この活動のきっかけとなった「奈良地域中国留学生学友会」の主催で行われた1998年11月15日のチャリティーコンサートのパンフレットとプログラム

1999年の募金活動と第一回訪中

パンフレットの挨拶文

                           ごあいさつ

 今年7月から8月にかけ、中国の長江(揚子江)や松花江・嫩江流域で今世紀最大規模の洪水が発生しました。洪水がもたらした災害は、10月12日の最新統計によると、被災者は2億4千万人に上り、使者は656人また2千300万人が家や畑を失いました。
 被災者の人々を支援するために、私たち奈良地域の中国留学生は、奈良県日中友好協会、なら日中友好学院の皆さんと一緒に、9月19日、20日、23日の3日間にわたって、近鉄奈良駅前で街頭募金活動を行いました。奈良市民の皆様の暖かいご支援のおかげで、全部で23万円集り、中国駐大阪総領事館を通じて被災地に送りました。
 被害の大きさと比べて、私たちに出来ることは本当に小さいですが、「少しでも役に立ちたい」という気持から、前回の募金活動に引続き、今回のチャリティー・イベントを計画しました。その収益金は、洪水で被害を受けた学校の修復のために支援金として寄付する予定です。災害で校舎が破壊され勉強を中断させられた子供たちが1日も早く学校に戻れるように努力したいと思います。
 最後に、今回のイベントの準備におきまして、多大なご支援をしてくださった奈良地域の各友好団体と友人の皆様に心からお礼を申上げます。また、今回の活動を通じて中日両国人民の友好関係がさらに深まることを心から願っております。

                                               平成10年11月15日
                                           奈良地域中国留学生学友会

♪演者プロフィール♪

蔡 愛琴(さい あいきん)
        中国・南京出身。音楽大学教授である父の影響を受けて音楽に興味をもち、南京芸術大
       学古箏専攻科を優秀な成績で卒業。1992年来日、古箏を通じて中国の音楽や文化の紹
       介に積極的に日本全国で活躍。NHK大阪放送局、朝日テレビ・ラジオ、読売テレビなどに
       出演。97年、(財)アサヒビール芸術文化財団主催アサヒビール音楽賞を受賞。98年、
       (財)国際文化交流事業財団主催第9回在日留学生音楽コンクールに優勝、Asahi Evening
        News Prince を受賞。

王 文超(おう ぶんちょう)
         中国西安出身。陜西省大学武術協会理事。中国武術・太極拳国家一級審判。1997
        年来日、現在、奈良教育大学で体育教育について研究中。

平岡 千佳(ひらおか ちか)
         1971年生れ。’85年ビクター全国縦断カラオケ選抜大会「優秀歌唱賞」受賞。87年デ
        ビュー。その後、KBS京都「ワンダフルナイト」レギュラーパーソナリティー、新歌舞伎座
        出演(舟木一夫ショーゲスト、鳥羽一郎・山川豊と共演など)、TBSテレビ「水戸黄門」出
        演など積極的に活躍。現在OBCラジオ「チチカカ・どぼん」レギュラーパーソナリティー。

蔡 敬民(さい けいみん)
         著名新竹笛(しんたけぶえ)演奏家、新竹笛発明者であり、南京芸術大学音楽教授。新
        竹笛の発明で、中国教育部の「科学技術研究賞」など受賞。中国各地でリサイタルを開
        き、多くのマスコミに取上げられる。中国の音楽家代表としてヨーロッパやアフリカ各国で
        演奏し、高い評価を得る
        ★新竹笛
          新竹笛は中国伝統楽器をもとに、音響学原理と音声生理学比率の見地より研究、改
        良を重ねた結果、考案されたもの。竹笛の胴体に金属キーを結合するという方法で完成
        された竹笛で、一種の新しい民族楽器といえる。伝統的竹笛本来の演奏方法、技法を持
        ちながら十二平均律の3オクターブの音域を演奏でき、伝統的竹笛や簫、フルートといっ
        た複数の音色を出すことが可能である。

シンバヤル
          中国内モンゴル出身。1995年7月来日、現在大阪外国語大学大学院言語社会研究
         科博士課程在学中。
          モンゴルの四弦のホールと馬頭琴の演奏家である父親から影響を受けて育つ。来日
         後、日本の小学生の国語のテキストにモンゴル人の馬頭琴が載っていることに感動し、
         馬頭琴の演奏会や講演を開始。今まで日本各地での演奏、香煙は70回ほどに上る。

星田 都雨山(ほしだ とうざん)
           都山流尺八学会大師範。大阪文化祭奨励賞、都山流本曲コンクール金賞、文部大
          臣賞二度受賞、NHKTV・ラジオに出演。海外での演奏も参加。

北野 仁史(きたの ひとし)
           サウンド・ウィズ・コーク最優秀ギタリスト賞受賞。
           中島光一、野田淳子のバックギタリストとして、ライブツアー、アレンジ、レコーディン
          グに参加。劇団でのミュージカル活動、ジャズシンガー麻生奈津子のバックバンドで
          活躍。

宋 茜(ソン チェン)
            中国音楽家協会会員。上海音楽大学において、声楽を専攻。コロラチュラ・ソプラ
           ノとして上海を中心にリサイタルを開催。また、上海テレビ放送局ではアナウンサー
           からプロデューサーまでつとめ、多くの作品を世界に紹介。日本においては、「日本
           歌曲の研究」にとりくむ傍らなら教育大学大学院教育研究科修了。関西を中心にコ
           ンサート、講演会などに活躍。1996年「第11回全国童謡歌唱コンクール」グランプ
           リ大会において、グランプリ金賞(寛仁親王牌)を受賞。現在、なら教育大学音楽科
           非常勤講師。

小野 剛蔵(おの ごうぞう)
            大阪出身。’70年より、演奏活動を開始。1990年からスタートしたサロンコンサ
           ート「ギターとのひととき」のシリーズは、身近な街の音楽会として、気軽に出かける
           ように工夫を凝らし、多彩なゲストとのアンサンブルを通じて音楽の素晴しさを増幅
           させることに成功。根強い“ひとときファン”、“小野ファン”に支えられて、1998年6
           月まで32回を数えた。現在、奈良YMCA音楽事業委員。ギター・アート・グループ
           役員。

段 氷(だん ひょう)
             中国書道家協会雲南省分会会員。1996年4月に来日、現在奈良教育大学で
            「写経について」研究中。’93年から95年、中国書道家協会主催「全国新人新作
            書道篆刻作品展」、「全国中青年書道家作品展」や、中国書道界で最高レベルの
            書道展「全国書道展」に入選。’97年、「対聯・『孤雲出岫、朗鏡懸空』(隷書)」は、
            中国文化部・中国書道家協会・中国美術家協会主催「世界華人書画展」に入選。
            ’98年、「屈原・『九歌』(草書)」は、日本経済新聞社主催「産経国際展」入選。

チャリティコンサートの最後に関係者が全員舞台に上がり、涙ながらに合唱した「わが愛する中国」と「大海よ、わが故郷」のうち「大海よ、わが故郷」の日本語訳を載せておきます。

           大海よ、わが故郷
 幼いころ母は私に言った
 海は私の故郷だと
 海辺で生れ、海で育った
 大海よ、おまえは私の生きるところ
 風吹き、波は湧き、私をのせ四方を漂う
 大海よ、おまえは母のよう
 世界の果てまで行こうとも
 いつも私のそばにいる

 幼いころ母は私に言った
 海は私の故郷だと
 海辺で生れ、海で育った
 大海よ、おまえは私の生きるところ
 風吹き、波は湧き、私をのせ四方に漂う
 大海よ、おまえは母のよう
 世界の果てまで行こうとも
 いつも私のそばにいる

 大海よ、故郷よ、大海よ、故郷よ
 わが故郷、わが故郷

                      (訳:神田千冬・日中学院講師) 

    

11月15日のコンサートが終った後、奈良地域中国留学生学友会会長の戴 路媛 (たい ろえん)さんが11月27日に朝日新聞のインタビューを受け、報道されました。 

冬が来る前に「母国支援を」と

 奈良女子大学大学院で社会学を学ぶ中国人留学生戴 路媛さん(二五)=写真=は、県内の中国人留学生で組織する学友会の会長も務めている。先日、大洪水に見舞われた母国を支援しようと学友会で企画したチャリティーコンサートを終えて、思わず涙を見せた。
 母国は今年七月、だいこうずいに見舞われ、二億人以上が被災した。未だ、テント生活を送っている被災者も多い。戴さんは「冬を迎える前に何とかしたかった」と、慌ただしかった準備期間を振返る。一五日のコンサートには約二百人が集り、在日中国人の音楽家らの演奏に聴き入った。
 収益金は、被害が一番ひどかった都市の一つ、湖北省・武漢の小学校の再建費として、帰国する留学生に託して届けられるという。「最後まで見届けるのがコンサートに来てくれた人や募金してくれた人への私たちの義務だと思います」 

戴さんからの手紙 ー1998年11月24日

舎川様
 前略
 先日は、コンサートにお越し下さって、暖かいお言葉までいただきまして、まことにありがとうございます。その時、小学校のことについて手紙をお送りすると約束いたしましたが、コンサートの後かたづけなどで忙しく、ついお返事が遅くなり、大変申訳ございませんでした。
 湖北省民政庁からのFax文のコピーを同封いたしました。舎川さんは中国語を読めると思いますが、その主旨を簡単に訳させていただきます。

 「(湖北省嘉魚県正郷中堡村)小学校は、洪水の中で、校舎が全部浸水し、設備が水に流されたり、壊されたりしました。校舎などの建物の修復には76.28万元(その中、校舎のみは53.73万元)、机などの購入には7.53万元、教育設備には15万元が必要である。」

 今回のコンサートは、皆様のおかげで、709,303円が集りました。しかし、小学校の修復にとって足りるものではありません。もし、舎川さんがおっしゃった団体のご協力をいただければ幸いだと思います。
 学友会も今後支援活動をし続けていくつもりですが、どうか、今後ともご応援を賜りますようお願い申上げます。
 とりあえずお願いまで。
                                                   草々
  98年11月24日
                                                   戴 路媛

1998年12月7日
活動を広げるために支援のお願いの文を作成し友人知人団体とうに配りました。第一回目のちらしです。


      中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援のお願い

 ご承知のとおり、今年の夏中国では今世紀最大規模の洪水が発生しました。奈良地域中国留学生学友会から得た情報(10/12の統計)では、被災者2億4千万人、死者3,656人、2千300万人が家や畑を失いました。
 十一月十五日 奈良女子大学でチャリティーコンサートが開かれ、会場で中国留学生学友会会長戴さんが、湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校に収益金を送りたいと話されました。この地方は特に災害がひどかった地域で留学生の一人がこの地方の出身者だった関係で支援を決めたそうです。
 コンサートの後で詳しい話を聞きますと、1,200万円ぐらいのお金が必要だそうです。
 コンサートの最後に舞台で「我愛?・中国」の歌を出演者と留学生が斉唱した時には泣出す留学生もいました。
 今なおテントで勉強している生徒たちのことを思い浮べ、カンパ金を募り届けたいと思っています。ご協力を賜りますようお願い申上げます。
 学校が再建するところまでいけば“日中友好建校碑”を建立しても良いかなと考えています。


                                 住所  奈良市西大寺国見町2−324
                                 TEL  0742−43−7731
                                      舎川 宏・和子
                                      
                                       1998年12月7日
      

1998年12月7日
中国湖北省嘉魚県のより詳しい状況を入手するために上海外国語大学の蒋 歩青先生に手紙で問い合せをしました。

                 手紙の大要(原文中国語)
 蒋 歩青先生
  久し振りに手紙を書きますが、お変りありませんか。常常あなたとあなたの家族のことを思っております。私たちは仕事に忙しくしておりますが元気です。どうぞご安心下さい。
 今年の11月15日奈良女子大学で中国大洪水被災者支援のチャリティーコンサートが開かれました。奈良地域中国学友会会長戴路媛さんがこの義捐金を中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援のために送りたいと言いました。音楽科の最後に出演者と留学生が全員舞台に上がり「わが愛する中国」を斉唱しました。この時泣出す留学生も居ました。この様子を見て私たちは義捐金募集の活動を決めました。どのくらいの金額を集められるか解りませんが精一杯の努力をするつもりです。私たちは義捐金を合正郷中堡村小学校再建支援に使いたいと思っています。私たちがこの小学校に決めた理由は戴さんの友達の一人が湖北省のこの地区の出身だったこと、この地方の被害が最もひどかったことです。
 もし小学校再建が実現したら私たちは“日中友好建校の碑”を建てたいと希望しています。ところで中国政府の機関を通す事にある種の不信感を持つ人もいます。そこで私たちは下に述べることをどうしたらいいか、あなたの考えを聞かせていただきたいと思います。
 @合正郷中堡村小学校再建の状況。
 A学校への送金方法。
 B義捐金の使用計画とその結果を募金に応じてくれた人に知らせることが出来るかどうか。
 Cこの地方の人たちの生活状況をお知らせ下さい。
 募金に応じてくれた人たちは裕福な人ではなく、彼らは苦しい中から捻出してしてくれました。だから、私はこの人たちに使用方法とその結果を説明する責任があると思っています。
 将来、私と夫は必ずこの小学校を見に行きます。
 お忙しいと思いますが私たちに出来るだけ早く返事を下さいますことをお願いします。

                                                  舎川宏・和子
                                                  1998年12月7日
         蒋 歩青先生

1998年12月25日 
下記の人たちの協力を得て「中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援の会」を結成することが出来2回目のちらしを作成し配布しました。(内容は12月7日と同文)

会員名
  舎川 宏・舎川和子・岩村守俊・榎本悌爾・北田麻乃・新保雅子・松浦 武・森川巳三・森川久子
 

1999年2月8日
「中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援の会」の名前で第三回目のちらしを作成し配布しました。この時のちらし、メンバーは下記のとおりです。

       中国湖北省合正郷中堡村小学校再建支援のお願い

 新聞やテレビで報道されましたが、昨年夏中国で100年に一度という大洪水が発生しました。2億4千万人が被災し3,656人が亡くなりました。 
 湖北省嘉魚県合正郷中堡村は、特に被害がひどい地域で村の人口10万人中被災者は6万3千人余りに上っています。学校も家も水に流され、現在田畑も穀物を植えることが出来ない状態です。子供たちはようやくテントの学校で勉強しているとのことです。
 奈良女子大学で行われましたチャリティーコンサートに行って、この洪水の規模の大きさと悲惨な状況を知り、中国留学生の意を受けて、せめてこの村に小学校一校(設備を含めて約1000万円)岳でも再建したいという思いで、支援カンパを募りはじめました。
 どうぞ一人でも多く善意の輪を広げて下さいますようお願い致します。
 4月末に書き世話人の代表数名が、それまでに集ったお金を持参し、現地を見てくる予定です。支援して下さいました方のお名前、住所等も先方の学校へお届致します。 
 その後、何らかの方法で現地の様子等もお知らせしたいものと考えています。
 ご協力賜りますよう重ねてお願い申上げます。

       中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援の会

会員名
  舎川 宏・舎川和子・井尾信子・岩村守俊・榎本悌爾・鍵田節哉・北田麻乃・高 志芬・佐伯快勝
  新保雅子・田中博夫・中山登志美・林 誠子・松浦 武・森川巳三・森川久子

1999年2月12日
「中国湖北省嘉魚県合正郷中堡村小学校再建支援の会」の名前で第四回目のちらしを配布しました。
ちらしの内容は2月8日と同文。メンバーは下記のとおりです。


会員名
  舎川 宏・舎川和子・井尾信子・岩村守俊・榎本悌爾・鍵田節哉・北田麻乃・高 志芬・佐伯快勝
  佐々木三男・新保雅子・田中博夫・土田 康・内藤伸彦・中山登志美・林 誠子・松浦 武・森川巳三
  森川久子

1998年12月17日
蒋 歩青先生から問い合せた手紙の返事が届きました。以下の文面です。(原文は中国語)

舎川 宏、和子様
お手紙いただき大変嬉しく思いました。手紙にはあなた方の友情と善意のこもった、お気持と、行為が書かれてあり、深く感動しました。
 今年の中国の洪水は大変多くの人の心を奪い、私の家族、各職場、学校はみんな寄付をしたり、衣服を送ったりしました。数カ月前にはテレビで特大級の洪水の実態が報道され、人々の涙をさそいました。最近になって小学生がテントで授業を受けているのが見られるようになりました。完全に修復するまでには、まだまだ長い道のりだと思います。
 私は上海団委(青年の組織)に連絡をとりました。この組織は希望プロジェクト(学校に行けない子供に援助して就学させている)を長年行っています。全国各地の貧困地区に援助して建てた小学校は500校余りあり、援助した生徒の数は数えきれません。私たち家族もこのプロジェクトに加入していて、義捐金で、すでに2名の子供を、小学校を卒業させました。一人は広東山区の少数民族の男の子で、もう一人は江西山区の女の子です。私たちと彼らは連絡を取りあっています。新年を迎える時には、彼らに少しばかりの物をプレゼントします。
 市団委はさらに希望プロジェクトの視察団を組み江西省に視察に行きました。数年前、勤勤と中学生、小学生の子供たちは一緒に参加して、江西へ行ったことがあります。
 私はこの組織の活動はすばらしいと思いますし、信頼に値すると思います。あなた方がお知りになりたい状況について彼らは次のように言っています。

 @今年の洪水はとても深刻で厳しいもので、先日嘉魚県の団委員責任者が上海市に来て希望小学校のこ   とを話合いました。現地の様子はテレビや新聞で報道されているとおりです。もしご希望でしたら当地を訪   ねることもできます。支援先では義捐金を寄せる人の要望に添うとのことです。
 A義捐金は代理人を通してでも良く(私又は他の留学生等)為替又は現金を手渡すと、領収書を発行し、代   理人が望めば希望プロジェクト執務室が協定にサインし、さらに現地の協定にもサインし、お金の使用状   況、プロジェクトの進み具合等詳細にお知らせすることができます。
B援助を受けた小学校の名前については義捐金を送った人の名前や職場の名前をつけることは可能です。
  (この種の義捐金で建てられた小学校はすべて希望小学校と称されています。)建設後、記念碑を建てたり、 その上に名前を彫ったりすることも可能です。竣工式や事前においでになることも歓迎します。

 以上、私が知り得た情報です。もし、わかりにくい点、疑問等ありましたら再度お便り下さい。ファックスでもいいです。私はできる限りのことをさせていただきます。もし留学生が帰国し、この件で働こうとするなら、私は力になりたいと思います。
 最後にクリスマスおめでとうございます。お幸せをお祈り致します!
                                               蒋 歩青
                                               1998年12月17日

1998年12月21日
蒋 歩青先生から中堡村の続報が入りました。(原文は中国語)

舎川 宏・和子様

 17日に出しました手紙は届きましたでしょうか、今日、私は再度得た情報をお知らせします。
 合正郷中堡村小学校の元の名は光明小学校といい、湖北省嘉魚県牌州湾に位置しています。牌州湾の面積は訳160万平方キロメートルで人口約10万人余りです。8月の洪水では特に被害の大きかったところで、牌州湾での損失は特にひどく、堤防が剪れたところでは63,000人が被災し、被災者を救おうとして19人の人が犠牲になりました。牌州湾が決壊した後、長江に堤防を築いた時に自然に形成された多くの生活地域は水浸しになりました。10月に水が引き始め被災者は続々帰ってきましたが、無情な洪水はすべてのものを流してしまい、33メートルの大きな窪みを作り、決壊した堤防の長さは760メートルにも達しました。土壌は2メートルの深さまで砂漠化し、穀物を植えることはできません。現在、砂を窪みに入れて新たに堤防を築いています。このために必要な経費は5千万元(約7億6500万円)で、来年4月に竣工予定です。そのほかに自己救済する野菜を作ったり、家を建てたりする活動を展開しています。大堤防から200メートル離れたところに新しい村を作る計画で、人口が比較的集中するので牌州湾に19の小学校を建て、それぞれに19人の烈士の名を命名します。このようなわけで、将来、中堡村小学校の規模は拡大して6,7百人になり、そして一つの小学校には最低60万元(約918万円)必要です。中堡村等の地方にはすでに調査の人が来ていますが、今まだ資金は届いていません。このようなわけで嘉魚県の委員団を上海に派遣して支援を求めました。年末で一番忙しい時に被災地区に関心を寄せて下さった方々にお礼の気持を伝えて下さい。希望小学校が建ちましたら中日の世代の友好の橋渡しができ、小さな力を尽すことが、心からの喜びにつながると思います。新しく情報を得ましたら随時ご連絡します。
 乱文乱筆をお許し下さい。
                                                 草々
                                                   蒋 歩青
                                              1998年12月21日

1999年1月6日
蒋 歩青先生にこちらの活動状況と中堡村への同行依頼の手書を出しました。(原文は中国語)

蒋 歩青先生
 新年おめでとうございます! 12月17日、21日の手紙受取りました。ありがとうございます。返事が遅くなって本当に済みません。まず私は蒋さんに電話をしようとしましたがつながりませんでした。友達が教えてくれた電話番号でもつながらず諦めました。
 現在、私たちは義捐金の募集の活動を始めましたが私はこの活動は簡単でないと思っています。なぜなら私の会社の組織はすでに中国の組合に義捐金を送金していますので、私はこの組織を当てにできません。私の友達の一人が高額の援助をしてくれるはずでしたが彼女の都合がつかなくなりました。また、日本の景気が大変悪いということです。
 このように環境は良くありませんが私は必ず最大の努力をして学校再建を手伝いたいと思っています。
 4月の終りか5月の初めに私たちはお金を持って嘉魚県を訪問するつもりです。その時に、もしできたら、私たちと一緒に行っていただけませんか。どうでしょうか。
 私は私たちの状況をできるだけ報告します。あなたが私たちを暖かく手助けして下さることに、私は衷心より感謝しています。
 何事も順調でありますようにお祈り致します

                                           舎川和子
                                           1999年1月6日

1999年2月22日
蒋 歩青先生よりファックスがありました。(原文は中国語)この手紙の中にある蒋さんからの問いかけには3月1日にファックスで知らせました。

舎川和子様
 こんにちは!手紙を早く受取っていましたが返事がまだでした。といいますのも、春節の間親戚の家へ行ったり実家へ帰ったり、また、家族旅行などで忙しくしていて家を留守にしていました。今日、白浜先生から連絡がありました。本当に済みません。
  義捐金のことですが、もしあなた達が4月の終りに中国に来られるなら2日の休暇とメーデーの休みを利用して一緒に行くことができます。中国に何日滞在し、いつからいつまで、人数、義捐金の金額等が私には解りませんが、これらの状況が解った後にすぐにこちらの団委に連絡をとります。義捐金の贈呈式は必要ですか。どんな儀式を希望されますか。記念碑の建立と記念碑に刻むのはどんな文言ですか。できたら事前に具体的なものを提出できるなら私が連絡に行きます。
 嘉魚県合正郷中堡村以外にどこかへ行くつもりですか。武漢までは飛行機にしますか、それとも汽車にしますか。上海に2,3日逗留できますか。等々、具体的なことをお知らせ下さい。
  最後にご健康と仕事が順調であることをお祈りします。
  ご主人によろしくお伝え下さい。
                                               蒋 歩青
                                                1999年2月22日夜

1999年3月14日
世話人の人たちに状況の報告とお願いを送付しました。

世話人の皆様へ

 奈良の修二会も終りいよいよ本格的な春の訪れになります。
 その後お変りございませんか。いろいろなご事情がおありにもかかわらず世話人に当っていただき感謝申上げます。
 さて2月末の中間集計を別紙のとおり作成しましたのでお送りいたします。
 世話人の中で舎川宏、舎川和子、中山登志美、内藤伸彦の4名が4月28日出発し、現地を訪ねる運びとなりました。帰国後、現地の様子等ご報告させていただきます。
 募金は1000円でも多く持参したく、学校建設に向けて一層支援活動を進めて下さいますようお願い申上げます。
 上海外国語大学の蒋 歩青さんのご紹介もあり、希望プロジェクト(中国では希望行程)を学校建設を進める予定です。中国でのスケジュールは上海から武漢経由で現地に入りますが、蒋 歩青さんに同行を依頼しているところです。併せてお金の授受が明らかになるよう現地の新聞掲載も要望しています。
 嘉魚県のこの村では被災者を助けようと19名の方が犠牲になり、村は19名の烈士の名前をつけた小学校を建設したい意向です。そこで村の人たちの気持を汲んで募金の中から19名の烈士のご遺族に香典(一万円×19)をお渡しした後で、その中の一校の建設のためにお金を用意したいと考えます。蒋 歩青さんの活動費用と香典をご了承いただきますようお願いいたします。
 前回お願いしました自己紹介のカードはまだ全部そろっていませんので、そろってからお送りしたいと思っております。
 なお持参する募金の〆切は4月20日頃とさせていただきますので、それまでに再度支援推進をお願い申上げます。

                                                 1999年3月14日
                                                舎川 宏、舎川和子

1999年3月15日
1999年3月1日に蒋 歩青先生に出したこちらの訪中日程とメンバーなどを知らせた手紙に対する返事が届きました。(原文は中国語)

舎川和子様
 ご機嫌いかがですか。今日手紙が届きました。あなた達の計画を読んで、私はすぐに上海希望プロジェクトの事務所と連絡をとりました。答は以下の通でした。
 湖北省嘉魚県牌州湾中堡小学校はすでに校舎が再建されていて授業を再開している。これはこの地区が災害がひどく復興最重点地区の一つであることによります。だから国の支援の他にも多くの義捐物資が送られました。学校は施設などのハードの面では大きな改善ができました。でも、教師の水準が低くソフトの面ではまだ不充分です。教育の効果を高めるために上海には全国貧困地区教師養成センターがあります。そこでこの建設義捐金を以下に記す中の一つに用いられてはどうか、との提案がありました。
 1、全国貧困地区教師養成センター基金にして上海へ来る教師養成の旅費等に当てる。
 2,雲南省で建設中の三カ所の希望小学校に贈る。
 3,上海にいる貧困学生の支援に当てる。
 
 そのほかに彼らは人出が少なく、資金も力もないので非常に遺憾ですがあなた達の旅行の手配も歓迎会もできません。また、外国の友人に招請状を発行したことがありません。義捐金は彼たちが代理で管理し有効に用います。支援してくれた職場と個人への連絡もします。とも言っています。
 ビザの発行には招請状が必要になると思いますがこちらで日本語のできる添乗員いる旅行社を通せば招請状はとれます。旅行社へは私が行きます。
 もし事情に何か変ったことが起っても、日程に大きな変更は無いですよね?私の考えで日程をちょっと組んでみました。参考までにどうぞ。
 私は4月29日から5月1日まであなた達と一緒に行くことができます。武漢行きの飛行機の予約、汽車の切符の手配、ホテルの予約など、すべてがこちらにあちらの手配をする旅行社がないのでできません。このように不定要素が多いのでやや冒険的です。ホテルの条件も良くなく、また汽車の切符も買えるかどうかわからないのですが、もし、嘉魚県の関係者と連絡が取れれば費用も比較的少なくて済みます。前提条件として私が連絡がつけられた時ですが、今日も嘉魚県に電話連絡を入れましたが誰も出ませんでした。
 4月28日及び5月2日3日の上海のホテルは問題ありません。計画がはっきりすれば私が上海外国語大学へ行って2部屋予約しておきます。
 私は引き続き連絡の取れていない嘉魚県の関係者と連絡をとるようにします。連絡が取れ次第あなたに新しい状況を報告します。
  3つの方法を参考までにお知らせしました。
  すべてが順調に運ぶことを祈っています。
                                                  草々
                                                    蒋 歩青
                                                      3月9日夜
 







1999年3月16日
蒋 歩青先生の手紙に対して、すぐに以下のような手紙を書いて送りました。(原文は中国語)

 蒋 歩青先生
 
 3月9日付の手紙読みました。ご協力に感謝します。今、私はとまどいを感じております。というのは、今回私たちの募金活動は大洪水の被災者、合正郷中堡村小学校の再建のためのものでした。それで、そのほかの目的、先生の養成基金、雲南省希望小学校の建設などに流用することはできません。
 募金の金額はだんだん多くなってきています。現在150万円になりました。私たちはこのお金を中堡村小学校の教育設備、椅子や机などに使いたいと考えます。
 それから私たちの旅行は「上海春秋旅行社」の王純さんを通して手配を依頼しようと思いますが良いでしょうか。1994年に私たちはカシュガル、ホータンなどへ行きましたがその時彼女が手配してくれました。私は彼女はたいへん有能な人だと思いますし、彼女の夫もまた復旦大学の教授です。どうぞ彼女に私たちの状況をお知らせ下さい。彼女は必ず私たちに協力してくれると思います。まず、私たちの招請状を発行して貰ってください。
 私は仕事がたいへん忙しくわずかの時間を作って領事館へ行き手続きをします。私たちの希望の旅行日程は以下の通りです。

 4月28日 大阪から上海  12:55発14:30着  (上海外大2部屋予約お願いします。)
 4月29日 (午前中は蒋さん授業のため)午後武漢へ飛行機で
 4月30日 午前、マイクロバスで中堡村へ
 5月1日  景徳鎮
 5月2日  午前に飛行機で景徳鎮を出発して上海へ
 以後は中山さんの会社がすべて手配してくれます。

 4月29日から5月1日の私たちと蒋先生の飛行機、ホテルのなどの予約をお願いします。蒋先生の費用は私たちが負担します。
 

1999年3月23日
この日まで嘉魚県の様子がわからなくて、上海の蒋歩青さんや白浜先生などとも連絡を取りあっていましたがこの日ようやく、大阪の「実用中国語学院」の高志芬先生から嘉魚県の教育委員会と連絡が取れたとファックスが入りました。そして、3月25日、高 志芬先生は嘉魚県教育委員会許高学さんに我々のビザ発行のための招請状を送ってくれるようにファックスで依頼されました。またこの日は蒋歩青さんに上海、武漢間の飛行機の予約をファックスでお願いしました。日本で買うよりも現地で買った方が安く手にはいるとの情報を得たからです。
本当にいろいろな人に助けられながらの活動です。

1999年3月25日
蒋 歩青先生宛にFax(原文は中国語)

蒋先生;こんにちは
あなたからのお手紙をまだ受け取っていません。
昨日、私はあなたに中国国内の旅行の手配は必要ないと申しましたが、今日、私は航空券は中国旅行社を通じて買うより安いと知りました。そこで、あなたを煩わせて大変恐縮ですが航空券を購入していただきたいのです。
4月29日 上海(PM2:25)→武漢  全部で5人分 そのうちの一人は蒋 歩青先生です。
5月2日  武漢(AM9:50)→上海 4名分 (あなたは1日早く上海に帰られるのでしょう?) 

結果をどうぞお知らせ下さい。 あなたは大変忙しいのに、お手を煩わせて私は心苦しく思っております。

                                                        舎川和子
                                                        3月25日

このファックスに直ぐに蒋 歩青先生から次のような返事が来ました。(原文は中国語)

舎川和子様

ご機嫌いかがですか!ファックス受け取りました。私はすでに王艶さんと連絡をとりました。今回の旅行は彼女が手配しています。
航空券の件については旅行社と民航の発券所に問い合わせました。その結果、民航の規定により今年の2月1日より航空券はすべて割引が出来なくなりました。それで今回の上海、武漢間の航空券は650元のみとなりました。そういうことで今は航空券を買うのは非常に買いやすくなり予約の必要は無くなりました。その上、上海、武漢間は1日たくさんの便があります。私は4月上旬にもう一度行って予約しようと思っています。もしかしてその時になると政策に変化があって割り引きできるようになるかも知れないからです。ホテルの部屋も心配は要りません。いつでも探せます。私は、今はまだ早すぎて4月上旬に予約に行けばいいと思います。
私はもっとも遅い場合でも、5月3日の授業のために5月2日に上海に帰らなければなりません。もし何事もなければ私は1日に上海に帰ります。
それから上海の西に大変規模の大きな景徳鎮陶磁器上海芸術センターがあり、景徳鎮の精巧な商品が集められています。29日の午前中時間があれば行くことも出来ます(住所は大渡河路1253号/金紗江路から梅川路の間)。28日の夜は旧市街に行かれてはどうでしょう。そこに陳列されているものはすべて二,三十年代の上海の本物です。当時の上海の気分を体験できます。またガラス工房もあります。そこでは自分で作ることも出来ますし、作りたいものを技術者に作って貰うことも出来ます。(茂名南路158号/復興中路口・瑞金大厦向かい)

                                                           蒋 歩青
                                                          3月25日
 
1999年3月27日
蒋 歩青先生から3月20日に出した手紙が届きました。この手紙が来ないので用件はファックスで済ませていましたが本文は以下のようなものでした。

蒋 歩青さんからの手紙(原文は中国語)

  舎川和子様
  ご機嫌いかがですか
  ファックス受け取りました。私はその日に王艶さんと連絡をとりました。彼女が言うには、日にちと何をするのかがはっきりしないので武漢にはまだ問い合わせていない、とのことでした。私はあなたの職場のファックス番号を彼女に知らせておきました。そして、彼女に直接あなたと連絡をとらせました。これでいいですね。

  その他に私は嘉魚県のハンインさんと連絡が取れました。彼女は武漢方面(旅行社)から情報をとっています。彼女が私にたずねていますが、あなた方はどのようなことを望みますか。状況等について、そして贈呈式や新聞の記事などについてです。
  贈呈式の内容、順序等詳しく私にファックスしてください。それから、又私はあなたにファックスします。義捐金の金額は学校の設備等に充分で余った分はどのように利用するかこちらに来られてから相談するのもよろしいかと思います。義捐金を受け取った後証明書を発行しその後用途をご報告します。
  もし何か補足する要望又は建議がありましたらお知らせ下さい。すみやかに彼女と連絡をとります。私が思いますには募金の様子を詳しく書いた資料があればよいと思います(発起人、どのようにこの活動を行ったか、団員を結成して視察に及んだか等)このことは彼女が新聞掲載や贈呈式場での発言の参考にします。日本語で書かれたら私が翻訳してハンインさんにファックスします。

     何事も上手くいきますよう。
                                                 蒋 歩青
                                                         草々
                                                    1999年3月20日
                                                                       
1999年3月29日
蒋 歩青先生にお礼の手紙を出しました。(原文は中国語)

   蒋 歩青先生: こんにちは!
  28日に出張から帰ってあなたの手紙を読みました。ありがとうございました。この間(3月24日)あなたに電話した時に言いましたように、嘉魚県の教育局と連絡が取れました(これは一人の中国語の先生、高先生の助けによります。彼女はこの度の援助者の一人で義捐金もたくさんいただいています)。
  現在のところ私は嘉魚県教育委員会の許高学さんと連絡をとっています。私は彼にファックスを送りました(3/25)そこで私はこちらの要望を告げました。それは以下のようなことです。4月29日から5月1日の武漢の手配、4月29日に武漢飛行場まで迎えに来て欲しいことなどです。私はハンインさんの職場を知りません。それで彼女に許高学さんと連絡をとり、私達の活動を分かって貰えるようにしていただけませんでしょうか。
  航空券がとれたら直ぐに私宛にファックスをお願いします。というのも私は許さんに私達の武漢到着の時間を知らせなければなりません。あなたが私達と一緒に嘉魚県に行って下さるという事は本当に嬉しいことです。もう一度あなたの助けに感謝します。
  ありがとうございます。

                                                 舎川和子
                                               1999年3月29日


1999年4月1日
ようやく湖北省嘉魚県の教育委員会から招請状が届きました。

教育委員会からのファックスです。(原文は中国語)

  中国湖北嘉魚県教委
舎川和子さんたち4人の日本の友人を私達の県にお招きする件
  被災地区援助教育係

舎川和子様
  ご機嫌いかがでしょうか
  ファックスをすべて受け取っています。県政府、県教委は今回のことを非常に重要視しています。接待の専従班を立ち上げ、広報、撮影、義捐金贈呈式などの手配は既に済んでいます。ここにあなた及び舎川宏、中山登志美、内藤伸彦さん等4人の被災地ご訪問に関しご招待いたします。私達はあなたたちの来られるのを熱烈に謹んでお待ちします。この場をお借りして、私達は被災地区、被災児童を代表しまして心より感謝し、日本の友人の人間としての真心を広く伝えられたことに感謝の意を捧げます。あなたたちの功徳は永遠に私達被災地区の児童の心に刻まれることでしょう。
  最後に、あなたたちの旅が楽しいことであることをお祈りいたします。


1999年4月2日
これに対して直ぐに高先生から私達の活動のいきさつ等を書いた長文のファックスを許高学さんに送って貰いました。この文は私達のこれまでの活動を要約されていますので長いですが翻訳して掲載します。

高先生から許高学さん宛のファックス(原文は中国語)

  許さん、招請状受け取りました。ありがとうございます。
  今回の連絡は以下に述べる事柄です。
(1)舎川さんたちの訪中日程は4月28日から5月4日です。28日から29日は上海で上海外国語大学の蒋歩青教授の接待を受けます。29日午後蒋歩青教授(女性)を伴って貴県を訪問します。5月2日上海に戻り上海の日本の会社の接待を受けます。それで、4月29日から5月1日の活動を教委に手配していただきたいのです。決まりましたら日程表を送って下さい。
(2)義捐金の使用計画、どの小学校に使うか、何に使うかなど。彼女が日本に帰国後支援者に報告します。
(3)義捐金の贈呈式の形式について、時間、出席者など具体的に内容を彼女に事前に通知されることを希望して います。彼女は挨拶にどのような発言をするか原稿を書く準備がしたいのです。舎川さんは中国語で話します(5〜6分)その他の人も日本語で話します。(長くても2〜3分)これは蒋歩青教授が翻訳します。準備された話のほかに当然ですが自由に会話も可能です。お任せいたします。
(4)儀式の参考に供するために、下に舎川さんの募金活動の経過を簡単に書きます。その他の資料(援助してくれた職場など)は訪問の時に持って行きます。

    舎川さんの義捐金、募金経過
  1998年11月15日に奈良女子大学でチャリティーコンサートが開かれました。この会で留学生学友会の戴会長がこのコンサートの収入のすべてを湖北省嘉魚県合正村中堡小学校に義捐金として送ると挨拶しました。それというのも、この一帯は中国で今世紀最大の洪水の被害の最も大きかった地区で、なおかつ一人の留学生の故郷でもあったからです。
  コンサートの最後に留学生たちは全員壇上に上がり“わが愛する中国”(我愛ニイ・中国)を斉唱しました。中には涙で声にならない留学生もいました。このコンサートは中国語を学ぶ舎川さんやその他の参会者に大きな感動を与えました。コンサートの後も、街頭募金をする留学生たちやテントの中で授業を受ける被災地区の小学生たちの姿が脳裏を離れませんでした。それで彼女は被災地区の小学校への支援のための募金を決心しました。彼女の思いは夫や友人の森川夫妻の支持も得ました。舎川夫妻は直ぐに湖北省生産救災指導グループ公室が奈良地区留学生学友会宛に送った手紙を、仕事が終わってからの時間や、休日を利用して日本文に翻訳し、これらを材料に募金の趣旨を書いたパンフレットを作成し、方々に配り、ファックスし、電話で連絡し、親しく友達を訪ねるなどあらゆる方法で義捐金の募金活動を始めました。彼たちの苦労は筆舌に尽くしがたく、3月の終わりに義捐金は150万円になりました。金額は少ないとは言え、これは代表の舎川夫妻及び各支援者の遙か大海を隔てた被災地人民への心情溢れるものです。それで彼女はゴールデンウイークの休みを利用して夫と親戚の一人及び友人の一人合計4人で、自費でもってこの義捐金を届けることにしました。
  今、日本経済は不景気で銀行も企業も経営が悪化し倒産も続いています。失業率も歴史上最高の水準にあります。多くの人たちは前途に不安を抱き多くの家庭ではすべて出費を減らしています。この経済困難な時期に舎川さんはどうしてこのような募金活動をしたのか。彼女は自ら以下のようにその理由を行っています。
(1)彼女はずっと中国語を学び中国の友人が多く中国に対して特別に親近感がある。
(2)中国は日本の文化の故郷であり、歴史上、日本は中国から多くのことを学んだ。
(3)但し、近代に不幸な戦争が起こり、日本は中国人民に大きな災難をあたえた。にもかかわらず、中国人養父母は日本人の孤児をあたかも我が子のように養って大きく育てた。
(4)子どもたちは中国の未来であり、日中友好の未来でもある。それと援助するのは特定の地区の学校で支援者がその成果を簡単に見ることが出来る。
(5)洪水は自然が起こす災害である。これは政治や信仰等を超越して多くの方面の賛同や支援を得ることが出来る。
  ひたすら彼女はこのように願っているのだが現実はとても残酷です。経済が縮小している日本では、商品を売って対価を得る営業マンさえ非常に困難な状況にあり、まして彼女には売るべきものもなくただ言葉だけでお金を出して貰うのです。容易ではありません。下に彼女が募金活動中に味わった辛酸労苦を記します。
(1)富裕でない人ほど多くの義捐金を出してくれる。或る癌の末期患者の人はお金を出してくれただけでなく手紙で彼女を励ましてくれた。彼女は意外の感に打たれた。
(2)不断は余り親密でない友人は、彼女の説明を聞いて直ぐに会社の人たちと一緒に街頭に立ち、募金活動をしてくれた。これは彼女を感動させた。
(3)手紙を出しても何の反応もない人がいた。;不断はとてもいい友達だと思っていたのに人に対しては少しの援助もしない人もいた。このことは彼女を悲しませた。
(4)組織の中の一人中山さんは彼女の従兄で最も早く賛同し彼女夫妻と一緒に現地まで義捐金を届ける。これは彼女を喜ばせた。
(5)夫妻は仕事をしながらこの活動をしている。彼らは人生において本当に忙しさを味わっている。しかし、一旦始めると最後までやり通すのが彼女の性格です。さらに重要なのことは、彼女が支援者の厚意を中国に届けるために、責任を持って中国へ行かなければならないと思っていることです。彼女の責任感がそうさせるのです。
(6)日本に住んでいる中国人の先生(高 志芬)、上海に住んでいる中国人の先生(蒋 歩青)の連絡の仕事などの熱心な手助けも彼女の思いをさらに強くした。

  舎川夫妻及び支援者の希望
(1)洪水で犠牲になった19人の人たちの家族に各一万円を香典として送りたい。
(2)この度の支援者の名前、グループ名を日中人民の友好の証として保存したい。
(3)この度の活動を機会に友好交流の活動を開始して、相互理解の基盤の上に継続し交流を深めることを希望する。
  
1999年4月6日
4月6日に日程表がファックスで届きました。(原文は中国語)

   舎川和子様ほか日本の友人一行の教育を援助するための来県に於ける活動手配の件

舎川和子様ほかの日本の友人は被災地に情けを掛け、牌洲湾の教育に心をくだき万里を遠くとせず中国湖北の嘉魚県に来られます。あなたたちが被災地の児童に思いを深くされましたことを私達は永久に心に刻みます。ここに、あなたたちの厚意と要望を私達の具体的な状況と考え合わせ下記のように手配します。
  一、行事日程
   4月29日 武漢飛行場に日本の友人を迎えに行き、嘉魚ホテルに宿泊
   4月30日 牌洲湾中堡小学校見学、義捐金贈呈式、洪水との戦いでなくなった9人の記念碑に献花。
   5月1日  三国志古戦場見学ー赤壁
   5月2日  日本友人を武漢飛行場へ。
  二、義捐金の支援対象及び用途
    募金の初志に基づき、この募金は牌洲湾中堡小学校の再建のために使うことを合意します。
  三、贈呈式
   4月30日午前10時より贈呈式を行います。その次第は
   @県教委主任李茂宋による水害の実情と再建の状況の説明
   A舎川和子さんの募金活動の状況説明
   B義捐金の贈呈
   C児童からの花束贈呈
   D童方保校長よりお礼の言葉
   E県教育長の挨拶。
                                             一九九九年四月六日
                                              嘉魚県教育委員会


1999年4月8日
蒋 歩青先生からファックスが届き、外国語大学のホテルの二部屋が予約できたこと。武漢までの往復の飛行機の時間等の問い合わせが有り、情報として嘉魚県の希望行程とも連絡が取れたが、教育委員会側は希望行程とはこの件に関しては関係がないといっている、というようなことでした。


1999年4月9日
蒋 歩青先生宛に直ぐにファックスして、飛行機は武漢行きは29日、13時55分。帰りの上海行きは5月2日、9時50分を依頼。
希望行程に関しては、最初連絡をとろうとしたが主旨が違うことビザの発給が出来なかったことなどから、今回の件では希望行程とは協力できない旨を知らせた。その上で、別途希望行程にも義捐金を渡した方が良いのなら2,30万円を渡せると知らせました。



1999年4月9日
4月7日に高先生から領事館と連絡が取れたので9日以後ビザの発注を受けに行くようにというファックスが入ったので9日に領事館へ行くと即日発行して貰えた。その時にはお茶の接待もあり私達の活動が認めて貰えたことが解って嬉しい気分になる。

1999年4月12日
9日のファックスの返事が蒋 歩青先生から届きました。以下のような文面でした(原文は中国語)。

  舎川和子様
 9日のファックス受け取りました。ありがとうございました。
 5月2日午前9時50分の航空券5枚すでに予約してあります。出発の数日前には受け取っておきますので心配なさらないでください。
 この前、インターチェンジの路の名前を間違っていました。ごめんなさい。“在広中路下”で“在水電路下”ではありません。内環状線にはすべて標識があり広中路で降りて5〜6分すると上海外国語大学ホテルに着きます。28日午後、私はそちらでお待ちしています。
 希望行程で私は彼らに説明しました。別途カンパ金を頂かなくても結構との事です。いずれにしましても用途は同じで中堡村小学校の再建に使うのですから。私は彼らはきっと理解してくれたものと思います。
 別に舎川さんに版権についてお尋ねしたいと思っています。私が日本にいた間いつもサザエさんのアニメを見ていて好きでした。このアニメは日本の文化を理解する上でも日本語の教材としてもすぐれています。どこのテレビ局が制作していますか。原作者は誰ですか。どうしたら版権を買うことが出来ますか。
 中国では現在日本語を勉強するためのビデオ教材がとても少なく、私の学校、上海外国語大学の出版社はこのようなものを作りたいと考えています。私はかつて教育という角度から適当な教材と考え内容に解釈を挿入し、大事なところは繰り返す等、原作に一部手を加えて制作し、初級、中級用の教材にしたいと考えています。きっと喜ばれるものと思います。残念なことに私は原作者の名前を忘れました。記憶では九州の人、フジテレビだったように思います。詳しいことはお目にかかってお話しします。お手数をおかけします。早くお会いしたいです。
 舎川 宏さんにもよろしくお伝え下さい。
                                                     蒋 歩青
                                                     99年4月12日


1999年4月13日
 高先生に嘉魚県教育委員会の許高学さん宛に私達の予定と要望をファックスしていただきました。

 高先生から許高学さんへのファックス(原文は中国語)

  こんにちは! 今日の報告と連絡は以下の事項です。
 (1)舎川等5人(包括蒋歩青教授)4月29日MU5323に乗機、15:20に武漢に到着。
 (2)舎川夫婦は義捐金の募集を継続していて義捐金は又数十万円(日本円)増えました。彼女の心情は被災地の子どもたちのために1円でも多く集めることです。
 (3)嘉魚県のホテルの宿泊代、食費などはいくら必要ですか。彼らは予算しなければなりません。というのも、彼らは教育委員会に経済的負担を掛けたくないと思っているからです。
 (4)当地での行事の中に「洪水犠牲者の記念碑参拝」がありますが、この時に彼ら4人は献花を希望しています。彼らに代わって花束を準備していただけないでしょうか。費用は彼らが負担します。
 (5)義捐金の贈呈式の義捐金には19人の犠牲者への香典(一人につき日本円で1万円)は含めないでこれは直接遺族に渡したいと舎川が希望しています。なぜならこれは中堡小学校への義捐金とは別に特別に準備したものだからです。日本の特別の封筒に19人それぞれの名前を書いて渡します。
 (6)また、舎川は今回の義捐金の大半は多くの人たちから寄せられ自分はそのうちの一人です。それで金の行方をはっきりさせなければなりません。そこで教育委員会もしくは中堡小学校から証明書ないしは領収書を受け取りたいと希望しています。証明書は舎川等の義捐金がどのくらいの被災地の児童に渡されるかというものです。その他に、新聞への投稿、嘉魚県教育委員会の感謝の公式の手紙、出来るだけ詳しい義捐金の使途など、これらは舎川が支援者に帰国後報告します。それによって彼女は支援者の了解が得られたらさらなる日中友好のために募金活動を継続します。


1999年4月15日
 蒋 歩青先生のご協力でほぼ中国での移動も決まりました。
12日のファックスに早速返事を出しました。(原文は中国語)


  蒋 歩青先生
 いかがですか。12日のファックス受け取りました。ありがとうございます。
 4月30日の贈呈式の時に、あなたが情報を寄せて下さいました、洪水の時に被災者を助けようとして犠牲になった19人の遺族にそれぞれ一万円を香典として送りたいと思っております。
 サザエさんに関してですが、可能性は百分の一もないように思われます。但し、ゼロでもないので以下を試されたらどうでしょうか。

 あなたの学校名と蒋 歩青先生の身分、留学の時の学校名と期間、使う理由、使用範囲(例えば上海外国語大学内だけ等)を長谷川町子美術館事務局著作権担当 棚原さん 宛てにファックスするか電話で直接連絡をとってみて下さい。
 テレビ局はフジテレビ局ですが著作権の問題の解決が先でしょう。棚原さんはあなたのファックスが着いてその資料を持って上級の会議に諮るつもりのようです。
 うまくいくことを願っております。
                                                   舎川和子
                                                    99年4月15日


1999年4月15日
 蒋 歩青先生からの返事です。ファックスがあるということは本当に便利ですね。(原文は中国語)

  舎川和子様
 ご機嫌いかがですか。
 今日あなたからのファックスを受け取りました。本当に忙しいあなたがこんなにも早く私のために棚原先生と連絡をとっていただいて大変感謝しています。これからは私が直接彼と連絡をとります。可能性がとても低いとしても私はやれるだけやってみようと思います。
 私の先のファックスの書き方が紛らわしくてすみませんでした。部屋と航空券の予約はすべて出来ています。
  4月28日 上海外国語大学ホテル(2部屋) OK
  4月29日 上海→武漢 13:55ー15:20 MU5323 OK
  5月2日  武漢→上海 9:50ー11:15 SZ4541 OK

 その他に何か私に出来ることがありましたらどうぞ遠慮なく言って下さい。
 それから私は嘉魚県の希望行程と電話で話しましたがなんの問題もありません。

 何事もうまくいきますように
                                                   蒋 歩青
                                                     4月15日

1999年4月17日
 産経新聞社会面に私達の活動の紹介記事が出ました。

 タイトルは 大洪水で学校流失・・・中国の子供たち救え
 内容は以下のようなものでした。

  昨年夏に大洪水に見舞われ被災した中国の子供たちを支援しようと舎川和子さんが「学校再建の会」を設立し 、5百人から約200万円の募金を集め、中国に届けることになった。この募金のきっかけは奈良女子大でのチャ  リティコンサート。この会で被災を知り小学校の校舎が流され、学校を再建しようとする留学生の姿に「子供たち  の未来に自分も手伝いたい」と再建の会を設立。知人ら20人が世話人となり12月から個人や団体に呼びかけた。
  話を知った湖北省嘉魚県の教育委員会からは「現地の先生と子供は永遠に忘れることはありません」と招聘状 が届き、夫の宏さんら3人と訪中し募金を届け、また洪水の時被災者を助けようとして亡くなった19人の遺族にも 会う予定だという。




第1回中堡村訪問

1999年4月28日
いろいろな人の助けを借りながらやっと義捐金を届けに行く日がやってきました。訪中するそれぞれが仕事を抱えているのでこのゴールデンウイークを利用しての旅行なのでそれにスケジュールを合わせるために中国側にも大分無理をお願いしました。
関空を4時前(日本時間)に出発し、上海に5時過ぎ(中国時間)について直ぐに上海外国語大学へ向かう。ホテルはこの大学の迎賓用だが、蒋 歩青先生のおかげで泊まることが出来た。ここで蒋 歩青先生の出迎えを受けた。
夕食は蒋 歩青先生も一緒に外灘近くのホテルでとり、外灘の夜景を楽しんでからホテルへ帰った。


1999年4月29日
午後に、上海から国内便で武漢へ飛び、飛行場で嘉魚県の教育委員会等の出迎えを受けて、マイクロバスで嘉魚県のホテルへ。ホテルでは副県長や教育委員会主任の出迎えを受け歓迎会に出席。

1999年4月30日
8時半に手配して貰ったマイクロバスで小学校のある中堡村へ。地元のテレビ局のカメラマンも同乗して未舗装の道をほぼ1時間。途中にはまだ洪水の爪痕が残り道路も今だ完全に修復できていなくてトラックが泥濘にタイヤをとられて抜け出せず此方のライトバンも立ち往生する場面もありました。
予定よりも少し遅れて学校に到着し、洪水の被害状況、復興の進捗状況などの説明を受けた後で贈呈式に移りました。校庭に全校生徒が並び父兄の方も参列された。子どもたちも精一杯のおしゃれをして華やかでした。




贈呈式では教育委員会主任の李茂栄さんの挨拶の後、舎川 宏が日本語で挨拶し舎川和子がそれを中国語に翻訳しました。
挨拶の後、大事に抱えて持ってきた支援金と募金に応じていただいた方の名簿を手渡しました。
子どもたちからの献花があり童校長のお礼の言葉、そして最後に副県長尹鶴林さんの講話がありました。

贈呈式の後、洪水の時に被災者を救援中に亡くなられた19人の方の慰霊の碑に詣でて花束を捧げました。これで公式行事を終え、中堡村の近くにある香港の華僑の援助で再建された小学校を見学しました。
不揃いの机や椅子、オルガンがないので先生の声だけでの音楽の授業に児童たちは大声で着いて歌います。ガラス窓がびりびりと響くほどの元気良さです。

午後からはホテル近くのお寺を案内していただき少林寺拳法を学ぶ子どもの模範演技などを見せて貰いました。


1999年5月1日
8時半に来副主任たち3方の出迎えを受けて、三国志の古戦場「赤壁」を見学に出発しました。長江がつくる入江や運河に沿ってライトバンは走りましたが堤防沿いに走ると至る所で水害の後を見ました。新しく築かれた堤防はまだ充分でなくてライトバンは何度も泥濘に掴まりその度に降りて押したりしました。私たちはもう途中で道を諦めた方が良いとさえ思いましたが来さんたちは辛抱強く道を探しついには国道らしい堅い道まで抜け出し赤壁まで連れて行ってくれました。この道筋を辿ったことで水害の凄さを実感することが出来ました。
赤壁見学後はしっかりした道を通って嘉魚賓館まで帰ってきました。
ホテルでの夕飯の後、蒋 歩青先生と中山登志美、内藤伸彦、舎川 宏の4人で嘉魚県の町を散策しました。町にはタクシーとしていろいろな車が使われています。その中でも3人程度しか乗れない3輪の乗り物がありエンジンはオートバイの50cc位のが使われていました。料金は安いので便利だと思いました。



1999年5月2日
早朝の5時半にホテルを出発して武漢飛行場へ向かいました。この時も、早朝にもかかわらず来さんがライトバンで迎えに来てくれました。
この度は我々の隣の部屋には寝ずの番だと言って係の人が私たちの滞在中泊まり込んでくれました。日本人が来ることが稀なので防犯のためだったと思います。安全面ではまだ不安が残る地区なのかも知れません。
9時50分の上海行きの国内線で上海へ向かい、上海では蒋 歩青さんのご主人と娘さんの出迎えを受けました。
上海に着いてからは中山登志美の関係で石川可鍛鋳鉄のお世話で蘇州へ廻って5月4日に関空へ帰ってきました。
これで、義捐金を届けるという大役が滞りなく済みました。



1999年5月9日
湖北省嘉魚県教育委員会の李茂栄さん宛にお礼の手紙を出しました。

拝啓 若葉の候を迎え、皆様ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。
 過日、ご当地に滞在させていただきました折には、大変お世話になりありがとうございました。
 皆様には送迎の手配をはじめ、義捐金贈呈式や抗洪英烈記念碑参拝、被災地の細かな状況や学校支援の方法、観光の手配まで細やかなお心遣いをいただき、深く感謝しております。特に義捐金の贈呈式、烈士記念碑参拝には多くの人達にご多忙の中参列いただき感謝に堪えません。
 お陰様で、無事大役を果たし帰宅いたしましたので、皆様にもよろしくお伝えください。これから、募金活動に協力して頂いた人達に報告し、これからのことも相談していきたいと思います。今後もいろいろとお訊ねする事があるかと思いますがよろしくお願いいたします。
 まずはお礼まで。
                                                             敬具
                                                      1999年5月5日
                                                      舎川 宏
 湖北省嘉魚県教育委員会 李 茂栄様


1999年5月18日
支援していただいた方に舎川の家に集まって貰い報告会を持ちました。
この時に会計報告もしました。


項目 収入 支出
支援者からのカンパ 2、226、500
預金利子 32
学校再建 2、000、000
烈士弔慰金 190、000
蒋 歩青先生旅費 31、500
2、226、532 2、221、500 5,032

残余金\5,032は湖北省との通信費に充当させていただきたいと存じます。
なお訪中団は湖北省嘉魚県では客人として迎えられ費用は「不要」と言われましたが事情を勘案し、滞在お礼として5万円、花輪・花束、生徒が今後支援者に出すハガキ、切手、教育委員会からの資料送料等として3万円置いてきました。これらは訪問者の負担と致します。
舎川 宏、舎川和子 ,中山登志美、内藤伸彦
1999年5月18日

1999年6月12日
湖北省嘉魚県教育委員会の李茂栄さんからの手紙を受け取りました。この時に現地の新聞記事が同封されていました。この手紙が着くのが遅かったので報告会に間に合うように督促の手紙を出したら入れ違いに届きました。
記事内容については「第一回中堡村訪問記」をご参照下さい。

 舎川和子 様
 舎川宏 中山登志美 内藤伸彦 様
 
 あなた様方が四月に嘉魚県にお越し下さり、洪水のために当県牌州湾が蒙りました大きな被害に対しましてお見舞いいただき、中堡小学校の子供達に情愛を又当県及び全中国人民に対して日本の友人方々の深い友誼をいただきました。金銭は数えることが出来ますが情けは計り知れないものがあります。あなた様方の義挙は私たちに多くの物質的援助と精神上に大きな励ましをもたらしました。私たちは物心両面のご援助をいただきこの困難を闘いぬき、学校再建のため決意を新たにいたしました。

 先日、私たちの中堡小学校再建のためいただきました義援金は、学校の体育運動地と教育設備と図書購入にと決定し、今実務的な仕事を進めているところでございます。私たちは随時お金の使用状況を報告いたします。又中堡小学校の子供達が皆様にお礼状を差し上げるのもこれから行います。

 牌州湾で犠牲になりました十九名の軍人へのお香典はすでに軍を通して家族にお届けするよう手配いたしました。〈明らかに出来ないのは必ず軍を通して贈らなければならないからです〉具体的な状況がわかりましたらお知らせ致します。

 私たちは必ずあなた様方が中堡小学校に寄せて下さいました真心を無にしないようお金はしっかり管理して有効に使わせていただきます。義援金を寄せて下さいました方々のお名前は子供達の心の中にずっと留まるものと思います。時期をみて私たちは又あなた様方を中国にお招きし、嘉魚県の中堡小学校が新しく設備が整ったところをごらん頂きたいと存じます。

 私たちの友好交流が今後も続きますようにそして中国人民の友誼は永久にと願っています。
 皆様方のご健勝と心楽しくお仕事なさいますことをお祈り致します。学校再建支援会の皆様によろしくお伝え下さいますようお願い致します。

嘉魚県教育委員会 李茂栄
                                              1999年6月2日


1999年6月13日
舎川の自宅にて今回の中堡村訪問の報告会を行いました。簡単な食事をしながら和気藹々の楽しい会になりました。
現地の様子を写したヴィデオも放映してより現地の状況を理解して貰ったものと思います。このビデオはご要望があればダビングしてお渡しできます。



1999年6月20日
李茂栄さん宛に現地新聞に載った記事等を送って貰うように依頼した手紙の返事が届きました。(原文は中国語)

    尊敬する舎川和子様 舎川 宏様

 謹啓
  5月9日のお手紙受け取りました。私の返信と併せてあなたのことが報道されました《成?日報》はすでにお送りしました。必ず近日中に届くものと存じます。

  あなたや日本の友人の皆様が寄せて下さいました友誼は、なかなか得難いものと思っています。被災地の子供や、被災したあらゆるところの人達が、永遠にあなた方の善行を心にきざむことは一点の疑いもありません。被災地区の学校は又あなた方の継続的支援を謹んでお願いする次第です。私たちも仕事に精を出し、いただいたお金はしっかり管理して、一銭たりとも無駄にしないで、心して被災した学校が早期に修復されるために使いたいと思っています。 このように努めることが、あなた方の深く厚い情誼にお応えする方法だと思っています。
  
  手紙に《湖北教育報》と中国でのあなた方の写真5枚を同封しますので記念にご覧下さい。

  私たちの友好交流が今後も代々続きますことを心よりお祈りいたします。中山登志美様、内藤伸彦様にどうぞよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。

                                                     敬具

     嘉魚県教育委員会 李 茂栄
                                                       1999、6、8


1999年7月5日
この手紙に次のような返信をしました。(原文は中国語)

   李茂栄様
 ご機嫌いかがでしょうか。
 6月2日、8日の手紙と新聞2紙、並びに5枚の写真すべて受け取りました。ありがとうございました。今、私たちはそちらの状況を友人や会社の同僚などの支援者に向けて報告しているところです。その時にあなたから送って貰った資料を皆様に見て貰っています。私は友人たちに更に深く嘉魚県の状況を解って欲しいと思っています。また、私は継続して支援を続けたいと思っていますがどのようにしたら最も大きな効果が得られるのか解りません。
私は必ずあなた方への支援に力を尽くします。 
 帰国してから、私は中堡小学校には3年生のクラスまでしかないことを知りました(一般の小学校は6年生まで)。
その主な理由は何故なのでしょうか。今の私には力不足かも知れませんが6年生までのクラスを作り子どもたちを小学校を終えさせたいと願っています。もし、経済的な理由から学校へ行けない子どもがいたら、私の2,3人の友人たちは教育費を負担できます。
 奈良は梅雨の季節に入りました。雨の日が多くなってきましたが比較的涼しくて温度は23度ぐらいです。
 ここでもう一度、あなたが私たちの資料を送って下さったことに感謝いたします。
  すべてのことが順調にいきますよう願っております。

                                                  舎川和子
                                                     1999年7月5日

 追伸:あなたが私に手紙を下さるときには「EMS」・書留扱いにしないで下さい。私は不断家にいないことが多く、毎回郵便局へ出向かなければなりません。その上に送料も高くつきます。日本では普通郵便でも必ず受け取ることが出来ます。
 
1999年7月8日
産経新聞大阪本社編集部宛に報告とお礼の手紙を出しました。

 早いもので中国湖北省から帰りまして二カ月が過ぎました。4月に記事を掲載していただきまして三名の方から計16,000円振り込まれてきました。
 個人の活動ということと現地を訪ねたと言うことで珍しがられ大変歓迎して下さいました。早くご報告をと思いながら忙しさに取り紛れ今日に到りました。お許し下さいませ。
 同封しますのは
   ・私のお礼と報告書
   ・蒋 歩青さんの感想
   ・現地の新聞とテレビニュース
   ・教育委員長の李茂栄さんの手紙
   ・日東紡績労組の機関紙  です。
 どうぞご高覧いただきたく存じます。
 今回訪ねました中堡小学校は3年生までしかいませんでした。質問すると『4年生になると別の学校へ行きます』とのことでしたが私にはそのように見えませんでした。
 委員長が「時期を見て修復されたところを見て下さるよう案内する」とありますので、私もお金の使い方について明確に、と言ってきましたので再度訪ねる気持です。
 訪ねるのは来年のゴールデンウィークあたりと思っています。まだまだ学校の設備等整っていませんので再びカンパ活動を呼びかけていこうと思っています。
 大変難しいことと拝察しますが中国の報告と新たなカンパの呼びかけが記事として掲載していただければありがたく存じます。
 末筆になりましたがどうぞお元気でご活躍なさいますことをお祈りいたします。
 ありがとうございました。
                                                  舎川和子
                                                     1999年7月8日


1999年7月28日
蒋 歩青先生にこちらの報告会の様子やこれからの活動の方向を伝えた手紙に返事が来ました。

  舎川和子様
 ご機嫌いかがですか。お手紙と写真受け取りました。本当にありがとうございました。この前に頂いた葉書も受け取っております。忙しくて返事が遅くなったことをお許し下さい。
 あなたたちが帰国されてから私は白浜先生と電話で話をしました。彼女はすべてが順調にいったことを聞いて大変喜んでいました。5月にはあなたたちの助けにならなくて却ってあなたたちにご面倒をおかけしてしまいました。あなたたちにたくさんのお金を使わせてしまい本当に申し訳なく思っております。洪水にあった中堡村の子どもたちのための募金はあなたとあなたの夫の筆舌に尽くしがたい苦労や東奔西走して心血を注いだ結果でした。その一つ一つに日本の友人の中語の被災者に対する深く篤い情誼が満ちあふれています。私たち家族はあなたたちの善行に深く深く感動しました。小さな帆船を贈りましたがこれは私たちの崇高な敬意と感激の気持とともにあなたたちの活動が順風満帆にすすみ、生活が楽しさに満たされるようとの思いを込めました。
 嘉魚県の小学校支援の継続に関してですが私は支援は比較的うまくいくと思っております。嘉魚県教育委員会に、支援を必要としている児童の姓名、年齢、家庭状況などを書いた名簿を提出して貰い、その後これを元に援助する児童をあなたが自分で選んだらいいでしょう。
 もし、あなたがもう一度中堡小学校を訪問される時付き添いがいるなら当然私は力を尽くします。私はあなたの中国語は大変素晴らしくて中国人と話すのに何ら問題はないと思っています。これに比べたら、私は数年間日本に留学しましたが、私の日本語は何ら明らかな進歩を見ることがなく、帰国してからも慚愧に堪えません。
 この次に上海に来られるときには私たちは既に引っ越しを終えています。その時はどうぞ私たちの家に泊まってください。私たちは今年の終わりか来年の初めに3DKの家に移りそこで新世紀を迎えるつもりです。
 『日本語練習帳』は良く書かれた本です。私が良く遭遇する問題のすべてに参考になる価値のある本です。舎川宏さん、ありがとうございました。
 中山さん、内藤さんにもよろしくお伝え下さい。中山さんが万一仕事の関係で助けが必要なときは私は力を尽くします。
 二三日前に石井先生に手紙を差し上げました。

                平安であることを祈ります!
                                                    蒋 歩青
                                                  1999年7月22日


1999年12月17日
この間もそれぞれが募金活動を続けました。
年末になり今年の活動を総括する時期で嘉魚県の教育委員会に状況をたずねる手紙を出しました。


李茂栄様
ご機嫌いかがでしょうか。ご無沙汰しております。
私はずっと中堡小学校と子どもたちの状況を知りたいと思ってあります。
今年の6月に私の家で訪中の報告会を開きました。私たちの隣人や友達が私たちの体験を聞きに来ました。
その時の写真を2枚送りますのでお受け取り下さい。
あなたと皆さんが2000年の到来を楽しく迎えられますように!
                                                    舎川和子
                                                  1999年12月17日


これが私たちの1999年の活動報告のすべてです。
最後までお読みいただきありがとうございました。資料写真等はいつでも閲覧に供します。