ご挨拶

 皆様こんにちは
 会を代表しましてご挨拶申上げます。まず簡単に自己紹介をし、それから就学支援の活動を始めるに至った経緯を述べたいと思います。
 私は1942年に大阪で生れました。1960年に日東紡績株式会社大阪支店に入社し、総務部に配属されました。1972年に組合専従となりましたがこの時専従職員としての活動に加え、ゼンセン同盟(現UIゼンセン同盟)大阪支部婦人委員会の活動にも参加しました。大阪・御堂筋の環境公害問題に取組んだ「OLプラザ運動」の活動を機に、同盟婦人委員会など活動の輪を広げ、1985年には大阪同盟婦人委員会副委員長、1987年には委員長を務めました。
 1988年、大阪で開かれた男女雇用機会均等法の制定へ向けた公聴会では公述人として意見を述べ「実効ある平等法の制定」へ向けて尽力しました。
 1990年には、ゼンセン同盟特別中央執行委員(女性代表)のほか、連合大阪女性委員会副委員長を務めました。ゼンセン同盟加盟組合の研修会の講師や、大阪府婦人少年室が主催した「パートタイム労働シンポジウム」のパネリストで出席するなど、パートタイム労働者の労働条件の向上運動にもたずさわりました。
 1994年から95年、労働省(現厚生労働省)関連の「紡績産業雇用高度化懇談会」のメンバーとしても参画しました。
 加盟組合においては1994年から2002年まで、特別中央執行委員として、主に女性活動の中心的名役割を担い、後進指導育成に注力しました。あわせて、ゼンセン同盟綿紡部会女性委員会のメンバーとして、男性主体になりがちな組合活動に女性の参画を進めるため積極的に発言してきました。
 一方で1991年の連合大阪第一次訪中団の一員として上海を訪問、中国語を学ぶなど中国との交流を深め、これがきっかけで中国湖北省の学校再建、就学支援のボランティア活動を始めました。
 このような活動を評価され2004年4月に、赤松賞を受賞致しました。この賞はこれまでの私の活動や生き方を背中を押して励ましてくれました。ありがたいことと思っております。
 2002年、日東紡績を定年退職後、中国の文化について理解を深め、語学力を高めるために天理大学国際文化部中国語学科に入学して現在に至っております。
 次に先にも少し述べました中国湖北省の就学支援について経過を述べたいと思います。
 1998年、中国の長江で大洪水が起り、被災者は実に2億4000万人を数える大災害となりました。湖北省嘉魚県牌州湾は被害が特にひどく6万人余の人が他の地域に移り住み、1万人あまりの小、中学校生が就学困難になりました。
 奈良女子大大学院に留学中の学生や奈良在住の留学生が大洪水の被害者救援のチャリティーコンサートを奈良女子大で開催し、多くの人を集め大成功をおさめました。最後に関係者が全員舞台に立ち「大海よ、わが故郷」を涙ながらに合唱しました。彼らは祖国の人々の苦しみを自分の苦しみと感じていたのです。この場に居合せた私も感動で胸が熱くなりました。そして、小学校再建のために少しでも役立ちたいと決心しました。
 継続的援助の必要性を認識しながらも、学業に忙しい留学生たちは時間が無く活動を継続できない状態でした。彼らに代って活動を引継ぐことにしました。職場の仲間、友人、知人に機会あるごとに呼びかけ、一年間で765名の個人、27の団体から200万円余りの募金が寄せられました。
 1999年4月末から連休を利用し、夫、従兄、友人に同行して貰い中国へ向いました。寄せられた募金を確実に学校まで届けるためでした。上海からは奈良に留学していたときに知合った上海外国語大学の蒋歩青先生に通訳として同行をお願いしました。
 学校のある中堡村は武漢から悪路を走ること3時間余りのところでした。私たちは学校の現状を詳しく説明を受けました。私たちが着いたときには、政府と各国やボランティアの支援によって校舎はすでに再建されていました。しかし、備品は皆無に等しい状況で引続いての支援が必要なことを実感しました。
 2000年4月に、一年間の募金活動によって協力して頂いた100万円を持って同じメンバーで、日本で中国語の教師をされている高志芬先生に通訳をお願いして再び中国へ向いました。
 これで備品や運動場の設備等もある程度目鼻がつきました。しかし、この時に水害によって貧困の極みに追込まれ就学困難の子供たちがいることを知りました。器を作っても肝心の学童が行けない、何とかして被災者の子供を就学させたいと思いました。
 帰国後、再建のなった学校の童校長と連絡を取り就学困難な生徒とその内容を知らせて貰い、私たちの許容範囲の12名の生徒への就学支援をスタートしました。
 これが簡単ないきさつです。詳しくは活動報告を見て頂ければと思います。
 ありがとうございました。

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