯くか、冗談は止せと蔑むか。
様々な憶測をしながら土方を眺める。いくら見ていても飽きる事のない綺麗な容姿、よく変わる表情。
そして原田は気が付いた。
土方はいつも誰かを追っている。誰かを見ている。その誰かに想いを寄せている。
「誰か」はすぐに判った。師範代の沖田である。
沖田も土方を好いているのは明らかであった。
土方は自覚はないのだろうが、沖田の傍に居る時は本当に嬉しそうにしていた。時々は年上面をして説教もしていたが、どう見ても年下のやっと少年を抜け出したような青年に依存しきっていた。沖田も九つも年上の癖に我が侭を言ったり、末っ子らしく拗ねたり甘えたり、そうかと思えば眉間に皺を寄せて小言をいう土方を柔らかく受け止めていた。
別にそれならそれで良いのではないかと、そう原田は思っていた。
土方が誰を好いていようとも、それが自分でなくても彼が倖せならそれで良いと思っていた。
だからといって欲望が無いわけではない。確かに、あの唇に触れたいしあの躰を抱いてもみたい。しかしそれが土方を悲しませるのなら、今のまま、ただ見つめている方が余程良いではないか。彼が原田を見なかったとしても、この胸中の想いは嘘ではないのだから。
しかし上洛し新撰組副長となってから土方は変わった。
よく喋る口は必要最小限の言葉しか紡がなくなり、笑ったり怒ったり悲しんだりと頻繁に表情を変えていた顔は、どちらかといえば不機嫌な能面みたいな無表情になった。優しいと評判だった彼は、感情など持ち合わせていないかのように冷酷で無慈悲になった。
何を考えているのか判らない。隊士達は彼を恐れた。鬼とすら呼んだ。江戸試衛館で同じ釜の飯を食った連中ですら、彼を避けるようになった。
原田も例外ではない。彼が恋したのは鬼副長ではなく、よく笑う歳三だったのだ。
しかし土方が変わったといっても沖田は彼を想い続けていた。触れると斬れそうな鋭さを纏った土方を、優しく柔らかく包み込んでいる。土方も沖田が傍に居る時は多少表情が和らいでいた。
沖田の想いは本物だなと原田は思っていた。容姿や、それに覆われた性格は如何でもよく、土方を土方たらしめている魂を愛しているのだろう。それに比べ、全く俺は中途半端に男に惚れたものだ。
上洛して二年が経ち、三年目の春、事件が起きた。
江戸以来の仲間・山南敬助が脱走した。
理由は判らない。当時持ち上がっていた屯所移転に反対だからとも、土方との仲の悪さが原因だとも云われる。
山南には追っ手がつき屯所に連れ戻された。
その山南に対して土方は切腹を申し付けたのである。
これには誰もが反対した。山南だけは許してやれと口にする者も多かった。それでも処分は覆らない。原田は永倉、藤堂らと山南が押し込まれている座敷牢へ行き、再度脱走するように勧めたが、山南は最早生を諦めており首を振ったのだった。
そして翌日の正午、沖田の介錯で彼は逝った。
介錯の後、井戸で手を濯ぐ沖田に原田は言った。
「鬼の片棒を担ぐのか」と。
沖田はゆっくりと首を振った。
「じゃあ、なんとか助けてやれなかったのか」
原田の怒気を含んだ物言いに沖田は困ったように微笑んだ。
「山南さんの場合だけ見逃したりしたら、不満が起こりますよ。今まで粛清に遭ってきた方たちと親しかった隊士が幹部らを信用しなくなる。規律が乱れる。つまり新撰組は脆くなり壊れてしまいます」
「だからって、ああも平然としなくても」
「平然と、鬼を演じなきゃならないからですよ。本当の土方さんは誰よりも優しくて寂しがりなんです。一番辛いのは切腹を申し付けたあの人ですよ」
そういうものかね、と原田は溜息をついた。腹に刃をつき立てる山南を前に、土方は全くの無表情ではなかったか。
その夜、原田は自棄酒を呑んで子の刻を廻ってから屯所に帰ってきた。自室に戻ろうと廊を歩いていると奥の副長室の灯りが点いているのが目に入った。
酔いに任せて、山南への処遇について意見してやろうと思い、原田はその部屋へ向かった。障子に手をかけようとした時、中から沖田の声が聞こえた。小声故、何を言っているのか聴き取れない。
原田は音を立てないように気を払いながら、僅かばかり障子を開けた。
沖田がこちらに背を向けて座り、その胸に顔を埋めて肩を震わせる土方の躰を抱いていた。優しく髪を撫でながら
「そんなに泣いちゃあ、山南さんも成仏出来なくなりますよ」
と囁く。
原田は抗議するのも忘れ、障子を閉じると、自室に戻り横になった。
「あの人は誰よりも優しくて寂しがりなんです」という沖田の声が頭から離れなかった。
寂しいのだろうか、と思う。
寂しくて泣いていたのだろうか。
では何が彼を泣かせているのか。
近藤の変わり振りだろうか、鳥羽伏見の戦で多くの同志を喪った事か。恐らく、というより確実に違うだろう。
土方はただ一人を想って涙を落としているのだ。ただ一人、江戸に残る沖田を。
沖田は京都に居た頃、既に労咳を患っていた。昨年の暮れにはかなり病状が進み、江戸に戻った時には直視するのも哀れなほどに痩せ衰えてしまっていた。それでも甲州出兵には加わると言い張り、周りが怒ったり宥めたりするのも聞かず、日野宿迄はついて来たものの、やはり戦の出来る状態ではないからと江戸へ返された。
彼は今、何処で如何しているのだろうか。
耳にした話に拠ると、とある植木屋の離れを借りて姉に看病されながら過ごしているらしい。
「土方さんは寂しがりなんですよ」
そう言って笑みを浮かべていた沖田を思い出す。
原田は沖田の言葉が信じられなかった。あの時の土方が余りにも無慈悲だったからである。
しかし試衛館に暮らしていた頃を思い出すと納得のいくことではないか。
如何して忘れ去っていたのか。
如何して今、思い出すのか。
寂しさに耐えきれず夜中にこっそり涙を落とす姿を見てしまったからだろうか。
かつて抱いていた恋心が湧きあがってきたからだろうか。
原田は腕の中の土方に目を落とした。
土方は大人しく原田の胸に頬を寄せている。最早泣いていない。
どの位の間、身を寄せ合っていたのか。土方は原田の胸を軽く押し、身体を離すと
「すまねぇ」
とただ一言だけ発し、宿舎に這入って行った。
後に残された原田は、先程まで土方を抱いていた腕を見つめた。まだ彼のぬくもりと感触が残っている。
愛しいと感じる。思い出した感情は留まらない。彼を悲しませたくないと思う。しかし原田には如何することも出来ないとも判っている。
月が少し西に傾く。
原田はしばらくそこに立ち尽くしていた。
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