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「お、お前は誰?」
「俺は、明日のお前だ」
 
 そのときの俺は、
少なくともそのときだけは、そいつを待っていたのかもしれない。


《明日の俺》


―― 一日目――

 その夜、いや、毎夜。いつからだったか、いつから敗北したのか、いつから立ち上がることを忘れたのか、とにかく夜。
 俺はいつもの様に、無気力に、何も出来ずに、寝て、起きて、小便して、飯を食って、また寝て、大便して、家と学校とコンビニの間を行き来するだけしか外出もない、そんな下らない生活を繰り返していた。
 そしていつものようにむしゃくしゃして、その発散の場所も方法もわからないままぼんやりして、将来とか人間関係とかそんなことに悩んだフリしながら不貞寝して、そんな生活を咎めもしない優しい親を呪って。

 だから俺は、少なくともそのときだけはそいつを知っていたのかもしれない。

 だから、コンビニが帰りの夜道で、人も来ない道端で、照明もまばらな夜の闇の中でも、それでも確信を持って、納得できてしまったのだろう。
 自分とそっくりな人間が目の前に現れると、その人間は間も無く死んでしまう、とかいうわけもない存在があると。思い出せてしまったのだろう。

 だから俺は、少なくともそのときまではそいつを受け入れていたのかもしれない。

 だけどそいつは、着ている服や靴まで俺の服のそいつは、
「違う」
 とだけ呟いて。
 目の前に現れた『俺』 は、よく見ると、顔じゅうを紫色に腫らしていたるところに絆創膏を貼りまくって、
腕と足を痛めてまともな立ち方すらしていなく。
 むしろそいつの方がしばらくしないうちに死んでしまうのではと心配してしまうほどで、
「なんて顔をしているんだ」
 腫れた顔ではよくわからないけど、口の端がありえないほど歪んで、
鏡でも見たことがない皮肉な笑みになっていて、
 だから俺は不安になった。
 こいつはそっくりなだけで、違うのだろうか。
 俺を殺してくれないのだろうか、
 俺の代わりになってくれないのだろうか。
「甘ったれるなよ、やめてくれよ...なんで、なんでそんな」
「何の用なんだよ」
 ふてぶてしい俺に、あっちの『俺』 は答えなかった。
 『俺』 は、ゆっくりと足を引きずり、人通りもない夜道を歩いて、こっちの俺に近づいてきて、
 俺は『俺』 が泣いているのだと言うことに気づいて、そのことに酷く慌てた。
 どうしたらいいのかわからないままにうろたえて、とりあえず何とかせねばと思って、
ガツン。
 とたん、眼前の世界がぐらぐらと揺れて、つんとした臭いが鼻を刺す。
――あれ?
「...くしょぅ! ちぃくしょお!」
 キーンと言う音とともに、『俺』 の声がかなり遠くの方から聞こえてくる。
 視界が素人のカメラ画像のようにぐるぐると回る。
 知らないうちに、俺は夜露で湿ったアスファルトに尻餅をつくように転んでいた。
 尻から脳にまで届くような衝撃が今頃伝わり、その激痛に一時的に正気を取り戻して、
ようやく殴られたのだと理解した。尻が濡れてそのことがどうでもいいのに気になった。
 呻き声も悲鳴も上げられない。殴られたことなど一度もなかった。教師にすら。
「畜生! 畜生!! ちくしょおおぉおおお!!!!」
 あっちの俺は、まるでやくざのような踏み潰すような蹴りを何度も何度も執拗にしこたまこれでもかと雨のように槍のように俺の腹をめがけて蹴りを連発してくる。俺は反射的に身をすくめて丸まってそれを必死で防ぐことしかできない。
 痛い、どうしようもないぐらいに痛い。腕も、足も、顔も、背中も、腹以外がどんどんと、骨が折れそうな勢いで殴打され、折れたんじゃないかと思わせるほどの鈍痛を残して、更にどこかをまた痛めつけられて、とにもかくにも蹴られて。
 恐い、痛いけど恐い、恐いけど、痛い。
 このままではだめだ。今反撃しなければ、二度と動けない、何もかも使い物にならなくなる。
 だから俺はそう思って、思い切って、思うだけで、時間が過ぎて何も出来ない。
 いつものことだった。出来るものかと毒づいて、ほっておけば、今が過ぎればなんとかなる。
 俺はそう信じた、
 信じてきた。
 信じて、執拗に自分を痛め続ける蹴りを必死に耐え続ける。
 長い時間が過ぎて、本当に蹴りの乱打は収まり、俺はすぐに立ち上がって逃げようとした。
 腕をついた途端、体が痛くてアスファルトに這いつくばった。
 それでも何とか、アスファルトに座り込む。それから『俺』 を見上げる。
 目が合う。あっちの『俺』 は、息も絶え絶えで俺のことを見下ろしていて、
俺は『俺』 に何も言えずどうすることも出来ず、
「笑うなぁ馬ぁ鹿野郎ぉ!」
 怒鳴られる。恐い。
「そそ、そんな顔そんな顔...」
 けど、すぐにいつもみたいに弛緩したようにへらへらと笑い続けて、
「ひ、してんじゃねえよ。なんて、なんれ、なんて、なんて」
 あっちの『俺』 は蔑むようなたまらなく悲しそうな目で俺を見下ろして、
俺の髪の毛をわしっと掴んで、それを振り上げて、
「ちくしょおぉお!!」
 ハゲるんじゃないかと思うほどの激痛の中、頭が持ち上がって振り落とされる。
 アスファルトが目の前に迫ってきて、俺は顔とアスファルトの間に右腕をいれ、どうなるかも想像せずにかばった。
 ぺきり、と嫌な音が頭から直接響いた。
 俺は悲鳴のあげ方さえ忘れて、痛みにのた打ち回った。
 無防備のがらあきの顔に、腹に、蹴りが入る。何回も何回も蹴りが入ってくる。
 もう防御する気力すらない。
 どうにでもなってくれ。
 いっそのこと、殺してくれ。
 楽に、
 楽に、
 ああ、これは楽かもしれない。
 痛い以外は。
「なんでぇ! 何で俺が! こんなこと!!」
 よく聞くと舌が回りきっていない『俺』 の発音。舌まで怪我してるのか?
「お、お前なんて、本気でぇ、本気で死んでしまえよ!!」
 がつん、とアゴを靴のかかとの部分で踏まれて、上と下の歯が舌と一緒に噛み合わさって。
 目の前が一瞬で真っ白になっていって、
 俺は生まれて初めて気絶と言う物を体験した。


――二日目――

 朝までアスファルトの上で気絶していたのに、誰も気づかない、たすけてはくれない。
 つまりはそんな人通りのない場所での出来事で、

 痛む手と足を無理やりに引きずるように家に帰る。
 洗面台までに二回転んだ。
 体中のあちこちが痛い、身動きすら痛くて恐くて出来ない
 傷の手当ての仕方がわからない。
 親を無理やり起こそうかとも考え、結局やめた。
 怪我は思っていたほどではなかった。折れたと思っていた右指は折れてはいなかった。
 さすがは『俺』 だ骨を折る力も無いらしい。
 ヒビくらいは入ったのだろうが、めんどくさいので包帯を巻くだけにとどめて、顔を洗った。
 水で口を漱ごうとすると、口と、舌がずきずきと痛んだ。
 吐き出すと、水は赤くどろどろとにごっていた。
「...ちくしょぉ」
 洗面台の鏡に映っていた泣きっ面は、まさしく昨日の『俺』 の顔だった。

 次の夜、俺は昨日と同じ場所にいた。
 学校はサボった。家族が起きるよりも早く家を出たから、今の今まで誰ともすれ違っていない。
 夜まで、適当に時間を潰した。
 コンビニでクラスメイトに出会った。
 そいつは俺の顔を見てびっくりしたような表情をしたけど、こちらの視線に気づくと慌ててそっぽを向いた。
 ややあって、携帯電話にメールが何通か届いたが、開く気にならなかった。
 歩いて、そこにたどり着くと、痩せ細った野良犬がいた。追い払う。
 なぜ自分はこんなところに来たのかが解からない。
 解からないから知りたかった。
 ただそれだけかもしれない。
 夢だったのかもと今さら思う。
 もしかしたら、昨日は酔っ払って誰かと喧嘩をしただけなのかもしれない。
 ただ転んだだけなのかもしれない。頭の打ち所が悪くて、悪い夢を見ただけかもしれない。
 どれでもいい。どのみち何も信じていないから、何が起きても驚かない。
 
 昨日のその時と同じ時刻に、そいつはいた。
「お、お前は誰?」
 今の俺は、
「俺は、明日のお前だ」
 まばらな照明の中で照らし出されたそいつの顔を見る。
 間の抜けた顔だった。
 これから何が起こるのかなんて全くわかっちゃいない、今もこれからも、
この生活がだらだらと過ぎていくだけだと思っている。
 いつからだったのだろう、いつからこんな顔だったのだ。
「違う」
 違う、変わってない。今も、昨日の今日でも、俺は何一つ変わっちゃいない。
 何もせず、何もされず、幸せでも不幸でもなく、楽しいのか、悲しいのか、生きてるのか、死んでるのかすらもわからない。
 そんな、ぼやけて弛緩した微笑で、へらへらと顔を綻ばせ、どうにでもなれといった目で。
 どうでもいい、死んで構わないと思っているなげやりな笑み。
 だから俺は、
「なんて顔をしているんだ」
 口元が歪む、どんどん歪んでくる。
 ああ、そうだ。今なら解かるよ。
 これは、この顔は、
この何かを待つだけで何もしない、
誰かにすがろうとするだけの顔は、
 見ているだけで殺してやりたくなる。
「甘ったれるなよ、やめてくれよ...なんで、なんでそんな」
――負け犬みたいな顔が出来るんだ。
 可笑しくて、笑おうとして...俺は泣いていた。
 唾がどんどん酸っぱくなって、傷だらけの舌と口に染みてくる。
 涙があふれ、腫れた頬を伝いながら地面にぼたぼたと落ちていった。
「何の、何の用なんだよ」
 決まってるじゃないか、

 お前殴りに来たんだ。


 気絶した昨日の『俺』、俺はそのまま殴り殺してやろうかと思った。
 まあ、やらなかったけど。
 呼び止められたのだ。
「やめとけ」
「......」
「って言わなきゃやめなかったのか、未だに不安だ」
 で、俺が後ろを振り向いたら、今度はそいつがそこにいた。
「ら、誰だよ?」
「明日のお前」
 後ろを向くと、昨日の『俺』 は消えていて、
「何しに来たか、解かってるな」
 俺は答えない。
 泣き終えて泣き晴らして、いい加減うんざりしていた。
 だから、何も考えず、叫び声を揚げてそいつに殴りかかった。
ただの喧嘩後のハイテンションなんだろう。意味なんてない。
 殴りかかられたそいつは、まるでそう来るのが解かってるかのように――って、当たり前か、
とにかく動じず殴りかかる手を掴み足を払って残った手で胸を押す、
まあ、俺の文章力じゃ表現も出来ねえけど、よーするにリオンの『七星天分肘』 を豪快に決めてくれやがった。
 たちまち視界がぐるんと回って、空には綺麗な満月が見えて、
 息も出来なかった。出来なくなっていたけど。
 アスファルトに後ろ頭をガツンとぶつけた俺は、視界に火花を飛び散らせ、息も出来ずに目を白黒とさせて、
「うわ、マジで決まった。三時間練習したかいがあったな」
 キーンと言う耳鳴りの中に、驚く明日の『俺』 の声が聞こえてくる。
「おーい、生きてるか? まあ、生きてるけど」
 遠い、遠い声。
「なるほど、最悪の面だ。一昨日から何も変わっちゃいねえ」
 意識が朦朧として、そう言うそいつの顔が見えない。
 そいつは、「おーいて」 と、まるで自分のことのように痛がって――って、そりゃそうなんだけど、
「ま、それでも――」
 とにかくそれが俺の聞いた最後の声で。


――最終日――

 二日も路上で寝込むとなると、さすがに通報されてお巡りさんに怒られた。
 親も朝だというのに呼び出されてしまい、今度は親に怒られた。
 と言うより殴られた。ここ最近で一番痛かった。
 さんざん怒られて病院に行ってみると、指の骨にヒビが入っていたことがわかり、適当な処置をしていたせいでさらに医者にまで怒られた。
 誰と喧嘩したんだといろんな人に聞かれたので、「一人で喧嘩してた」 と素直に言ったら、更に怒られた。
 教師には怒られなかったが、イジメの心配をされてうんざりするぐらい相談に応じられたし、クラスメイトにいたっては同情だかなんだか、やたら遠回りに見てきて息苦しい。
 中程度に仲の良い奴がたまに話を聞きにくるため、それがまたうっとおしい。
 メールも、そいつから何かあったのかと言うメールだった。噂になっていたらしい。
「なんだかなあ」
 何も変わらない生活、変わった体験をしたのはつまり自分だけ。
 なんだかなあ、だ。
 まるで漫画だ。昔、ドラえもんがタイムマシンで数時間後のドラえもんを呼び出して、一緒に宿題をやる話があったけど、あんな感じだろう。喧嘩もしたし。
 どうでもいいけど、あれ、一時間後のドラえもんじゃなくて一週間後のドラえもんを呼べばよかったんじゃないのか?
「漫画ね。俺、そんなに特別な生き方してたっけ?」
 どうなんだ、今日の俺よ。
 痒くて包帯を外した腕を振ると、まだ痛かった。ふらふらと動かして、足を同時に払う仕草。
「そういや、アイツ強かったよなあ。練習したんだろうなあ」
 ふと、思い出す。
 気絶しかける前に聞いた、あの声、あの台詞。

“「なるほどな、最悪の面だ。一昨日から何も変わっちゃいねえ」”

 続けて、こう一言。今までしたことのない、穏やかな笑い方で。

“「ま、それでも、昨日よりマシか...殴ってくるだけ」”

 俺は、今夜もそこに行こうかと思う。親には、まあ...黙っていこう。

...とりあえず三時間特訓をしてからだけどさ。


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