鵺鳥
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 朝の気配を感じ、惣次郎は覚醒した。
 未だ眠気の残る瞼を抉じ開けると、天井が目に入った。その木目を暫く眺め、そして惣次郎は蒲団を跳ね除けて飛び起きた。いつもの寝起きに見る天井よりも明るい。
 寝坊した。
 門人達が起きる頃に共に目覚める筈が、今日ばかりは傍らで仕度しているのにも気付かずに眠っていたらしい。
 惣次郎は大慌てで服を着替え、洗顔もそこそこに厨へと駈けると、おかみが既に釜に火を入れていた。米を炊く彼女に謝罪をすると不快気な眼差しを向けられる。朝餉の仕度を手伝おうとすると「今ごろ来ても、する事などないよ」とあしらわれてしまった。惣次郎は申し訳ない気持ちと、追い出されるかも知れないという恐れを抱きながら「ごめんなさい」と頭を下げた。
「こいつは餓鬼なんだし、そんなに当たってやるなよ」
 突然、背後から聴こえた声に惣次郎は振り返った。
「誰だって寝過ごす事くらいあるじゃねぇか」
 厨の戸口に稽古着姿の歳三が凭れるように立っている。門人達と稽古をしていたのだろう。
 歳三はおかみの返答も待たずに、戸口から身を離すとゆっくりと水甕に近付き、柄杓を取り上げ水を飲んだ。惣次郎は彼の、汗で黒髪が貼り付いた首筋と上下する喉仏を、じっと見つめた。
 あの白い肌はどんな感触がするのだろう。髪はどれほど艶やかなのだろう。
 そう思い手を上げ掛けた時、柄杓が甕を打つ乾いた音が響き、子供は我に返った。
「コイツが寝過ごしたのは俺が周りを巻き込んで遅く迄騒いでいた所為だ。夜に眠れなきゃ寝過ごすだろうよ」
 そう言った歳三におかみは不服そうにしながらも「仕方ないね」と呟く。
「それなら惣次郎、膳を出しておいて」
 惣次郎は頷いて台に乗り、棚の上方に仕舞われている膳を取った。人数分のそれを下ろしながら歳三を窺う。目が合うと、彼は口許を綻ばせた。
 優しげで綺麗な表情だが、惣次郎はむっとした。
 自分の失敗を歳三に助けられたような形になり、それが不本意だと感じる。
 本来なら此処で礼を言うべきなのだろう。不断なら間違いなく惣次郎はそうしていた。しかし、歳三に庇われ、可笑しい事だとは思いつつも、不快にならずにはいられなかった。
 何故、そう感じたのかは判らない。判らないまま配膳し終え、やがて朝稽古を終わらせた門人達が食事をしに居間へと入ってきた。


 朝餉の片付けを終え、惣次郎は井戸へ向かい桶に水を溜め、雑巾を手にして母屋へ向かった。
 彼は先ず調度品の埃を落とし、次いで箒で畳と廊下を掃き、それから床に雑巾をかける。以前は邸の広さ故に直ぐに腕と大腿が痛んだものだったが、最早此れだけで疲労する事はなくなっていた。それでも時間が掛かるのは否めない。部屋を拭き清めて汚れた雑巾を濯ぎ、それを固く絞って縁側へ出た。そこは道場が近い為、稽古の音――掛け声や打ち合う音がよく聴こえる。惣次郎は暫し道場を眺めてから頭を振り、縁側の端へと向かった。彼は雑巾を広げて板目に合わせ、前に踏み出そうと脚に力を込める。
「掃除か」
 不意に掛けられた声に驚き、惣次郎は体勢を崩した。転げそうになった体をたて直し、声のした方を向くと、歳三が可笑しそうに笑っているのが目に入った。
「なんだ、貴方ですか」
 朝餉前の事を思い出し、惣次郎は眉を顰める。しかし歳三はそんな表情など気にしないのか、笑みを浮かべたまま縁側の際に腰を降ろした。
「おめぇは内弟子なんだろう?稽古はしないのか」
 惣次郎は応えもせずに、床に雑巾を滑らせる。乾いた板目が布に含まれた水気に依って僅かに黒味を帯びた。
「おい」
 声を掛けられたが此れもまた黙殺し、惣次郎は床を拭き続ける。
「聴こえてんなら何か言いやがれ」
「そこに座られたら邪魔です」
 惣次郎の言葉に歳三は目を瞠り、そして秀麗な眉を寄せた。それを一瞥して惣次郎は再び手元に視線を戻す。
 剣術の稽古が出来るならやっている。人の気も知らないで何を言っているんだか。
「貴方こそ稽古は良いんですか」
 邪魔だと言ったにも関らず、相変わらず縁側に腰掛けたままの歳三に、惣次郎は目を向けもせずに問う。
「ちょっと息抜きさ」
 返ってきた言葉に惣次郎はむっとした。自分がやりたいと願って止まない稽古を抜け出してきて、しかも息抜きだと貫かす。
 惣次郎は手を止めて歳三を睨んだ。稽古中に休憩と称して道場から出てくる者が他に居ないわけではない。一体何が気に入らないのか、それすらも判らずに惣次郎は歳三を睨み付けた。
 歳三はそんな子供の様子に首を傾げる。
「如何した、疲れたのか。手伝ってやろうか」
「結構です。此れは私の仕事ですから」
 吐き捨てて惣次郎は再び手を動かした。
 歳三は呆れたように溜息を吐く。
「何を不貞腐れてやがる。此れだから餓鬼は…」
「餓鬼じゃない」
 惣次郎は叫び、雑巾を床に叩きつけた。自身に向けられた鋭い視線をやんわりと受け止めて、歳三は口の端を吊り上げる。
「餓鬼と言われてムキになるうちは餓鬼さ」
 反論出来ずに言葉に詰まった惣次郎は、もう一度「餓鬼じゃない」と呟いた。そして雑巾を手に取ると桶に浸し、大して汚れていないそれをごしごしと洗う。
 口惜しいのか悲しいのか、それすら判らずに澱んだ水に浸った雑巾を眺めた。
「稽古に戻ったら如何ですか」
 発した声は自分でも驚くほどに冷たかった。
 歳三は再度溜息を吐いて、漸く腰を上げる。遠ざかっていく砂利の音に、惣次郎は顔を上げた。姿勢の良い後ろ姿を見つめ、子供は小さく息を吐く。
 正直な所、何故歳三に苛ついているのかが判らなかった。
 彼に関わると判らない事だらけになるようで、それが更に子供を苛つかせた。


続く






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2005.10.10