翌朝、原田が起き出してくると、土方は既に身支度を整え朝食も済ませていた。おはようと声をかける原田に不断通りの挨拶をし、入れ違いに部屋から出て行った。
その未だ見慣れない後ろ姿を見送りながら原田は昨日の昨晩のことを思い出していた。
月の光の下で泣いていた。
寂しさに耐えきれず、声を殺し肩を震わせ。
原田に抱き寄せられるまま身をもたせかけて。
思わず溜息が漏れる。
自分はこんなにも鮮明に覚えているのに、土方は何事もなかったかのように振舞っている。
夕べは何もなかったと、そういう事にしたいのだろうか。土方がそう望んだとしても、原田はあれを夢として片付けるつもりはなかった。そう感じるのは、やはり彼に恋焦がれていた日を思い出したからだろう。
原田は質素な朝食をかき込むと、土方を追って外へ出た。
土方は木に持たれかかって空を眺めていた。
原田が近づくと無表情のまま振り向く。短く切った髪が風に舞い、白い面に影を落とした。
「独りで何をしているんだ」
訊くと土方は再び空に目を向ける。しかしその瞳は八王子の空でなく、何処か別の場所を見ているかのようである。
「空を」と土方は静かに呟いた。「空を見ている」
空をね、と原田は口の中で反復した。
土方はそれ以上何も言わず、ただ東へと流れ行く雲を追っている。
「空は広いからな。何処までも続いてやがる。京都へも、甲府へも」
そこで原田は一寸言葉を切った。そして一言ずつ確かめるように先を繋ぐ。
「江戸へも」
その台詞に土方の瞳が揺らぐ。それを隠すかのように彼は目を伏せ「そうだな」と頷いた。
土方はしばし間を置いてから、その綺麗な切れ長の二重瞼の目を開き原田を見た。そして口元に笑みを浮かべる。
「空は広ぇからな、何でもお見通しって訳さ。甲州で俺らが負けた事も、薩長との兵力の差も」
「歳さん」
可笑しくもないことを冗談めかして言う土方を遮った。土方は話の途中で口を挟んだ原田を笑顔のまま見つめ、先を促す。
「歳さん」
空元気の彼など見ていられない。
「気になるんだろう」
「何がさ。てんでばらばらになった隊士達か。あいつらなら直ぐに…」
「総司の事さ」
瞬間に土方の顔が強張った。また何かを冗談の乗りで言おうとしたが、思うように言葉が出ない。
「江戸に帰したはいいが、その後如何しているかとか、薩長軍に見つかってやしないかとか」
「左之」
土方は叫んだ。沖田の話などして欲しくない。居ない辛さが身にしみるから。
ずっと側に居て欲しいのに、体が持たず江戸に帰した。
「あいつは…」
まさか官軍に見つかって斬られるなど、考えたくない。
「大丈夫、剣客だ」
労咳で痩せ細っていた。あの腕では大刀はおろか脇差ですら立ち回れやしないだろう。
「しかも新撰組の筆頭小隊長を務めた程の腕だ」
だから江戸では信頼できる者の家に隠れているようにと伝えた。
「病も治すと言っていたし」
「歳さん」
「だから大丈夫だ」
壊れるのではないか、と原田は思った。
沖田の生が最早長くない事は誰もが知っていた。彼の病が治る事はない。かかったが最後、ただ死を待つのみである。
それなのに、無い望みをかけて「治る」と言っている土方が哀れで、それ故に沖田を喪った後のこの人が如何なってしまうのか想像に難くない。
依存し過ぎている、あの年下の青年に。
恐らく、この状態の土方を救えるのは彼以外に居ないのだろう。原田が幾ら強く土方を想っても、苦しみを取り除こうと努力しても、沖田に代われる事は無い。
痛ましげに自分を見つめる視線に気付き、土方はことさら明るい笑顔を浮かべて原田を見た。
「ほら、瓦解した組を元に戻すんだろう。隊士を見つけて説得しに行かなきゃならねぇ」
「そうだな」
言って土方を見つめた。
「それで、歳さんは新撰組が元通りになったら、また甲府城を奪りに行くのかい」
「判らねぇ」と土方は答えた「勇さんが再び甲府城を攻めるというならそうするさ。俺は従うだけだ」
そして目を細めて微笑んだ。原田はその笑顔にしばし見蕩れた。
土方は最近、笑顔を見せる事が多くなった。京都から江戸に戻った事で、内面も江戸の試衛館に居た頃のようになったと感じられる。
土方はそのままの表情で原田に背を向けるとその場を後にした。その背を見ながら原田は思う。
試衛館で攘夷を語っていたあの頃に戻ったように感じるのは気のせいだと。自分たちは京都で色々なものを得て、そして失った。地位、名声を手にしたが、一体どのくらい多くのものを無くしたのか。
そしてあの人は、誰よりも気丈に冷静に振舞う副長は、今や唯一の心の拠り所を喪おうとしている。
ふと後方で草を踏む音が聴こえ、原田は身体を強張らせ振り返った。
「おお、左之」
「なんだ、新八っつぁんかよ」
緊張感の無さそうな顔をして歩いてくる永倉をそこに認めて、原田の肩から力が抜けた。
「脅かすんじゃねぇよ。官軍かと思っただろうが」
永倉は呆れたような物言いの原田に「悪い」と軽く笑いながら言うと、
「ところでさ」
と真顔になった。
「おめぇ、如何するよ。このまま新撰組に留まるのか」
「新八つぁんは、もう出て行くと決めてんのかよ」
永倉は頷く。
確かに隊から離れようと思っていた。このまま留まっていても利は無さそうだから。
しかし、と原田は思う。置いていけるのだろうか、壊れそうなあの人を。
強い振りをして独りで泣いているあの人を。
京都で入隊した者、とりわけ土方を恐れている者や憎んでいるものが去るのも、東帰してから作り上げたにわか仕立ての隊士らが逃げ出すのも、隊規に反してはいても判るような気がする。だが、長い付き合いの自分たちが別局するとなると彼にはかなり辛い思いをさせてしまうだろう。
山南を切腹させた後に泣いていた。沖田が一緒に居ないだけで崩れかけている。
もし此処で自分たちまで土方から離れるとなると如何なってしまうのか。
「なあ」と原田は口を開く。「歳さんも一緒じゃいけねぇかい」
「歳さんか」
永倉は腕を組んだ。
「歳さんに嫌気がさして抜けるって訳じゃねぇから良いけどさ、あの人がウンと言うかだな。あの人が新撰組を離れるとは思えねぇ。多分、死ぬまで新撰組副長を通すんじゃねぇか」
「俺もそう思うけどよ」
原田は空を見た。さっき土方は近藤に従うと言っていた。それはつまり原田らが隊を離れてもそれには従わないという事である。いや、未だ別局しようとしていることを知らぬからそう言っているだけか。
それは違うだろう。土方は永倉が言う通り「新撰組」に留まるのだろう。局長の居る所には新撰組がある。だから彼は原田たちとは出て行かない。
瓦解した隊を元に戻そうと奔走している。そういうことなのだ。
「ま、出て行くと決まった訳じゃなぇし、もうしばらく様子を見ようぜ」
永倉は頷いた。しかし彼は隊を離れるつもりでいる。
陽が沈もうとする頃、脱走した隊士らの説得に疲れた原田と永倉が帰営した。
近藤に状況を報告する為、彼の部屋へと向かう。襖を開けると、部屋の中で近藤は酒を煽っており、その横で土方が何かを言っていた。原田たちが這入ると、厳しい表情のまま土方が振り向いた。近藤は酔って虚ろな視線を向けてきた。
その近藤を見て原田はむかっ腹が立った。怒りを隠せないのは永倉も同じらしい。握った拳が震えている。
「近藤さん」
永倉が低い声を出す。
「如何した、新八」
答える近藤の声は酒の所為か軽い。
「俺ら幹部や副長は甲州で散り散りになった隊士を集めて隊を元に戻そうと努力している。でも最早此処では如何にもならねぇ。一旦、江戸に帰って立て直したら如何だい」
「負けたまま帰れというのか」
近藤の目が据わった。
「このままじゃ如何にもならねぇ。負けたとかそういう問題じゃ無いだろう。大体、この人数と寄せ集めの隊士らじゃあ、また負けるに決まっているさ。」
近藤はううと唸る。そして言った。
「おめえらが俺の家来になるなら、従ってやる」
「な…」
原田も永倉も二の句が継げなかった。何を言っているのだ、この男は。
もともとは志しを同じくして浪士隊に参加したのではなかったのか。近藤は一道場主であるし年長者でもある。かといって身分が高いというわけではない。
「勇さん、そんな言い方はねぇよ」
土方が横から言うのを「うるせぇ」と片付ける。土方は眉を寄せ、不快な表情をした。
永倉は音を立てて壁を叩いた。
「もういい、もう一緒には居られねぇ。俺は出て行く」
「俺も、あんたにゃついて行けねえ」
原田も怒気を含んだ目で近藤を睨みつけた。
「何言ってやがる」
土方が腰を浮かす。
「新撰組を離れる。此処に居なくても幕府の為には働けるからな」
永倉は吐き捨てるように言うと部屋を出て行った。
「そういうことさ、俺も新八っつぁんと行く」
原田は永倉の後を追う。
「待て」
と、土方が叫んでいるのが聴こえる。哀しげな響きを含んだ声。この人が新撰組を離れないのは判っている。しかし。
原田は振り返った。丁度二人を追って部屋から出てきた土方と目が合う。
「左之」
土方は駆け寄って来て原田の袖を掴んだ。
「左之、如何して」
土方の羽織の袖から白く細い手首が覗く。
また痩せたのか。
もともと痩身だったのが、輪をかけて細くなっている。
この人を置いていくわけにはいかない。
「歳さん、俺たちと行かねぇか」
「え」
「幕府の為に働くなら、何も新撰組でなくたっていいだろう。俺たちを江戸へ帰って新しく組織を作らねぇか」
土方は俯いた。後ろに撫で付けていた髪がさらりと流れて額を隠す。
「すまねぇ、左之」
予想通りの答えが返ってきた。
「おめぇとは行けねぇ。かといって行かせたくもねぇ。それは我が侭だとは思うが、本音だ」
沖田は言っていた、土方は寂しがり屋なのだと。その土方の為に残って居たいと思う。
しかし原田はもう新撰組のやり方についていけない。局長の下で戦をしたくない。
「それに」
と、土方は言う「新撰組が無くなったら、総司は何処へ戻ればいいんだ」
不治の病が癒えるものか、この人は本気で沖田の病が治ると思っているのか。
「歳さん、総司の奴ぁもう治らねぇよ」
「治るさ、約束したんだから」
治して貴方を追いかけるから、日野で沖田は土方にそう言って笑みを浮かべていた。
「だから俺は此処に居る」
そして原田を見つめた。
「道は違えども思いは一緒じゃねぇか。おめぇと新八っつぁんが居なくなると寂しくなるけれどな」
そして微笑んだ。かつての、新撰組副長となる以前の土方歳三の表情で。
焦がれていた頃の優しい瞳で。
報われなくても、この人が幸せなら良いと思っていた。でも抱き締めたいと思っていた。
「歳さん」
その形の良い唇を吸いたいと思っていた。
「…左之」
白い頬に両の手を添えて、そっと接吻ける。
柔らかく甘い感触を少しの間味わい、ゆっくりと唇を離す。目の前で震えていた睫毛が上がり、闇色の瞳が見上げてくる。
「好きだよ、歳さん」
華奢な躰を抱き締めて囁いた。土方は腕を原田の背に回し、宥めるように軽く叩いた。原田は土方の躰を開放し、にっと笑う。
「次に会う時は冥土かも知れねぇな」
その言い方に土方も笑う。
「おめぇは無茶をするからな、俺より先に旅立つんじゃねぇか」
「無茶なのは歳さんも一緒だろう」
ひとしきり笑って真顔に戻る。
「達者でな、左之」
「歳さんも。あまり無理をするなよ」
そして原田は腰の大小を指し直した。
「新八っつぁんにも無事でと伝えてくれ」
おお、と頷き、原田は土方に背を向けた。今生の別れかも知れぬのに、さらばとは言えない、辛くなるだろうから。
「左之」
原田の背に声が掛けられる「俺も好きだったよ、仲間として」
原田は振り返らずに片手をあげた。
宿舎の外に出ると永倉が待っていた。
遅くなってすまないと言うと、彼はただ笑っただけだった。
原田は空を見上げた。広い空は江戸へも京都へも更に遠くへも続いている。
歩む道は違えども、この空の下、志しを同じくして歩んでいくのだろう。
何処までも。
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