鵺鳥


 父は白河藩士だった。如何いう経緯からか判らないが、浪人となり江戸に住むようになったらしい。
 その嫡子惣次郎に物心がついた頃に父は既に亡く、故に覚えても居ない父を思い出す事もなければ、感傷に浸る事もなかった。依って、父が武士だった事や、奥州白河の出身だった等と聴かされても、別段何かを感じるわけでもない。只、家の中にある大小が、此処に沖田勝次郎と言う名の父が居たという証になっているだけである。
 母は居たが、彼女の事も殆ど覚えていない。顔も思い出せない母の「惣次郎」と自分を呼ぶ声だけが、記憶に残っている程度だ。髪を梳く母の手の温もりすら忘れてしまっている為、彼女が居なくて寂しいと感じた事はなかった。
 早々に両親を喪った幼い惣次郎は、二人の姉と共に慎ましい暮らしをしていた。
 近所の子供達には「貧乏人」などと嘲笑され、大人たちには憐憫の眼差しを向けられる。しかし、己の家庭の事しか知らない惣次郎には、余所がどのような暮らしをしているか、或いは自分がどれ位貧しいのか、武士が如何いうものなのか判らない。だが、一度たりとも腹一杯に飯を食った事がない彼は漠然と、己の家族が困窮した暮らしをしていると察していた。
 内職をする姉の姿を見て、惣次郎は自分の幼さを悔やむ事がある。働けもせず、食うだけの厄介者だと思う事もある。愛情を以って接してくれる姉達に報いる事が出来ない自分を、不甲斐ないと思っていた。


 或る朝、食事が済むなり、姉は惣次郎に着いて来るようにと言い、戸外へ出た。
 何処へ行くのかは判らなくとも、惣次郎は姉と一緒に出掛けるのは此れが初めてで、その嬉しさに頬が緩む。満面の笑みを浮かべて行き交う人を横目にしながら、先を行く姉の手を握ると、彼女は前を向いたまま「ごめんね」と呟いた。何を謝っているのか判らなかったが、此方を向かない姉に些か不安になった。
 暫く行くと上り坂に差し掛かり、遥か上の方に一際幅広な塀が見える。此処迄にも大きな邸はいくつか在ったが、それらとは趣を異にする塀を、惣次郎はぼんやりと眺めながら勾配を登った。
 坂を登りきると彼は、開け放しの門から塀の内部を窺う。質素な母屋の傍らにもう一つ建物があり、なにやら威勢の良い掛け声が聴こえてきた。何をやっているのだろう、と疑問に感じ、惣次郎は姉に問うべく視線を彼女に向ける。姉はその視線に気付かず、或いは気付いていたのかも知れないが振り向こうともせず、その門を潜った。
「姉上?」
 此処に如何いう用があるのか、そして自分を伴ってきた理由は何なのか、それを訊こうと口を開くと姉は漸く弟に目を向けた。
「惣次郎、ごめんね」
 瞳に涙を浮かべた彼女は、惣次郎から視線を外し、袖で目元を拭うと邸の戸を開ける。奥に声を掛けると、人の良さそうな初老の男が対応に出てきた。
「その子かい?」
 男が惣次郎を見て、姉に言う。彼女は、はい、と応えて弟に名乗るように促した。
「沖田惣次郎です」
 しっかりとした口調に、男は「利発そうな子だね」と笑顔を見せ、それに釣られるように惣次郎も笑みを浮かべる。
「この子の事は任せなさい。必ず立派な大人に育てよう」
 男に言葉に姉は深々と頭を下げ「宜しくお願いします」と言い、惣次郎に背を向けた。彼を残して邸を辞す姉の後ろ姿に、惣次郎は此処に来た意味と姉の見せた表情の意味を悟った。
 自分は此処に預けられるのだ。働けない癖に一丁前に飯を食う自分は、口減らしの為に追い出されたのだ。あの家は惣次郎の想像以上に貧しかったのだろう。
 悲しさと寂しさで涙が零れそうになったが、それを堪える。
 男が惣次郎に入るようにと言ったので、子供は草履を脱いで板間に上がった。案内するように先を行く男に着いて行きながら、惣次郎は姉の去った戸を振り返る。
 安心して、絶対に帰らないから。
 子供は心の中で呟いた。
 大人になって、役に立てるように為る迄は帰らないから、と彼を置いて帰った姉に思った。


 惣次郎が預けられた邸は、天然理心流の道場「試衛館」だった。
 彼を出迎えてくれた男は三代目宗家の近藤周助だと名乗り、皆は道場に居るから此方へおいで、と惣次郎を奥へと案内した。
 惣次郎は『道場』が何なのか判らず首を傾げる。判らないながらも周助に着いて行くと、何かを打ち合う音と掛け声が聴こえてきた。此処で子供は、門を潜った時に母屋の横に見えた建物が『道場』と云う物なのだろうと思った。
 中へ入ると、物々しい格好をした連中が剣術の稽古を行っていた。初めて見る光景に惣次郎の目は釘付けになる。掛け声と共に繰り出される竹刀、それを受け止める音、面に当たる音、それらが小さな体を打ち奮わせる。
 凄い。
 惣次郎は思った。自分もやってみたいとも思う。
 周助が声を掛けると、門人達は稽古を止め此方を向いた。その視線は見た事もない小柄な子供に注がれる。周助は彼らに惣次郎を紹介した。直ぐ傍に居た体格の良い青年が「へぇ」と声をあげる。
「こんな小せぇのに偉いな」
 感心したように言う青年を、周助は三年前に養子となった勇だと教えてくれた。いずれ、彼がこの道場を継ぐらしい。
「宜しくお願いします」
 お辞儀をした惣次郎の頭を、大きな手が撫でる。
 目を細めて笑う彼を見て惣次郎は、例え家族と離れていても、此処で頑張っていけそうだと思った。



 惣次郎は試衛館の内弟子として、市谷甲良屋敷の道場に住まうようになった。
 内弟子といえども、惣次郎は竹刀どころか防具にも触らせて貰えない。彼は起きてから寝る迄の殆どを雑用に費やしていた。未だ幼く、要領も悪ければ力も無い惣次郎は、何をするにも時間が掛かる。井戸から水を汲んでくるだけでも重労働だし、勝手の判らない邸の掃除には手間取る。使いに出されても、何処に何が売っているのか今一把握していない所為で、店を何軒も廻る羽目に陥る。
 慣れればさっさと仕事を終え、剣術も出来るのだろうが、今の惣次郎には道場へ向かう余裕すら無かった。おかみに小言を喰らわないように必死に働き、一日が終わると疲れ果てて直ぐに寝入る、そんな日々を送っていた。
 雑用は大変だが、それでも食事の度に満足出来る程度に飯が食えるのは有難かった。それに周助や勇を始め、門人達に親切にされているお陰で疲労すら苦にならず、彼らの為にも頑張ろうという気にさせられていた。


続く



ほも臭くも何ともない話になってしまいました。
歳三は次に出てきます。

因みに
沖田の生年は天保15年説を採用しています。


戻る


2005.5.2