「運」について


特に年末・年始は「運」について考えてしまう。
「運」といっても様々「運」があるものである。

「わたし、ほんま運が悪いな〜」
何かにつけてこんな言葉が飛び交う季節である。

独身の方は「おとこ運」、「おんな運」を一番に連想されることであろう。
この不況時最もほしいものは「しごと運」「商運」であろう。
やけくそになってパチンコ、マージャンなど
「勝負運」にかける御仁も多いことだろう。

「運」も実力の内
「運」は切り開くもの
なんてよく言われる。
が、好むと好まざるに関われずやはり「運」はその人々につきまとう。

生まれ出た時から人間には「運」がつきまとっていることは確かだ。
金持ちの家か、貧乏人の家に生まれるかで出だしから大いに違う。

そもそも、戦禍や貧困の激しいの国を見ると
日本に生まれたのは幸せだと私などは思う。
また、身体的にどうかと言うことも「運」よるのかもしれない。

そんな大げさな話でなくとも、我々(?)庶民は常に「小運」を気にする。

日本では何やかやと言いながらサラリーマンの比率が多いはずだ。
どんな会社(組織)に勤めるで大きな「運」に左右されることも確か。
一昔前は超優良企業、今は倒産すれすれ。
その逆も含めて、自分独りの力ではどうすることも出来ないこともある。
これも「運」とは言えないのだろうか。

どんな上司の下につくのかさえ「運」次第である。
良い上司の定義は難しいが
小々厳しくても「のびのび」仕事ができる環境こそが、私はベストであると思う。

「悪い上司は反面教師だと思って頑張れ」
なんて書いているビジネス評論家のおっさんは
本当に苦しいサラリーマン生活をしたことがあるのだろうか。
その当人にとっては毎日がつらい日々であることは言うまでもない。

 

ここで中国の古い逸話を紹介したい。

「人間万事塞翁が馬」
(にんげん ばんじ さいお が うま)

要塞(国境地点)の近くに男(塞翁)が住んでいた。

ある時この男の馬が逃げ出した。
近所の者がなぐさめに行くと
「福(幸い)にならないとは限らぬ」といってのけた。
この男の予言どおり、逃げた馬は新た駿馬を伴って帰ってきた。

この男の家には良馬がふえた。
また、近所の者がお祝いに行くと
「禍(わざわい)にならないと限らぬ」と今度は反対のことを言った。
しばらくすると、その男の息子が馬から落ちて足を怪我をした。

近所の者が見舞いに行くと
「福(幸い)にならないとは限らぬ」と言い切った。

しばらくして国境から他国兵が攻め込み戦がおこり
多くの若者が出征死した。
この男の息子は足を怪我した為に
戦に借り出されることから免れ、命を拾った。

福だからといって喜びにあたらず
禍だからといって悲しむにあたらず

つまり、福は禍に転じ、禍は福に転ずることもあり
なかなか先のことは予測しがたいことを教示している。


「運」・・・・・とゆう漢字本来にも
「めぐる」、「まわる」との意味がある。

つまり運とは一定ではなく常に回転するもの。
プラス志向(謙虚さを兼ね備えた)こそ
唯一の救われる方法だと私は思う。

とはいいつつも、有馬記念に今年最後の大勝負をかけ
年末ジャンボ宝くじをしっかり買い込む。
「強運」の到来を初詣で祈りつつ、
せめてお年玉付き年賀状の「カニちり」セットぐらい当たらんもんかと思惑する。

これぞ、日本の庶民的正統な正月の迎え方だと思う
・・・・・のは私だけだろうか。

2001年12月15日 ◆祭 作太郎