第一回中堡村訪問

1999年4月29日から5月2日

4月29日に、私たち、舎川和子、中山登志美、内藤伸彦、舎川 宏そして私達に同行してくださった蒋 歩青先生、一行5人は午後3時半過ぎに武漢飛行場に到着しました。
飛行場には嘉魚県教育委員会から来佑后さんと劉艶祥さん、外事の唐小銀さん、公安局の張京群さんの4人が出迎えに来てくれていました。
武漢からマイクロバスで長江の堤防沿いを上流へ走ること2時間半ようやく嘉魚県につきました。この路は舗装とは名ばかりでがたがた道で揺られにゆられて、やっと到着というのが実感でした。ホテルでは副県長、尹鶴林さん県教育主任、李茂栄さんたちが歓迎パーティの準備をして待機していました。空港まで出迎えていただいた皆さんと歓迎パーティに出席してこの席で被災地の皆さんへと持参したタオルなどのお土産を渡しました。

4月30日、7:30ホテルでヴァイキングの朝食。8:30手配してもらったライトバンで被災地の小学校中堡小学校へ向かいました。先導する車は2台、私たちの車にはテレヴィのカメラマンも同乗、新聞記者らしき人もいましたが、後で聞くとこの人は教育委員会の人で記事を書きテレヴィ局と新聞社へ記事を送った人でした。被災地の近くでトラックがスタックしていて脱出に手間取ったが、何とか中堡小学校へ到着しました。二階の会議室らしき場所で被災状況と学校関係の復興の現状について説明を受けた後に、校庭で義捐金の贈呈式が挙行されました。贈呈式が済み、洪水の時に亡くなった軍関係の19名の烈士の記念碑に献花。烈士の遺族への見舞金を託して公式行事はすべて終了。ホテルへ帰り昼食を取り、休憩。3:00より、ホテルの対岸にある仏教寺院へ小さな渡し船で参詣。夕食後、教育委員会副主任の来佑啓さん他中国の友人たちと一緒に義捐金贈呈式のテレヴィニュースを見ました。

          







5月1日,7:30ホテルでヴァイキングの朝食。副主任の来さんともう一人の中国の友人の案内で三国志ゆかりの赤壁へと向かう。嘉魚県の賑やかな活気に満ちた町中を過ぎ、農村の風景が続きやがて堤防が見えてきました。長江の内側の堤防でまだ修復中です。この堤防に車が乗り上げた途端にスタックしました。全員下車して押します、これは中国では三度目の車押しの経験となりました。最初は日月山の雪上でこれは寒かった。二度目は内モンゴルの砂漠でこの時は暑かった。そして今回、いい陽気の中での車押しだが、一番厳しい状況だ。この堤防をようやく越えると次は河、どうするのかと思っていると、近くからフェリーを借り出して対岸へ。向こう岸は護岸工事は終了しているとのことでしたが、渡ってびっくり、ぬかるみが続きます。スタックしながらも何とか走行を続けました。堤防の向こうには洪水の時のまま水没している建物があったり、大きな穴があいていて、これは洪水の時に水が噴き出した後だということでした。この穴が至る所にあいています。車は最大の難所に来て運転手と中国人スタッフが堤防をあちこち見て回り協議していますが、私たちの目ではどこをどう走っても無理に思え、まさに進退谷まった、状況。だが現地スタッフの驚異的働きで何とか危機を脱出し、なんとか史跡赤壁へ到着できました。観光終了して帰りは遠回りでも正規の道を取ってホテルへ。ホテル到着後、中山、内藤,蒋歩青、舎川 宏の四人で町へ散歩に出かけ、市場など庶民の生活を垣間見、三輪モーターカーでホテルへ帰りました。

5月2日、5時に起床して、早朝にも拘わらず車を手配して迎えに来ていただいた教育委員会副主任の来佑啓さんと5時半にホテルを出発し武漢の飛行場へ、武漢のラッシュの渋滞に少し時間がかかったが8時過ぎに飛行場へ到着しました。これで、今回の公式行事はすべて終了です。早く着いてのんびりしすぎて、搭乗手続きの〆切に気がつかずに危うく乗り損ないそうになりました。無事に大役を終えてみんなが緊張から解放されていたのが原因だと思います。時間よりも早く上海に到着。飛行場には蒋歩青さんのご主人沈偉家さんとお嬢さんの青青がお出迎え、久しぶりの再会も束の間で、同じく出迎えの石川可鍛製鉄の桜井隆則さんと蘇州市の外事曹静さんの手配によるバスで蘇州へと向かいました。市内のレストランで昼食後、ホテルにチェックイン。身軽になって唐の時代の古刹・寒山寺を拝観、鐘楼へ登り鐘を突きました。一突きで10年若返るそうです。中国版ピサの斜塔・虎丘を遊覧し、シルク工場を見学しました。夜は蘇州石川製鉄の幹部の方も同席しての夕食会でしたがご馳走には蛇料理がつきものとかで弱りました。

これが初めての嘉魚県での私たちの活動でした。嘉魚県の人々は私たちを暖かく迎え入れてくれました。中国の上海など海沿いの町は著しい発展を遂げていますが農村はまだまだ貧しく子どもたちが貴重な労働力とされたり教育を身につけさせようという親の気持ちは強いのに子どもを学校へやれない状況におかれています。以下にに私たちが贈呈式で述べた挨拶や帰ってからの感想、地元紙に掲載された文章、テレビで報道されたものを文字化したものなどを紹介します。



  挨拶

  嘉魚県の皆さん こんにちは
 まず最初に私は七百名を越える義捐金を寄せた人たちを代表して、被災地区の皆様に敬意を表します。皆様はこの大洪水にも屈することなく短い期間に復旧してこられました。皆様のこの不屈の精神に対しまして、心より敬意を表します。
 中国のことわざに「縁があれば千里離れていても相見えることが出来る」とあります。私は皆様とは深い縁があると思います。この縁は千二百年余り前からすでに始まっていました。皆様ご存じのように、中国揚州の大明寺の鑑真和尚は仏教の真理を伝えるため、六度日本への渡航を試み、最後にやっと成功しました。そして、奈良の唐招提寺で亡くなられました。人々は和上の徳を偲び座像を刻み今日まで大切にしてきました。現在、唐招提寺と鑑真和上像は日本の国宝になっています。私はこの寺の近くに住んでいます。毎年、六月六日和上のご命日には多くの人が寺を訪れます。
 また、唐の時代に日本人の阿倍仲麻呂は中国へ留学し、李白や王維とも親交を深めました。彼は生涯中国にとどまり、望郷の詩を詠みました。その中に三笠山とありますが、この山は私の家から見ることができます。阿倍仲麻呂は長安で生涯を終えました。現在、西安の人たちは彼の記念碑を建立しています。このように日本文化は中国とはきってもきれない深いつながりがあります。
 残念なことに近代史において日本が中国へ侵略し戦争が起こりました。多くの中国の方に苦しみをもたらしたのにもかかわらず、中国の方々は日本人孤児を自分の子どものように育てて下さいました。この中国の人たちの寛大で人間的な行為に、私は深く感動しています。
 今回は中国を大きな災害が襲い、多くの人たちが被害を受けられたと聞きました。一隣人として、友人たちに支援を呼びかけ、七百人以上の人が個人として協力をしてくれました。人と人、顔の見える付き合いが両国の友好をより深くするものと考えています。
 また、中国では「小さな贈り物であっても深い心がこもっている」という言葉があると聞きました。私たちの義捐金は少ないものですが被災された皆様に対し深い心がこもっています。私はここに協力してくれた人の名簿を持参しました。どうぞ中堡小学校に保存していただきたいと存じます。いつの日か、中国の子どもと日本からやってきた子どもが一緒に見ることができると思います。私たちの願いは子どもの心に友好の種をまいておくと両国民の友誼は子々孫々と続くものと思うからです。
 最後に、私はこの度の私たちの活動にご協力下さいましたお一人お一人に感謝の気持ちを述べたいと思います。特に上海外大の蒋歩青先生は多くの時間を、私たちのために使っていただき、この度はこちらに同行して下さいました。ありがとうございました。
 ご静聴ありがとうございました。


   中堡小学校の童方保校長先生の挨拶文

 ご来賓の皆様

 先ず中堡小学校教師、生徒を代表して皆様に熱烈歓迎の気持をお伝え致します。
 98年@州湾の堤防が切れ私たちの学校に大きな災害を及ぼし、教育設備等一瞬にして失いました。その後、政府や社会各界から大きな援助をいただき、特に日本の友人が寄せて下さいました大きな支援により、私たちは学校建設、教育設備、体育設備などの再現を得ることができました。ここに中堡小学校教師、生徒を代表しまして、舎川和子さん及び日本の友人の方々に心より感謝の気持と敬意を表します。
 一人の校長として、私は教師たちと共に教育を研究し、教育方法について探求し、生徒の本来持っている素質を重視し、楽しく学習させ、いい環境の中で情操教育をし、人として立派に育つよう心がけています。中堡小学校で教育のために勤勉に励み、良い成果と新しいものを創り出していくことが皆様に対するご恩返しと思います。
 最後にご来賓の皆様にご支援いただきましたことにもう一度心から感謝を申し上げます。

                                        中堡小学校
                                              校長 童方保
                                                2000年4月30日




    テレビのニュースで紹介されました

  −心にしみる感動の日中友情の歌を奏でる−

 4月30日午前日本の友人、舎川和子、舎川 宏、中山登志美、内藤伸彦さんは日本人としての深い情誼として日本円200万円を中堡村小学校に贈りました。
 尹鶴林県副知事、李茂栄県教育委員会委員長等も出席し、義援金の贈呈式が行われました。牌州湾決壊のニュースが日本に伝わった後、日本の紡績の労働組合中央執行委員である舎川和子さんは夫や友人達と学校再建支援の会を設立し、民間の個人募金活動を始めました。彼女達は被災地の子供に対する愛情と、ゆるぎなく、ねばり強い精神力によって数カ月でついに700余名の協力者を得て募金額、日本円200万円に達しました。そして30日わざわざ学校へ届けました。尹鶴林副知事と李茂栄教育委員長はこの贈呈式上舎川さん達と義援金を寄せられた日本の友人の方々に心より感謝の気持ちを述べました。舎川さん達はさらに洪水救助で亡くなられた烈士をまつる烈士陵園にある19名の烈士の墓碑に花輪、花束を献げ人民武装部を通して19名の烈士の遺族に対し各1万円ずつを弔慰金として贈りました。
                           〈1999年4月30日 午後8時湖北省テレビニュース〉





    地元の新聞の紹介記事です。長文の記事が掲載されました。

       時空を越えた愛

   ――日本の友人舎川和子さん牌州湾中堡小学校へ義援金を贈る 傍聴記――

 4月30日 牌州湾。舎川和子さんという一人の日本人女性が中国の被災地区を支援するため、大変な苦労のすえ民間の募金活動で2百万円(約13万多人民幣)を被災した後再建した中堡小学校に贈りました。自分の行動で時空を越えた真実の愛が存在することが証明され、人を深く感動させる日中友好の歌を作曲しました。

 舎川和子さんは奈良市西大寺国見町に住み、日東紡績労働組合の中央執行委員です。昨年11月15日、彼女は奈良女子大学で中国留学生が開催したチャリティーコンサートへ行き中国のひどい洪水被害を知りそして一人の留学生がこの地区の出身であることを知りました。湖北省嘉魚県牌州湾は大変ひどい被災地区で家屋は壊れ、田畑は流され、6万余名の人が他の地区へ移り住み、1万余りの小中学生が入学するのが困難になりました。コンサートで留学生が舞台に上がり『我愛ニイ・中国』を歌いました。ある学生は感泣し声が出ませんでした。その光景を見て人々は感動しました。コンサートの後、舎川和子さんは、留学生が街頭募金をしたこと、小学生がテントの学校で勉強している状況、留学生たちの情愛のこもった歌声などがまざりあって、彼女の頭から消え去りませんでした。募金をしよう、中国の被災地を支援しよう、子供達の未来に微力ながら尽くそうと思い、夫と森川さん夫妻の大きな支持を得ました。

 彼女は早速“学校再建の会”をつくり湖北省生産救済領導小組事務局が奈良地区の留学生学友会に送った書類を余暇に日本語に翻訳し、募金の説明書をつくりワープロを打ちあちらこちらに配りました。電話をかけたり親戚や友人を訪ねて募金活動が始まりました。困難なことは、日本経済は不景気の真っ只中にありました。“門前払い”を食ったことも少なくありませんでした。しかし舎川夫妻はより多くの理解と支持を得ました。一人の方は癌末期の患者で募金に協力した上になお手紙で熱情あふれる激励を彼女に届けました。

 思う一心岩をも通す、舎川さん及び学校再建の会は被災地の子供への愛を貫き、数カ月でついに500余名と70のグループ、団体から200万円を集めました。

 この度の募金活動を知った嘉魚県の教育委員会は書簡で舎川さんに“被災地と教師と生徒は永遠にあなた方のことは忘れません”と書き送っています。併せて舎川さんを中国に招聘しました。舎川さんは快く招きに応じゴールデンウィークの休日を利用し、夫の舎川宏さんと親戚や友人二名と4月28日から5月4日まで中国を訪ねました。
 4月30日に中堡小学校で贈呈式が行われ舎川さんたちは嘉魚県人民政府、県教育委員会と中堡小学校の全教師と生徒から熱烈な歓迎を受けました。舎川夫妻は日本語と中国語であいさつをしました。あいさつの中で
☆ 中国は日本文化の故郷である。歴史の上で日本は多くのことを中国から学んだ。
☆ 中国語を勉強してきて多くの中国の友人が出来、中国に対して一種特別な親近感がある。
☆ 近代史上起こった不幸な戦争で大きな災難をもたらしたにもにもかかわらず、中  国の人たちは自分の子供のように日本の残留孤児を育てて下さった。
☆ 被災地の子供は中国の未来であり、日中友好の未来でもある。
☆ 洪水という自然災害は政治、宗教、国境を超越して多くの賛同を得られると思った、
と話されました。

 彼女は義援金を寄せた人々の名簿を保存してほしいと希望しました。これは日本人の友誼の証であり、この活動を契機に友好交流が始まり相互理解の基盤の上に友好交流が継続され深まることを併せて望んでいます。

 贈呈式の後、日本の友人はさらに昨年の牌州湾洪水で救助のために犠牲になった19名の中国人を祀る抗洪水烈士陵園を訪ね、19名の碑にそれぞれ献花と各家族へ1万円の香典を贈りました。

                                           (張 建貨、尹志波)


    

      帰国後にお礼の手紙を頂きました


 舎川和子 様
 舎川宏 中山登志美 内藤伸彦 様
 
 あなた様方が四月に嘉魚県にお越し下さり、洪水のために当県牌州湾が蒙りました大きな被害に対しましてお見舞いいただき、中堡小学校の子供達に情愛を又当県及び全中国人民に対して日本の友人方々の深い友誼をいただきました。金銭は数えることが出来ますが情けは計り知れないものがあります。あなた様方の義挙は私たちに多くの物質的援助と精神上に大きな励ましをもたらしました。私たちは物心両面のご援助をいただきこの困難を闘いぬき、学校再建のため決意を新たにいたしました。

 先日、私たちの中堡小学校再建のためいただきました義援金は、学校の体育運動地と教育設備と図書購入にと決定し、今実務的な仕事を進めているところでございます。私たちは随時お金の使用状況を報告いたします。又中堡小学校の子供達が皆様にお礼状を差し上げるのもこれから行います。

 牌州湾で犠牲になりました十九名の軍人へのお香典はすでに軍を通して家族にお届けするよう手配いたしました。〈明らかに出来ないのは必ず軍を通して贈らなければならないからです〉具体的な状況がわかりましたらお知らせ致します。

 私たちは必ずあなた様方が中堡小学校に寄せて下さいました真心を無にしないようお金はしっかり管理して有効に使わせていただきます。義援金を寄せて下さいました方々のお名前は子供達の心の中にずっと留まるものと思います。時期をみて私たちは又あなた様方を中国にお招きし、嘉魚県の中堡小学校が新しく設備が整ったところをごらん頂きたいと存じます。

 私たちの友好交流が今後も続きますようにそして中国人民の友誼は永久にと願っています。
 皆様方のご健勝と心楽しくお仕事なさいますことをお祈り致します。学校再建支援会の皆様によろしくお伝え下さいますようお願い致します。

                                     嘉魚県教育委員会 李茂栄
                                                 1999年6月2日

     


    尊敬する舎川和子様 舎川 宏様

 謹啓
  5月9日のお手紙受け取りました。私の返信と併せてあなたのことが報道されました《成?日報》はすでにお送りしました。必ず近日中に届くものと存じます。

  あなたや日本の友人の皆様が寄せて下さいました友誼は、なかなか得難いものと思っています。被災地の子供や、被災したあらゆるところの人達が、永遠にあなた方の善行を心にきざむことは一点の疑いもありません。被災地区の学校は又あなた方の継続的支援を謹んでお願いする次第です。私たちも仕事に精を出し、いただいたお金はしっかり管理して、一銭たりとも無駄にしないで、心して被災した学校が早期に修復されるために使いたいと思っています。 このように努めることが、あなた方の深く厚い情誼にお応えする方法だと思っています。
  
  手紙に《湖北教育報》と中国でのあなた方の写真5枚を同封しますので記念にご覧下さい。

  私たちの友好交流が今後も代々続きますことを心よりお祈りいたします。中山登志美様、内藤伸彦様にどうぞよろしくお伝え下さいますようお願い申し上げます。

敬具


                               嘉魚県教育委員会 李 茂栄
                                                1999、6、8



           帰国してからの報告と訪問者の感想文をここに掲載します

 ご支援頂きました皆様へ

 洪水のカンパをしようと思い立った日から165日目に、お陰様で思いがかない、小さな善意の花を咲かせることが出来ました。舎川 宏、中山登志美、内藤伸彦と私の4名が4月28日、日本を発ち、30日に湖北省嘉魚県教育委員会に200万円を学校再建へ、村人を救助するために犠牲になった19名の烈士のご家族に19万円を、その他に文房具、菓子、タオル等日用品も併せてお贈りしました。この活動に765名の方々と27のグループ・団体からご支援をいただき、それぞれのお名前は嘉魚県教育委員会李委員長に「日中友好の証としてお納めください」と渡して参りました。まさに中国の成語にある「千里送鵝毛、礼軽情意重」のごとしで、遠くからお届けした贈物は鵝毛のように軽いものながら、その中に深い思いが入っていますと、私を含め支援してくださった方々の気持ちをあいさつの中で述べました。

 上海で一泊して、翌日武漢まで1時間半のフライト。この日から上海に住む友人の蒋歩青さんが同行して下さいました。武漢の飛行場には4名(教育委員会3名、公安局1名)の方が出迎えに来て下さり、そこから100キロメートルを2時間半マイクロバスに乗り宿泊所嘉魚賓館に到着しました。長江の堤防が道になっているこの道路は舗装されていず帰路アヒルの大群が横断したり、豚、山羊が道のまん中に佇んでいたため何度か彼らが通り過ぎるのを待ちました。

 中堡小学校はホテルから70キロメートルのところにあって今年の春節(2月)に朱鎔基首相もこちらへ訪問されたとか。私達の車は途中ぬかるみ道で動かなくなり全員マイクロバスから降り、関係者が知恵を出し合い車を前進すべく努力されるが簡単にいかない。小学校での贈呈式の時間には大幅に遅れているが時間は緩やかに過ぎていきました。 県副知事、教育委員長他、教育委員会、公安局、マスコミ等も立合い小学生が見守る中で贈呈式は終了しました。この日の夜8時のテレビのニュースでも私達のことが報道されました。尹副知事、李教育委員長が舎川さん達、そして日本におられる支援して下さった日本の友人の方々に心より感謝を申し上げますとあいさつされました。

 以前19校あった小学校は縮小されて11校になり建物はすべて建っているが備品等はまだ揃っていず、私達のお金は教科書、文房具を含めて備品関係に当てられるとのこと。教育委員会の受領書、国の領収証もいただきました。国の領収証に関するものは特に監査がきびしく定期的にチェックされるようです。

 式の後、もう一校小学校を訪ねました。香港からの援助で建てられた連合小学校で校庭には最近まで使われていたテントの学舎がまだ残っていました。冬の間、子供達はたくさんたくさん着込んでこのテントで学んだそうです。二つの小学校の生徒達はお客を迎えるためか、一様に晴れ着を着ているみたいで華やかで、女の子はみんなリボンで髪を飾っていたのとは裏腹に、両校の校長先生が召されていたブレザーは大変くたびれたものでした。

 村人を救助しようとして亡くなった19名の烈士の記念碑は砂地の上に建てられていました。二次災害のお話を上海外大で日本語を教える蒋歩青さんから、前々から聞き是非参拝と遺族の方々のお心を慰めたいという思いに駆られていました。あたり一帯は2〜6メートル砂が堆積していて、今も10名の烈士はこの砂の下のどこかに眠っていると聞きました。

 二階建てのレンガの家には地上4メートルのところまで水位があった線がくっきり残っていました。道路の両側に植えられている楊樹という並木に村人が登って救助を待ったそうで、小学生の女の子が8時間、木につかまり烈士の一人が舟で彼女を助けたというニュースは新聞でも報道されたそうです。

 嘉魚県は人口36万人の長閑な農村で木陰に憩っている老婦人に“?好(今日わ)”と声をかけると“慢走(お気をつけて)”とにこやかに返ってくる。今後も細々ながらご縁があったこの地の方々と交流を重ねたく思っています。少しずつ貯まったお金を送るのか、それとも学校に行けない子供の里親(年12,000円程度)になってもらうよう呼びかけていけばよいか考えはまだ決まりません。銀行口座は当分そのままにしておいて、又新しいスタートが切れることを望んでいます。ありがとうございました。



                                                 舎川 和子
                                                     1999年5月12日

     

       水害の堤防から生えた一粒の種

 4月30日嘉魚県中堡小学校への義援金の贈呈式が終わってほっと一息つきました。異国にいながら中国の大洪水の被災地の生徒のためカンパしてくださった日本の方々の願いがようやくかないました。私はその橋渡しの一役を買うことができて大変嬉しく思いました。それと同時にカンパしてくださった日本の方々に感謝の気持ちで胸がいっぱいでした。無邪気な子どもを目の当たりにして「日本の友人まで援助の手をさしのべてくれたよ。こわい夢を忘れてね。これからなにもかもきっとよくなるのよ」と言わんばかりでした。
 長江と隣り合わせの嘉魚県の堤防の長さは約360キロメートルもあります。それは砂まじりの土だけで固められたもので、大型洪水の前にはもろいものである事が容易に想像がつくと思われます。大自然の力と比べれば、人間の力はとても小さいものです。自然がちょっと怒ったら人間の長年の努力がたちまち台無しになってしまいました。現在決壊された堤防は復旧工事がすすめられていますが、家やすべての財産が水に流されたことを別にして、土砂に数メートルも埋められた田畑が不毛の地となり、地下から噴き出した土砂と水の跡やら、水に浸かって土砂に三分の一まで埋められている家がまだそのままだし体験しないと実感できないくらい被害はひどいものでした。
 細長い堤防は嘉魚県民の命のラインです。経済の立ち遅れている嘉魚県民にとって土でそれを固めるほかはありません。この度幅広く、少し高く補強されたばかりの堤防の両側が雨に降られて深いみぞができてしまったのがいたる所に目に入り心が痛みました。しかし、嬉しいことにその近くの堤防の痩せた赤い土に小さな草が植えてあり、行列をつくってねばり強く生きています。そこに私は希望が見えました。数ヶ月後育った草が一面の緑となり、そして、数年後はその根が堤防をしっかり守ってくれるでしょう。一本一本の草は小さいが、その力を合わせれば大きな力になります。水害に見舞われた被災者は未曾有の困難にもかかわらず、くじけず、国や人々の援助の下で立ち上がり、再建に全力を尽くしています。そのほかに大洪水や被災者の情報を知って強い関心を寄せ、やさしい心の持ち主の海外の人々の支援もありました。今回、中堡小学校への義援金は七百人以上もの日本の方々からいただいたということで中国人の一人としてどうお礼を言ったらいいかわかりません。金額の多少を問わず、その心遣い、その深い思いやりは生涯忘れません。小さな草と同じようにその友情はわたしたちの心に根を下ろし、花が咲き、実がなり末長く伝わるばかりでなく、その友好の輪も広がっていくものとなるでしょう。私はそう願ってやみません。最後に、尽力してくださった舎川和子様及び支援会の方々に深謝いたします。

                                               蒋 歩青(上海外大)

       


     小さな善意、多くの善意を心にだいて

 山笑う青葉の季節、今年は中国へ行くことになった。中国へは何度か行っているが、今年はいつもの暢気な観光旅行だけではない。
 昨年、奈良女子大学で中国人留学生の主催で行われた「長江大洪水救援チャリティーコンサート」に行き、彼らの祖国を想う気持ちに打たれ、また、被災地の子どもを思って始めた募金活動の成果を中国の被災地の教育委員会に届けるという大役があった。
 訪中団は総勢四名で、それに上海からは上海外語大学の蒋歩青さんに通訳を兼ねて同行して貰った。
 蒋歩青さんとは彼女が奈良へ留学してこられたときに知り合い、その後親しくさせて貰っている。今回は小学校再建募金活動の話を聞き、快く引き受けていただいた。これで、難問の言葉の障碍が解決され一安心、あとは大金を無事に届ける事に集中すればいいということだ。
 四月二九日、午後一時五五分上海空港から武漢へ飛んだ。一時間二五分で飛行機は武漢に到着し、私たちは嘉魚県の来佑啓(教育委員会副主任)、劉艶祥(教育委員会)、唐小銀(外事)、張京群(公安局)の四方の出迎えを受け、手配して貰ったライトバンで武漢の市内を抜け嘉魚県に向かった。
 嘉魚県は武漢市に隣接した、人口三六万人ほぼ奈良市と同じくらいの町で、武漢市の上流に位置している。ライトバンは長江の堤防上のがたがた道を二時間半走り、嘉魚県のホテル嘉魚賓館に着いた。
 ホテルには副県知事尹鶴林、県教育委員会主任李茂栄の両氏が待っておられ、あいさつの後少時休憩し、歓迎パーティへ。地元の名物料理や地酒で歓迎された。トランクに入るだけ持っていったタオルなどをこの席で贈呈し、長い一日が終った。
 四月三〇日、八時半にライトバンで被災地の小学校中堡小学校へ向かう。先導する車は二台、私たちの車にはテレビのカメラマンも同乗、新聞記者らしき人もいたが後で聞くとこの人は教育委員会の人で、テレビ局と新聞社へ記事を送った人だった。
 中堡小学校に着くと、二階の会議室で被災状況と学校関係の復興の現状について説明を受けた。その後、校庭で子どもたちも一緒に義援金の贈呈式が行われた。子どもたちの明るさが救いといえば救いである。副県知事尹鶴林氏に義援金を手渡し、式の終了後、洪水の時に救助活動をしていて亡くなった軍関係、一九名の烈士の記念碑に全員で花を献げた。ご遺族の方々への見舞金を託してすべての公式行事が終了し、大任を果たすことができて肩の荷が軽くなった。
 今回の被災地は武漢の上流で、長江が大きく湾曲した内側の堤防が決壊したということで、この長江に囲まれた丸い島状の地区を「牌州湾」と呼び元来は長江の遊水池ではなかったかと思われます。日本での情報では武漢を守るために堤防をわざと決壊させたと聞いていた。中国側に確かめるとそういうことはなく自然決壊であるということだった。公式の発表はそうなのだろうが、何か釈然としないものを覚えた。また、〈今回の洪水は長江の浚渫などを怠った人災である〉という話も聞いたことがあるが、これは長江の広さ水量を実際に見るとなかなかできるものではないという印象を受けた。人間の力などこの大河の前では多寡が知れている。
 嘉魚県の人たちには、ほんとうに暖かく迎えて貰った。ホテルでは教育委員会衛生局の劉学明さんが、私たちの緊急時に備えて毎日泊まり込んでこまごまと世話をして下さった。また、三〇日には近くの寺へ案内していただいたし、一日にはメーデーで公休にも拘わらず、赤壁まで大変苦労しながら連れていって頂いた。その行為の一つ一つに善意が溢れ、滞在中実に快適に過ごすことができた。
 中国の小学校を中堡小学校の他にもう一校訪問した。この学校は香港の企業の援助で建設されたもので、運動場はまだ整備されていなく、オルガンなどの備品もまだ何もない状態だった。私たちが訪ねたときはちょうど昼休みで児童たちはいないということだったが、子どもたちの歌声が聞こえてきたので行ってみると、「児童節(こどもの日)」に向けて、歌唱指導の最中だった。休み時間なので自由参加だと思うが、教室は子どもで溢れ元気のいい歌声が窓ガラスを揺るがすほどに響いていた。
 この子どもたちを見ていると虐めだとか、学級崩壊とか、登校拒否などは無縁の世界だと思われた。日本とどこがどう違ってきたのだろうか。生活は貧しいのかも知れないが心の豊かさを感じる。ほのぼのとした豊かさである。
 今回は、実にいろいろ学ぶことの多い旅行であった。
 私たちのこの小さな活動が少しでも長く、嘉魚県の人たちと交流が続けられることを願いつつ……
 
                                    一九九九年五月二五日
                                                   舎川 宏


      中国旅行記

訪中メンバー
  舎川 宏
  舎川和子
  内藤伸彦
  中山登志美
〈行程〉
第1日〈4月28日〉PM3:50関空発→5:10上海着{CAー922}
                                      上海外大専用ホテル泊
第2日〈4月29日〉AM8:00ホテル出発
            木台〈TF用〉港倉庫へ検品
            富美龍〈メッシュパレット〉工場見学
            PM2:00 上海発→4::10武漢着
            空港よりマイクロバスで2時間半 嘉魚県へ
                                             嘉魚賓館泊
第3日〈4月30日〉AM8:30ホテル出発→AM10:00中堡小学校着
    贈呈式〈セレモニー〉
            1、水害状況と再建の現況報告
                  〈湖北省嘉魚県教育委員会 李茂栄主任〉
            2,募金活動についての説明〈舎川 宏・和子〉
            3,募金贈呈
            4,少先隊〈小学生〉からの献花
            5,学校長謝詞
            6,嘉魚県幹部謝詞〈湖北省嘉魚県人民政府 尹鶴林副知事〉
    小学校内授業模様見学
    水害犠牲者記念碑参拝、献花
                                             嘉魚賓館泊
    ホテルにて歓迎晩餐会〈王副書記ほか幹部8名、人民政府主催〉
第4日〈5月1日〉AM8:30ホテル出発
            三国志古戦場赤壁見学〈来副主任ほか3名同行〉
            嘉魚県市内見学
第5日〈5月2日〉AM5:30ホテル出発 マイクロバスにて武漢空港へ
          AM9:50武漢発→AM11:15上海着
          バスにて蘇州へ 蘇州市内見学
                                             竹輝飯店泊
第6日〈5月3日〉AM8:00ホテル出発
          蘇州石川製鉄{有}視察
          午後上海へ移動 上海市内見学
                                             銀河賓館泊
第7日〈5月4日〉AM8:00ホテル出発 上海空港へ
          AM11:30上海発→PM2:05関空着 帰国

〈感想〉
我々が訪問した武漢市は〈武州、漢陽、漢江等〉人口600万人、面積は香港とほぼ同程度で、揚子江〈長江〉流域の一つの市であった。この揚子江流域には約5億人の人々が生活しており、昨年の水害による被害地域としてはこの地域が最も大きかったところで、未だあちらこちらにその爪跡が見うけられた。

武漢より車で更に1時間半流域を遡った中堡村へ行く途中、家々の水没した状況を確認したが、深いところで約4メートルの水に浸かったようである。特にこの地区では下流地区の水没を阻止するため故意に堤防を決壊させたとのことで、それなりに被害が大きかったのだと思われる。

大昔より揚子江流域の水量の変化は水源地域の冬期積雪量に大きく左右され、そのため自然に{あるいは人工的に}迂回路があり、水量により迂回地区に出来た遊水池でその調節を行ってきていたが、近年の人口増加の影響もあるのか、その遊水池、地域にもたくさんの人々が生活しており、今回のような大災害になったものと思われる。

我々の目的地である中堡小学校は既に校舎は建っており、4年生までの児童が元気に学習に励んでいた。
カンパ金贈呈式〈セレモニー〉には小学生60数人が整列する中、式次第に従い和やかに贈呈式を終える。またこの模様は現地報道関係によりビデオ収録され、その日の午後8時のニュースにも放映されました。嘉魚県では3泊しましたが、大変なる歓迎を受け、また現地の小学校の実情も、つぶさに見せていただき、特に若者の愛国心や勤勉さに感動したしました。

今回私は、初めての訪中で、ほんのごく一部しか見学しておりませんが、広大な領土、たくさんな人々、膨大な保有資源どれをとっても日本の何十倍という隣国〈中国〉確かに奥地では日本の30−40年前の感じであるが、沿岸地方は日本と変わりないというか、むしろそれ以上の発展であり、また教育関係には随分、力を入れており、若者の勉学心も旺盛で日本人として大いなる危機感を感じたことと、これから大いに注目していかなければと、再認識させられました。

今回の訪中で私なりに大きな収穫がありましたことを付け加え、感想文とさせていただきました。

                                                           以上。
 
                                                      中山 登志美




        


        湖北省の隣人たち

       はじめに

平成11年4月28日から5月4日まで、同僚の中山さんに誘われ、ゴールデンウイークをかねて、「中国湖北省 学校再建の会」発起人の舎川ご夫妻に随行、カンパ義援金200万円、犠牲者弔慰金19万円を現地の湖北省嘉魚県人民政府、湖北省嘉魚県教育委員会に届けてまいりました。
初めての中国内陸部旅行は、私にとって飲み水、食べ物、飛行機の安全性など心配な事もありましたが、向こうでは現地の方々の配慮もあって、すべて取り越し苦労に終わり、何ら問題もなく無事に役目を果たして帰ってくる事が出来ました。少しでも日中友好のお手伝いが出来て嬉しく思います。
それはともかく、舎川さんご夫妻の中国語は、日頃の勉強の成果を十二分に発揮された見事なものでした。私にも中国語に対する興味が少し湧いて来たように思います。
言うまでもなく、中国は平城京や平安京を生んだ日本文化の大先輩であり、近代に至るまで古くからの隣人です。この会が更にもっとすそ野を広げて行く事によって、あちこちで友好的な民間交流が育っていくものと思います。
以下は私の見た中国湖北省の民族風土です。広い中国のほんの一部分に過ぎないとは思い
ますが、中国を理解するための一助になれば幸いです。

1.政治経済

中国。田舎と都会。経済と政治。日本との相違。お役所の力の強さ。政治の大切さ。
知識人でもよく知らない所がある法律。皆、おおらかで余り子細な事にこだわらない国民性か。
98年8月、長江で100年来の特大級水害。今度は何年後になるのか。治水の大切さ。
田舎の人は都会に移住出来ないが、若い人が学校を出て、就職の場合は都会にでも行ける新政策。今は都会に人が集中し過ぎているようだ。
都会。道路際にしゃがんで「木工」等、自分に出来る職種を書いて雇ってくれる人を待つ
現代版「待ちぼうけのウサギ」達。リストラなど、どんな日常生活なのか。これからどうなっていくのか。
都会の経済力。活力は農村にはまだまだ届いていない。その代わり農村には自然がある。
国に経済力がないと、人々の生活はいつまでたっても改善されない事が、私にもが容易に推察される。
日本の国の力。世界の先進経済力。自由主義経済。自然や環境を犠牲にして成り立つ弱肉強食について反省の時代。
日本の中国侵略。中国人の心に残した傷痕。将来、相当長い間、消え去る事はないだろう。
言葉の大切さ。日本人と分かると一瞬緊張する。中国語で話すと瞬間和やかな顔に戻る。
豊かな資源。広い土地。豊かな労働力。適切な指導で、近い将来、きっと豊かな国になる。
1家族1子。一人っ子だからとても可愛いがる。よく見る娘を乗せた親子2人乗り自転車。
鎖国がもたらしたものの1つ、経済の後れ。農村でテレビ普及の遅れ。

2.湖北省、嘉魚県の農村

メーデーの休日。皆さっぱりした青赤黄色、明るい色の外出着。家屋のお粗末さと対照的。
5月。新緑のポプラ並木、一面の田んぼ。日本の様な休耕田はない。皆一生懸命に働く。
赤レンガを手で積み上げただけの家。後進国で見られる簡単な家。其処にぎりぎりの生活。
便所だけは、さすがに屋外に離して作られている。
日常の家庭生活は、将来の夢は、これからも先の長い政治経済に呑み込まれてしまうのか。
何個所か洪水被災者のために作られた現代風の2階建て住宅。
今回この地区の被災は、下流の武漢等の都会が洪水に呑まれるのを救うために、国が敢えてこの上流地区の堤防を切ろことによって発生した。小の虫を殺して大の虫を生かした政治の力。
朝から淡黄色の埃色にかすんでいる朝もや。田舎で空気が澄んでいるはずなのに。長江(揚子江)の色が移ったのか。どうして。
朝早く、道路で見られるのは大人ばかり。若い人は起きてくるのが遅い。日本も同じだ。
町の広い道路を大きな箒ではいている人。公務員か。何時か誰かが掃除しないと、ね。
不思議な水の黄色い濁り。大きな河も。小さな川も。池も。自然の水はみんな。何故だ。
洪水の時、堤防近くの地表から吹き出したという水。土砂液状化噴出口の跡。大自然の力。
今も埋ったままの田んぼや農家。洪水は水害より大きい。
墓地はどこも雑草が茂っている。墓地自体人口に比べとてもすくない。政治の影響か。
農村の寺は荒れ方がひどい一方、都会の有名な寺は手入れが行き届いている。日本も同じ。
自転車で束ねた蓮根を運ぶ人。売っても大した利益はなさそうだ。これも生活だ。
農村の生活レベル。日本だったら何年前の時代に相当するのか。40年から60年か。
地面に商品を並べる物売りから始まってテントの商店、飲食店が出来、次に日用品の雑貨店が出来るまで、店の場所やその場所の人口、環境の違いがその差を作っている。
日本の大店舗スーパーには物が豊かに溢れている。経済力の差が生むこのギャップ。従って、経済力さえあればすぐに追いつく可能性のある現代社会。
田んぼの道具を肩に担いで道端を歩いている女。てくてく歩きはもう馴れているのだろう。
道端にしゃがんでじっと通る人や車を見ている男や女。道端で20センチ位のいすに腰を掛けて通る人を眺めている人。これは時間にとらわれない人間本来の姿なのか。
元気に跳ねている水牛の子ども。親牛について首だけ上に出して河を渡る子牛。日本とは別世界。
スズメとカラスを見かけない。世界中にいると思っていたのに。こんな農村もあった。
あひるの群れは平気で車道を横断する。車の怖さを知らないのか。「赤信号みんなで渡れば
怖くない」と、あひるが1枚上なのか。
犬、豚、鶏、水牛は道路に出てこない。車の怖さを知っているのか。
木の根元に白く塗った虫除け剤、蜿蜒と続く並木、手間がかかっただろう、どんな害虫。
意外にハエが少ない。きれいなところを選んで歩いたわけではないのに。
小型、中型、日本では消えた大八車。私が大八車を見たのは60年前、私が6歳のときだった。
豚の縦割りを自転車の後ろに乗せて運んでいる人。縦割りは何と表現したら良いのですか。
後ろ両側にバランス良く大きな容器をぶら下げた自転車。豚の餌を集めてきたのだそうだ。
いろいろなアイデアで作った形のバイクが通る。台車をつないだトラクターが走る。
広場に客待ちオート三輪車のたむろ。案外お客はありそうだ。
豚をいっぱい積んで運ぶトラックを何回か追い越す。中国で肉は豚だ

3.飲食店

郊外のいたるところにある。家の前にテーブルを出した小さい飯屋。
飲食店の原点からの変わり方。家の前にテーブルと椅子をを1セット置いて並べる。食器棚をテーブルの横において食器や調味料を入れる。テーブルの数が増える。練炭の釜を道路に据えて調理する。釜が家の土間に置かれる。釜が家の中に入り店らしくなる。
上海など都会のレストランは日本以上に絢爛豪華だというのに。同じ国でこの天地の差。
卵は淡茶色、黄茶色。白がない。ここには白色レグホンがいなかった。
豚1頭の縦割りを吊るしている露店。値段はいくらぐらいなのか。
道端のテーブルの上で、縦割りの豚を売るためにさばいている人。昔の日本にもなかった風景。
街頭の1つのテーブルで朝食を取る4、5、人の男達。家では作らないのか。

4.都会

武漢。歴史の街。三国志時代から今のコンクリート製になり変わった黄鶴楼を蛇山上に見ながら、オート三輪の列と共に、道路もよく整備された長江大橋を渡る。
眼下の長江には多くの大型船が行き来している。大型客船も見える。
市内の大型建造物。ここでも自転車、オート三輪タクシー。道に張り出した赤色が多いテント張りの食べ物屋。両側のマンション群の間を高架道路が走る。
都会の賑やかな結婚式。田舎の人はどのようにするのだろう。規模は小さくなりそうだ。。
黄色の服を着た若い人達が道路を箒で清掃している。もう日本ではあまり見かけられない若い人の原始的な肉体労働。
武漢で。一面に水を撒かれた道路は埃を防ぐための生活の知恵か。
運転手、朝食のために食堂街に車を止める。立ったまま食事の沢山の人達。混雑で残念ながら朝食をパスする。
中央分離帯にヒバの木。ヒバは丈夫な木だった。
空港や観光地には日本人が溢れている。商人の多くは日本語を話す。商人は商売上手。
空港入り口の道路上でキャベツを売っている人。誰が買うのかな。

5.長江(揚子江)

はるかチベットから6000キロ。黄色く濁った水、今もとうとうと流れる。洪水を生んだ水だ。武漢の下流で建設中の大橋。橋がなければ自動車も乗らねばならない、渡し船。橋はどうしても地域に必要だ。
堤防を約50センチ。コンクリート壁で嵩上げ補強。堤防下の土手にポプラや柳の若木を
植えて補強。この50センチで、この次の洪水が乗り切れるのか、首をかしげたくなる。
所々で、「天秤棒もっこ」とスコップでこのコンクリート壁の人力による延長工事がまだ行われている。「天秤棒もっこ」はもう日本では消えた。
堤防に20センチ角の低い椅子に腰掛けて川を眺めている人。大河ありてこの人あり。
遠くに魚を捕る「えり」が見える。
揚子江の向こう岸が見えないというのは、下流で海への出口のことだった。ここでは声が
届くくらい。

6.交通

凸凹道を時速90キロで飛ばす。車は右側通行。日本と反対。
見通しの悪いところでも強引に追い越す。農村ほど無謀運転。神風ドライバーの本家は日本。いつか事故になるぞ。
凸凹道の振動でマイクロバスの後のドアが開くらしい。運転手が時々止まって確認する。
2時間は走って信号がない。交差する道がないからだそうだ。信号は街にあってもあまり守られていない。日本でも同じか。
プロパンのボンベを積んで走っているトラック。よく見ると立てたボンベの間に人が2、3人しゃがみこんでいる。歩いていると時間がかかるからか。でも一寸危ない。
警笛。お構いなく鳴らしまくるクラクション。騒音。文句を言う人なし。自分は人より速く走りたいのだ。
ピカピカの自動2輪だ。あこがれる若い人もいるだろう。日本の25倍もある国だ。

7.公衆道徳

バナナを食べたら窓を開けてポイ。外が畑なら土に帰って肥やしになるが外は道路だよ。
持ってきたビニール袋をみんなの前で足元にポイ。一体、この感覚は。
中国に道徳教育の欠如を見つけた。
ごみ、散らかっていても気にならないのかなあ。罰金制度が救済策か。

8.教育

洪水でこの地を去った子供たちもいるとの事。生活はもっと苦しくなっているだろう。
漢字の国。書いてある看板はおよそ見当がつく。日本人向け。但し読み方、発音は別。
小学1年生でも、難しそうな漢字ばかりの黒板を読む。驚きと感心。
授業は空気がぴんと張り詰めている。学級崩壊とは無縁の世界。
英語は殆ど通用しない中国。今は中学2年から英語を取り入れているそうだ。アメリカ嫌いだったのか。成る程と納得。
                                                            以上

   おわりに
マイクロバスで移動中、思い付いて、窓から中国独特の風物をせっせとメモしたのに、腰が痛くなるくらいの悪路で、バスの振動がひどくて、折角のメモも自分が書いた字なのに、あとで判読できないところが沢山出て、大変残念でした。

                                                   内藤 伸彦