☆清流茶屋☆  教育勅語と援助交際(少女売春)
 

どの方面にせよ、「子育て」や「教育」が
今、考えるべき緊急の問題である。
真摯に問われている時が来た。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
と先週号の、「本音と建前」のコラムで述べた。

すると今週は、東京・渋谷の小学生監禁事件である。
ワイドショー風に言うと
「またまた、ショッキングな事件が発生しました!」
とさも驚いたような大きな目をしてマイクを持つのであろうか。


世の中の乱れが、もうここまで来ると歯止めがかけられない。
「〜の低年齢化が進んだ。」などと理屈をこねていても仕方がない。
私なんぞが言うべきことではないが、
この事件は氷山の一角であるのは明白だ。

つまり、一部の学生(児童?)は、平気ではいているパンツを売ったり
売春して小遣い稼ぎをしているのだ。
驚く必要はない。もう何才と言う下限を設ける必要もないが
少女は充分、性のオモチャになりうるのだ。

東南アジアのある地域に行くと、半場公然として児童売春が行われている。
日本人もそこまでよく出張していると聞く。
いやいや、特定地域でなくても、日本で言う中学生の年齢なら
立派な職業売春婦として公然と働いている。

ただ、日本の(援助交際と言われている)少女売春と大いに違うのは
東南アジアの売春少女達は、想像を絶する貧困が根底にある。
倫理は別にして、家族の生活の為に青春を売る。
いや、そんな論理も何もわかないまま、知らない土地へ連れて行かれるのだ。
日本でもかつて「からゆきさん」なる
外国への少女の身売り制度があったように。


さて、この援助交際(少女売春)の事態をどう打開すべきか。
手遅れであるとか、あきらめようとか言うのは容易い。
が、あえて私は提言したい。

戦前まであった「教育勅語」のような全児童・学生の指標が必要ではないだろうか。

今の世の中「教育勅語」などと言おうものなら
軍国主義だ、右翼だ、時代錯誤と言われかねない。
が、いまの若い人(中高年も含めて)その本質を知らない。
当たり前だ、誰も教えてくれないのだから。
「教育勅語は日本が起した戦争犯罪の象徴」
と言うような捉え方までされている向きもある。
が、事実は全く違う。


明治維新後、日本は西洋に追いつけ追い越せで必死に近代化を急いだ。
一八七二(明治五)年、「立身出世」を目標とする「学制」が発布された。
道徳教育の軽視に気がついた。

起草者(井上毅・田永孚)は、宗教上の争いを避ける細心さで
「天を敬う。」「神を尊ぶ。」などの言葉を使用しないことを原則に
一八九○(明治二十三)年十月三十日の発布した。


「教育勅語」は明治天皇のお言葉として
日本の敗戦まで、学校では毎日唱和させられた。
「勅」と言う一字が、軍国主義・国家主義を連想させ、
現代日本では「教育勅語」を持ち出すのは禁句と言う空気が蔓延している。

所が驚くことなかれ、この「教育勅語」は発表当時から
先進諸外国から非常に素晴らしいと絶賛された。
日露戦争終結直前に、米国に裏交渉にいった外交官は
「なぜ、日本はこんなに短期間にロシアと対等に戦うまでに成長できたか?」
と問われて、「教育勅語」の精神を披露した。
その本意を理解した米国人の驚嘆したと言う。

第2次世界大戦後、GHQも非常に困ったのが
「教育勅語」の取り扱いであったそうである。
非常に家族主義的であると言う難点もあるが、
原文自体は悪いところはない、また日本人の精神的支柱にもあたり論議を呼んだ。

が、御真影の前で行われる「勅語奉読の儀式」など「天皇の神格性」を
説くのに少なからず影響を与えるとなどの理由で
一九四八(昭和二十三)年六月十九日、衆参両議会に置いて
「教育勅語」の失効が決議され今に至る。


私は、軍国主義でも、国家主義でも何でもない。
また、「教育勅語」を現代に復活させよなどど言うつもりもない。
ただ、「教育勅語」を読むと失われつつある日本人の美徳の原典が
ここにあったのではないかと感ずるのだ。

全国民の指標とまでは言わない。
少なくとも小学生や中学生ぐらいまで道徳的な
共通の指標が有っても良いのではないか?

自由、個性、と言葉をはき違えて来た結果が
小学生売春であるならば・・・。

最後に、(初めて読む人も多いと思うが)
参考資料として「教育勅語」の原文と現代訳を記しておく。
現代訳に関しては、私自身が解釈している部分もあるので
間違っている箇所があるかもしれないが
予めご容赦頂ければ幸いだ。

◆祭 作太郎 2003年7月19日

 

教 育 勅 語

●朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ
徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
 
 朕(=天皇自身)が考えるに、天皇の御始祖たちは建国時の遠い昔より
 を慎み、徳をもって信条としてきました。

●我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ
世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ
教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

 天皇の臣民である国民は、どの時代も忠孝を尽くし、国民が心を一つにして
 その美徳を発揮してきた。
 これこそが我が国の優れた所であり、教育の根本もここを目指すべきです。

●爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ
恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ

 皆さん(お前たち臣民)は、父母に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦も仲睦まじく、
 友 人とは信頼しあい、礼儀を守り、自らは身を慎み、
 人々には愛情の心を持って接して

●學ヲ修め業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ
徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ

 学業に励み、仕事は懸命に覚え、知識広め、才能を磨き、人格を完成させて
 自ら進んで社会奉仕をしてください。

●常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ


 常に憲法や法律をよく守り、万一、国になにか非常事態が発生したら
 正義と勇気を持って、国家・公共のために身を捧げることで、
 未来永遠につづく、天皇を戴く国運の栄えを支えないといけません。

●朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

 これは、単に天皇の忠良な臣民としての行動だけでなく、
 御先祖の残した美徳を継承することでもあります。


●斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ 
遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ於シテ悖ラス 

 この教えは、まさしく我が天皇の御始祖たちの遺訓にして
 皇室も臣民も共に子々孫々まで伝えて守るべきものであり、
 いつの時代も、洋の東西を問わず正しいものと思います。


●朕爾臣民ト倶ニ拳々服應シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

朕(=天皇自身)も、臣民(皆さんと)共に、
進んでこの教えを守り、実践するようにしましょう。


明治二十三年十月三十日 御名御璽

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※備考

特筆すべき所は、最後の箇所。
完全な命令形ではなく、一緒にやろうと呼びかけている所である。



☆清流茶屋☆  教育勅語と援助交際(少女売春)2

 

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どの方面にせよ、「子育て」や「教育」が
今、考えるべき緊急の問題である。
真摯に問われている時が来た。
と第146(先々週)号の、「本音と建前」で述べた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
すると翌週は、東京・渋谷の小学生監禁事件が発生した。
援助交際(青少年犯罪)の低年齢化である。


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そこで、第147(先週)号の、「教育勅語と援助交際」で述べた。
戦前まであった「教育勅語」のような全児童・学生の指標が必要ではないだろうか。
と言う論旨を述べた。

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読者の皆様から数名ご意見を頂戴している。

◎教育勅語と援助交際が結びつけるのは無理がある。

◎子供ではなくて、悪いのは大人だ。
(パンツを買う大人がいるから、パンツを売る子供が出てくる。)

中には、
◎子どもにだけ教育勅語(道徳観念)的を課す言う論法は
愚かしい。激怒する。
などと手厳しいご意見もある。

ご意見を頂けるのは本当にありがたい。
この場を借りて御礼申し上げます。

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では、本編に入らせて頂きます。


限られた時間で全てを述べるのは限界があるので
(今回も含めて)説明不足の点も否まない。

まず、今の青少年の風紀の乱れの根本が大人(親)か子供か。
ご指摘にあったとおり、本当に悪いのは大人に決まっている。
子どもにだけ道徳観念的を課すつもりは毛頭ない。

こう考えればどうであろう。
部下を指導する立場になったら己自身の身を正すと言う感覚。
子供に「悪いことをしてはいけませんよ。」言う親。
親自身は悪いことをしていないか振り返るのではないだろうか。
子供に「近所の人にキチンを挨拶しなさい。」
と言う前にまずお父さんお母さんが近所の方と良いコミュニケーションを
保っているかが大切である。
つまり人にモノを教えると言うことは、己を成長させることでもある。

さて「教育勅語」について。
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第2次世界大戦後、GHQも非常に困ったのが
「教育勅語」の取り扱いであったそうである。
非常に家族主義的であると言う難点もあるが、
原文自体は悪いところはない、
また日本人の精神的支柱にもあたり論議を呼んだ。
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先週号でこう書いた。
なぜ、GHQが非常に困ったのか?
日本には元々西洋やアラブ世界的な宗教を柱にした
根本とする道徳観念がない。この点である。

天皇(家祖先)を崇拝とする神道的なものや
(分かりやすく言えば、江戸時代に盛んになった伊勢神宮のお参り。
この時代、庶民にゆるされた唯一の旅行であった。)
中国の影響を受けた儒教精神、そして仏教。
明治の世から現代に至るまであらゆる要素がないまぜになり
日本人の道徳感を形成していると言える。
それが日本人には本当の意味での宗教がないと世界から言われる所以でもある。
これらが宗教的ビジネスを誘発する原因でもあるかもしれない。

つまり、良しにつけ、悪しきにつけ「教育勅語」が
(もちろん子供だけではなく)戦前までに
日本人の道徳的主柱になったのではないかと私は考える。

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さて、これから一番重要なことは「公」(社会)と「私」(個人)
と区別と言うか関わり方でないであろうか。

住宅街の狭い道をスピードを上げて走る車。
電車内での携帯電話や大声の会話。
簡単に人の繋がりを切って知らぬふりをする輩

「公」とはなんぞや「私」とはなんぞや、
私は、この区別こそが道徳(人間)であると考える。
決して割り切れない所が難しい。

非常に難しい問題であるが、機会を得たら
「公」と「私」について詳しく述べてみたい。

奇しくも今週末「イラク支援法」が成立した。
好むと好まざるに関わらず私も読者の皆様も
総理大臣も日本国と言う枠の中の「公」(社会)に属している。
青少年問題(犯罪、援助交際など)も含めて
単に人の意見に賛成、反対ではなくて一人一人が「こうすれば良い」的に
案を出していくことが重要である。

私の持論であるが「代案なき批判は意味がない。」
我々はどの場面に置いても単に反対するだけでなくて
代案を出す必要がある。
批判・批評家には誰でもなれる。
案を出せる人が求められている。

◆祭 作太郎 平成15年7月26日


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