2002年のビジネスコラム

「ニセモノについて」

平成14年3月9日 ◆祭 作太郎


 


ニセモノ(偽者・贋物)が世にはびこっている。
突き詰めれば今に始まったことではない。
慣習として、誰でもやっているとして、偽者病蔓延である。

 

 

アメリカにはアメリカのやり方がある。
中国には中国のやり方がある。
日本には日本のやり方があるはずだ。
もちろん、学ぶべきことは多い。
だが、猿マネでは駄目だ。

しめじとひらたけは別物だ。
わさびはホースラディシュではない。
ビールにはお米もコーン・スターチも混ぜてはいけない。
手作りは、一切機械を使用してはならない。
虚偽の(ラベル)表示をしてはいけない。

その場しのぎの嘘はいつかはばれる。
そんな恥ずかしいマネしてまで
ニセモノの幸せが必要なのだろうか。

何を一体守ろうとしているのか。
地位、名誉、財産?
自分の心をだまして何の価値があるのか。

なぜ正直に生きれないのか。
なぜ罪を認めないのか。
どうして何かのせいにするのか。

ニセモノの生き様、棺おけに入るとき満足できるのだろうか。
人は騙せても自分の心は決して騙せない。
誰も見てなくても自分は見ている。

そろそろ過去を清算すべきである。
昨日、食堂できし麺をすすりつつ
新外務大臣、外務省官僚の国会答弁
(北海道某建設物・指定業者の入札について・・・)
をラジオで聞きながらそう思った。

その店のオヤジの作る『味噌煮込みうどん』は
麺もダシも嘘のない『ホンモノ』だった。
あったかくて、とても嬉しかった。

 


 「若年層・雇用問題について」

平成14年3月16日 ◆祭 作太郎


戦後最悪の高校生の就職内定率75,7%だと朝刊にでた。
大学生も約83%、女子短大生約70%(2月1日現在)とのこと。

中高年の失業が問題に話題に取り上げられるが
実態は若年層の失業がより深刻であるのだ。

2年ぐらい前のある統計では、40代後半から55歳前半の
大学卒ホワイトカラーの失業者数は5万人との事。
総失業者総数約300万人に対して約2%弱。
若年層(25歳以下)はいうと13%との話もある。
また一説では、若年層の過酷な長時間労働の現実を指摘している。

 

 

 

いずれにせよ、労働市場における中高年が得ている雇用の既得権が
若年層の雇用機会を阻んでいるともいえなくもない。

パソコン教室のテレビCMではないが、
今までは経験と根性で勝負だったのかもしれない。
だが50代以上(或いは40代)の人が例えば
何%パソコン習得に努力しているのだろうか。
アメリカン・スタンダード的に考えると、
もはやITスキルは年齢・業種に関係なく必須である。

例えば全社一斉電子会議をやろうと思っていても
最低限度の技能がないと全体の足を引っ張る。
その足を引っ張るのが「エライさん」だから性質(タチ)が悪い。
一向に進まないのだ。

「エライさん」の収入に対して何分の一の若い社員や派遣社員の方が
よっぽどスキルを持っているケースが多々ある。
「もの」を売る現場、「もの」作る現場においても実績=収入ではない。 
イコールになるには、様々な社会背景の整備が必要なのはもっともだが
深刻な若年層の失業を解決することが何より先決だ。

言いたくはないが、退職金もすでに貰った還暦を過ぎた人が
週3回半日出勤で机にじっと座るだけで給料を得ている。
少なくはなったが、そんな人がまだまだいる。
食うに困っているなら別だが、その人たちの経費が
新卒者の雇用を奪っているのも現実だ。

しかし、これから若年層は、卒業時の選択肢にサラリーマン・OLになる
と言う項目をまず除外してから考えるべき・・・。
そんな時代が来ているのかもしれない。
今まで哲学的な要素を余りにも論議されなかった。

自分は本当に何をしたいのか
自分は本当は何の仕事をしたいのか
自分の人生をどう生きるのか

そう言った根本をまず自分なりに整理して社会に望むべき時代なのだ。
その上で、勤め人にならずに起業する、職人の弟子になる
本物の技能を習得する、過疎地域に行って林業、農業に従事するなど
自分の生き方と照らし合わせていく働き方が求められる。
また、日本に自分の理想がなければ外国に出る方法もある。

 

 

人は皆年を取るし今20代の人もいずれ50代、60代になるのだ。
いかに社会が変革しようと己の哲学をしっかり持たないと誰も助けてくれないのだ。

日本人は優秀だと思ってきた。私も貴方も。
でも、よくよく考えて見ると元々資源も少なく国土も狭い。
様々な好条件の基、多くの周辺他国よりも発展が早かっただけなのだ。

社会環境や物価指数は違えども、
一般労働者の平均賃金が月1万円弱の中国が正面切ってのライバルとなった。
(ベトナムやミャンマーなどまだ人件費は安い)
創造性がなければ国も個人も失墜する一方だ。

だが、己に哲学(自分は本当に何をしたいのか)なしに
私も貴方も創造なんてできない。

 

 

 

 

 

「ワークシェアリング」

平成14年3月31日  ◆祭 作太郎


 

自民党の古狸どもを徹底的に追い詰めてきた
辻元清美代議士が今週先に辞職することになった。
ことの正否は別にして彼女が使った
「ワークシェアリング」という言葉が鮮烈だった。

数年前まで大政党(総理大臣を出した)だった
社民党(旧社会党)は急激な議員減で
あふれた事務職員などの対処に頭を痛めていたに違いない。
私はこのことから関ヶ原の合戦で(名義上)西軍の総大将を務めた
毛利輝元の悲痛を思い出した。

 

毛利輝元の祖父、戦国大名毛利家の創始者毛利元就は
一代で小さな集落の盟主から中国地方のほぼ全域を手中に納めた。
今の山口県、広島県、岡山県、島根県、鳥取県、瀬戸内海の島々と
後の織田信長と匹敵する規模の大大名になった。

毛利元就は3人の息子達に遺言した。
1本ならすぐ折れてしまうが、3本合わせれば中々折れない
兄弟力を合わせるのだと。これが有名な『三本の矢』の逸話である。

だが、真相はどうか。
毛利元就は自分達の息子を眺めて
皆出来は悪くはないが天下を争う器はないと見た。
決して多くを望むなと言いたかったに違いない。

毛利家は織田家と交戦するが信長死去後、
後を引き継いだ豊臣秀吉と和睦。
秀吉没後、3代目の毛利輝元(元就の孫)は豊臣家5大老として
徳川家康と同列であるがその器量は比べるまでもない。

が、様々な状況の中で毛利輝元は名義上西軍の総大将になった。
といって彼は大坂城から動かず関ヶ原の戦場には赴かなかった。
分家の吉川家、小早川家のみが戦に出た。

東軍の徳川家康側の勝因はこの西軍毛利両分家の動きが最も大きい。
吉川家はほとんど戦を傍観し、小早川家に至っては
終盤戦に味方の西軍陣地に切り込んだ。
徳川家康にとって小早川家の寝返りこそが(事前に仕組んであったにせよ)
最大の功績であった。

にも関わらず戦後、徳川家康は毛利家を取り潰そうとした。
当たり前である。徳川の次に大きい大名は毛利家だったのある。
が、前述の分家の活躍によりそうもいかない。

結果100万石を超える大大名から、30万石大名に一気に格下げした。
毛利輝元は悲痛だった。単に禄高が減るだけではない。
召し抱えている多くの家来は簡単に切れないのだ。
禄高が減り、家来数はそのままであれば死ぬよりも苦しいと思ったはずである。

それならなぜ、最初から徳川家とはっきりと戦わなかったのか。
同じ五大老の上杉家は最初から徳川家と戦う姿勢(というか実際の仕掛け人)
を取っていたし、前田家、島津家も毛利家が本気だったら西軍に味方していただろ
う。
毛利家は絶好の天下取りの機会を逃し、小国に収まったのだ。悔やんでも遅い。
しかし、家を存続させることができたのは祖父元就の願いどおりだった
のかもしれない。

 

 

 

 

 

 

さて、私は辻元清美元代議士の
「ワークシェアリング」という言葉からこれらの事象を連想した。
社民党(旧社会党)も一時は覇を争ったがその中途半端な姿勢で小政党に陥った。
なぜ、最後の最後に自民党と連携したのかいまだに疑問だ。

当時の新進党などと諍いはあれ、少し熟慮すれば政権党であれた。
与党になればこそ政策も実行できる。
千載一遇の機会を逃し一小政党に陥った。
庇を貸して母屋を取られた(総理大臣を出す替わりに、骨を抜かれた。)

しかし、国会議員数が減ったからといって元第2政党、
事務職員など屋台骨は元々大きい。
ある程度整理してもどうしても減らせない部分もある。
この社民党の悲痛さは、「ワークシェアリング」という言葉に表せられる。


徳川家康は、死ぬ間際まで駿府城(静岡県)から西を見つめ
いつかは毛利家が東上してくるだろうと心配した。
その恐怖から名古屋城、大坂城を増強し西に備えた。

毛利家は30万石ながら多くの余剰人員を食わす為、
学問に務め、山を削り、海を干拓し、産業振興を図った。
幕末の頃には実質100万石規模以上の実力と人材がそろっていたと言われる。

かくして、徳川家康の予言は300年を得て的中した。
長州藩(毛利家)は倒幕の最大の原動力となったのだ。


話はそれるが、鳥取県の「ワークシェアリング」。
鳥取県知事の大英断で県職員の給料を平均5%削減して
その余剰金で雇用を創設するとのことだ。
公務員の給料は下がらないとの常識を破ったとの論点が強調されているが
もっと全国にこの鳥取県知事のようなまともな政治家が多くでないものか。


ことは緊迫している。
私は社民党のことを回顧したいのではない。

平成日本を江戸初期の毛利家に置きかえてみてはどうだろう。
例えば、徳川家をアメリカ合衆国に。
歴史をただ辿るだけではなく事象を変換したりすることによって
見えてくることもある。


 

「ブロードバンドと出会い系サイト」

平成14年4月13日 ◆祭 作太郎


 

ADSLの急激な普及とともに日本のブロードバンドも一気に加速している。
日本政府はIT化の地域格差を避けるべきとの見解で
日本全土に光ファイバーなどの回線設置果たしてそれで良いのか。

騙されてはいけない建設族の私利私欲に。
過疎化激しい農村地帯に光ファイバーが必要なのか。
第一誰が何のためにインターネットが必要なのか。
そこで『何をするのか』・・・そこの所が論議されない。
計画を躍起に進めているようだ。


仕事をする場所を選ばないのがコンピューター(IT・通信)業界である。
にも関わらず米シリコンバレー、中国北京中関村、東京渋谷など
不思議な事に他の産業以上に密集化している。
バーチャルな世界を創造する作り手側は
よりリアルな人と人の接点が必要だとの実証だと思う。

地方のIT化推進は、大胆な税制優遇や施設・資金援助ができる
特別区を設けるなどの構想が必要だ。
つまり戦略なくしてブロードバンド化を急いで地域拡大しても意味がない。

そこには大義名分と公共事業の後に残った、永年赤字高速道路や
作る人のいない開墾農地と同じになる。
何度国民を騙せば気が済むのか。いや騙されるべき国民も悪い。
採算の取れない通信費の急速な低価格化競争が招くツケは
結局国民が負担させられるのだ。

 

地方に限らず、他の諸外国との比較する観点から
日本はIT分野で『何をするのか』この部分が必要である。
小学校からパソコン(インターネット)の導入は良い事なのか。
一体どの方向性を明確にしているのだろうか。
悪いことは言わない学校(正教員)には
パソコン(インターネット)を教えさせるべきではない。
今までの英語教育をみればわかる。
10年近くも学校で英語を勉強したあなた、米映画を字幕なしで楽しめますか?
あるいは英字新聞が読めますか。
彼らは試験勉強の専門家(教科書の解説家)であり実践コーチではない。
教えるのは最初から無理だ。

インターネットの高速化・低価格で喜んでいるのは
ポルノ愛好家ばかりという現実である。
携帯電話(アイ・モードなど)を利用した日本型ITも期待を呼んだが
世界基準から遠ざかろうとしている。
そこに繁盛しているのは出会い系サイトとそれに関わる犯罪行為である

 

とくべき方法はある。
学校のIT教育問題や日本のブロードバンド化などの戦略会議を、
Eメールも使えない族議員や大手メーカーの重役から外し
20代・30代の若手社員やベンチャー起業家に任せる。
そしてIT公共事業を立案・実施させる。
ブロードバンド建設雇用ではなく、
今こそソフト(コンテンツ)事業雇用が必要なのだ。

また、10代の学生を国費でどんどんIT留学させる(語学の観点からも)
必要もある。

急がないともう時間はないのだ。

 

「ボーダレス」

平成14年11月2日 ◆祭 作太郎


 

大前研一さんの本を読むとしきりに『ボーダレス』と言葉が出てくる。
『ボーダレス』とは、境界がない、国境がないという意味だ。
borderless economy とは無国籍経済とでも言うのだろうか。

今、新聞を読むと特に中国の製造業が元気で
日本経済を怯やかせていると喧伝されている。
日中企業の業務提携も盛んだ。

さて、大部分を締める一般庶民の感覚としては
『ボーダレス社会』は馴染めないと思える。
日本人の価値観として一躍千金派は少数なのだ。
多くが地道を旨とする。

バブル時代だと言ったて、実際に株を買った人がどれだけいるのだろうか。
大部分が会社の社員として、株や土地などの投機を行っただけで
個人的にはどうだろうか。
話題になったNTT株にしたって、あれは単なるブームだったはずである。

せいぜい、値上がりするとの淡い夢を膨らませながら
無理をしてマイホームのローンを組んだ程度だと思う。

『ボーダレス・エコノミー(経済のグローバル化)時代が到来した、
終身雇用制が崩壊し、これからは実力社会だ!』
といたって、本当に多くの日本人がそれを望んでいるのだろうか。

日本もかつては、世界の工場と呼ばれた。
戦後、焼け野原から産業を興し電機、自動車などモノ作りで
世界を席捲した。それこそeconomic animal と揶揄されながら。

また、サブ・カルチャーとして、カラオケは世界の共通語だし、
アニメ・漫画・アイドル歌手(アジア中心)なども輸出。
食べ物の世界では、寿司、すき焼き、てんぷら、
即席(カップ)ラーメンから、化学調味料『味の素』まで。

一握りの実力者を除いて、多くの日本人は職人気質で
地道にコツコツと仕事をしたいと思っているのではないか。

人間誰でもお金は欲しい。出来れば(各自のレベルで)今より少しでも多く欲しい。
せめて、隣にすわっているヤツよりは出世したい。

しかし、『あの大先輩の上に立って、叱咤してやろう!』
と本心で思っている意地の悪いヤツも一握りだと思いたい。

やはり、日本は世界の情勢に余り振り回されずに
日本の進むべき道を考えるべきである。

ゴジラ松井が日本から出て行くとの記事を読みながら
日本の誇りとして応援したい気持ちと、寂しさを覚えながらの
複雑な心境が今日の文章を書かせた。

 

 

清流のごとく

平成14年8月17日 ◆祭 作太郎

暑い季節になるとワクワクして、まずは海やプールに出かけて水を浴びる。
少し季節感が落ち着いてくると山の空気を吸う。
そこで美しい川を眺めるとほっとする。
比較的若い人の夏を満悦するスタイルではないだろうか。
残暑から初秋にかけても山の清流は素晴らしい。


行楽と言えば関西活性化の起爆剤、期待の星『USJ』が様々な不正行為を犯し
来場者が見込みより減少しているらしい。
不正行為と言えば、牛肉偽装問題で天下の『日本ハム』ブランドが
スーパーなどの食品売り場から姿を消しつつあるらしい。


『銀行とつきあう方』みたいな内容が書かれている
元漫画家の青木雄二さんの本がある。
銀行員は客のことなんか考えて仕事してまへんで、
客に背中を向けて(社内に向かって)仕事してまんねんで。
と言うような意味の過激な事が書いてあるが『なるほど』と頷くことも多い。

不景気、不景気と言ってもこれだけ長期間続くと
これが普通なのかなと思ってしまう。
ハンバーガーが59円で買えるのだ。
ただ、日本の会社-社会は明らかに体力が落ちていることは確かだ。

競争社会であるとか、能力給であるとか、リストラだとかまだまだ馴染めない。
100年ちょっと前まで、農耕民族であり総国民の職業が世襲であった
日本人には狩猟民族(欧米)式の考え方は体質に合わないのだ。

この不景気と言われる経済環境の中で
それぞれの立場でノルマと言うものが課せられ
それを達成する為には、客に背中を向けなくてはならない場合もある。
つまり、客に対して明らかに不利益なことや不正行為だと自覚していても
社内の命題(例えば売り上げ)を達成することは必至だ。
そんな悪い意識が日本中蔓延しているのではないか。

それが出来なければ首になるという恐怖感からか、
ズル賢いヤツから率先して自己主義に走る。
そして、そのズル賢いヤツに大勢がつられる。

無借金経営でなければ、たいていの町の社長さん(中小企業)は
会社が潰れると担保である自分の財産は全部取られる。

大企業に多いサラリーマン社長の場合はそうではない。
会社が倒産しようと自分の家や貯蓄は別物なのだ。
自分の所の社員が社会背信行為を行い、責任を取ると言っても
会社(社長)を辞めればすむのだ。
命まで取られる事はない。

でも町の社長はそうではないのだ。
明日から食べていく方法すらおぼつかない。

夏である。空気の良い山の清流に出かけて
少々頭を冷やしてみようではないか。
この悪循環を断ち切って清流のごとく清く生きようではないか。


余談であるが、このコラム『清流茶屋』の名前の由来をよく聞かれる。
大阪・西成に天下茶屋と地名がある。発音は『てんがちゃや』とする。
いかにもガチャガチャしていて大阪らしいコテコテ語感(油っこさ)がある。

しかし、私はこの天下と茶屋と言う組み合わせが好きである。
名前の由来は調べていないが、
『天下を取った太閤秀吉がお茶を飲んでいる』
そんな情景が何となく浮かんできて微笑ましい。

私は太閤秀吉にはなれないが、せめて清く生きたいと思い
美しい清流の傍にある茶屋を瞑想した。
だから清流+茶屋なのである。
世間が、清流のごとく清く美しく流れてほしいと願うばかりだ。

先日、石川県でこの清流茶屋の名前にぴったりの所を見つけてきた。
正確に言えば御茶屋さんではなく川魚専門料理店である。
清流の土手に古い作りの家屋(お店)が建つ。
この建物を見るだけでも都会人には興味深い。

川魚は不味い(或いは食べ辛い)と多くの方が思っていることであろう。
私も実はそうであった。

このお店の岩魚のお造りや塩焼きを食べると
それは誤解だったと気づく。
伝統的な本物の調理法で作ると川魚はこんなに美味しいものかと知った。

座敷からは、山と山に囲まれている清流が眼下に見渡せる。
これぞ清流茶屋であると私は喜んだ。

興味ある方は写真を取ってきているのでご覧頂きたい。
http://www.itsuzai.net/kkd/contens/seiryucyaya.htm

◆祭 作太郎

 

 

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