鵺鳥
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 惣次郎が試衛館の内弟子となって数十日が過ぎた。
 姉と離れて寂しいと思う事はしばしばあったが、代わりに周助や勇、更に門人達が優しく接してくれる為、沈む気持ちは幾分か慰められた。
 課せられた手伝いも覚えた。起床すると先ず厨房へ向かい、釜に火を入れる。それからおかみを手伝って朝餉の仕度をし、皆の食事が済むとそれを片付ける。その後、屋敷中の掃除や洗濯、買い出しや庭の手入れ等に忙殺される。
 やるべき事を覚えたとは云え、体も小さく腕力も無い惣次郎に、仕事を要領よく早々に終えられる筈はない。
 働く傍ら、道場から掛け声や竹刀を打ち合う音が聴こえてきて、それを羨み己もやりたいと思う事は多々あったが、与えられた仕事を不満に感じる事は無かった。働いているからこそ此処に居られるのだと、彼は只、与えられた雑用をこなしていた。



 醤油が無くなってきたから買ってきて、とおかみに言われ使いに出された惣次郎が店から帰ってくると、濡れ縁に見慣れない人物が座っていた。傍らに置かれた葛篭と着物の尻を絡げた格好から、彼が薬の行商人なのだと判る。薬屋は惣次郎に背を向けて、同じく濡れ縁で胡座を掻いた勇と談笑していた。
「惣次郎、使いか?ご苦労だな」
 勇が惣次郎に気付いて声を掛けると、薬屋はその視線を追って目を向けた。その容貌に惣次郎は息を呑む。
 綺麗な人だ、と思った。闇色の髪とは対照的な白い肌に、僅かに目尻の下がった双眸、子供の目から見ても十二分に美しい。華奢な体躯は中性的な印象を抱かせるが、結われた髷と格好が薬屋を男と示していた。
「おめぇ、醤油屋か」
 薬屋は惣次郎が重たそうに抱える醤油に目をやって問う。勇が、お前の思考では商品を持つ奴は行商人なのか、と笑った。
「いえ、内弟子の沖田惣次郎です」
 惣次郎の応えに「へぇ」と呟き、薬屋は勇を向く。
「未だ餓鬼じゃねぇか」
「歳」
 勇は呆れたように溜息を吐いた。
「お前って如何してそんなに口が悪いんだ。惣次郎は未だ九つなのに精一杯頑張ってんだよ、仕方無しに家業を手伝っている誰かさんとは違ってな」
「煩ぇよ」
 そう言って薬屋は口を尖らせた。その不貞腐れた顔付きは、何処か幼く見える。
 勇は声をあげて笑い、惣次郎を見た。
「惣次郎は初めて会うよな。こいつは歳三と云って、日野の道場に出稽古に行ったときに知り合ったのさ」
 勇は時々、多摩方面に稽古をつけに行く事があった。人柄の良い彼は、行く先々で様々な交友をしている。薬屋もその一人なのだろう。
「歳は今でこそ家業の薬売りをしているが、その前は奉公に行ってたんだってさ。だが女中と懇ろになってな」
「勇さん、餓鬼にする話じゃねぇだろう」
 面白そうに喋る勇を、薬屋が遮った。その言い様に、惣次郎は不快気に眉を寄せる。
「餓鬼じゃない」
 きつめの口調でそう言った時、
「惣次郎、帰っているのかい?」
と、厨からおかみの声が聴こえてきた。惣次郎は弾かれたように声のした方を向き「いけね」と呟くと勇に頭を下げ、醤油を抱え直し、慌てて奥へ入って行く。
 その小さい後ろ姿を見送りながら、薬屋は尖らせていた口元を綻ばせた。



 薬屋こと歳三は、今日のところは試衛館に泊まる事にしたらしく、夕食時に勇に伴われて居間に現れた。
 歳三は既に幾度か此処へ来た事があったようで、住み込みの門人達は各々の挨拶で彼を迎えた。彼らは久しぶりの再開を喜び、そして近況や剣術の成果等を語りはじめる。
 歳三は良く笑い、話しも巧い。その喋り方からは頭の良さが感じられた。
 惣次郎は隅の方で黙って箸を動かしながら、時々、歳三を見つめた。
 何故か気になって仕方がない。子供扱いされて腹は立ったが、それでも目が彼を向いてしまう。
 心地良い声で喋る。
 綺麗に笑う。
 彼の仕種のひとつひとつが胸の中に落ちてくるような、惣次郎にはそう感じられた。
 咀嚼しながら、瞳は歳三の姿を映す。試衛館に来て、何よりも有難いと思っていた食事を、はじめて味わわずに飲下した。

 試衛館の居候達は幅の大きい大部屋で寝起きしている。それぞれの蒲団と寝る位置は特に決まっておらず、門人達は毎夜適当に頃合いを見計らって適当な場所で就寝していた。
 食事の後片付けをした惣次郎が大部屋へ戻ってくると、珍しく既に蒲団が敷かれ、いつも好きなように手習いをしたり世間話をしている門人達が一つ所に寄り集まっていた。時刻もわきまえず、彼らは大声で笑い、大袈裟に歓声をあげる。その輪の中には歳三も居た。
 この訪問者との会話は夕食の間だけでは足りなかったのだろうか。惣次郎が部屋に入って来たのにも気付かず、彼らは語らいに没頭していた。
 惣次郎はちらっと歳三の横顔を見、小さく溜息を吐いた。
 先程厨を片付けながら、彼と少しだけでも話をしたいと思っていた。出来れば隣で眠りたいとも思った。
 しかしそれは叶いそうにない。
 惣次郎はいちばん端に敷かれている蒲団に仰向けに寝転がった。賑やかな輪に目をやると、行灯の鈍い明かりに浮き上がった歳三の白い顔が視界に入る。
 彼に背を向け、惣次郎は目を閉じた。眠気は直ぐに訪れ、意識を混濁させる。それでも話し声は暫く、鼓膜を震わせていた。


続く






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2005.5.30