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《大人の階段》


 テスト前の高校の帰り道。
 そいつは、の駅の入り口で昇りエスカレーターを凝視して硬直していた。
「なにしとんねん。そんなとこで」
「わ……キミか。びっくりした」
 そいつは同級生の顔に出合い、かなり慌てた様子で手を振った。
 エスカレーターをチラッと見てから、
「な、なんでもないよ。うん、なんでもない」
 そう言う。
「怖いんか? もしかして」
 沈黙が続いた。そっぽを向く顔が赤い。
「エスカレーター怖いなんて、ガキじゃあるまいし……」
「そのガキのころに、服のすそが絡まって引き込まれそうになったんだよ!」
 手をわななかせる。
「もうちょっとであの地獄の口に飲み込まれて床のゴリゴリした溝に磨り潰されてミンチになるところだったんだから」
「なるかいな。レッド・ブロンクスじゃあるまいし」
「とにかく、ボクはエスカレーター恐怖症なんだ。トラウマになんだ。動いてるエスカレーターには半径2メートル以内にだって近寄れないし、おかげでいつでもどこでも階段なんだ」
「ええやん別に。健康にいいで」
「健康なのはいいけど、ほらここの階段って長いし急だし……ああもう全部言わさないでよ」
「……さよか」
 まあ、いろいろあるのだ。
「だからさ、今年中には克服したいんだ。人はいつしか大人の階段を登らないといけないわけだし」
「いや、エスカレーターにそこまで壮大な意味与えんでも……」
「そう言えば、大人の階段ってエスカレーターのことだと思ってたんだけど、そう言う事ってあるよね」
「無いな」
 二人してエスカレーターを見上げる。
 そのエスカレーターは止まっていた。
「ほら、この調整中のエスカレーターならただの階段だから、これでリハビリしようと思って」
 そう言って一歩踏み出す。
バツン――ヴヴヴヴン……
 エスカレーターが動いた。
「わ、わわわわわわわわわわわわわわああわわわああわあ!!」
「それは動いてないんじゃなくてセンサー式なんだけどな」
 入り口にセンサーがちゃんと付いている。これに反応して、一定時間稼動するシステムなのだ。
「さ、先にいってよ!」
 後ろから袖にしがみつき、なみだ目で抗議してくる。かなり怖かったらしい。
「知らなんだなんて思わんわい、普通」
 「言って」 と「行って」 どちらだろうと思いながら、手を引く。
「しゃあない、一緒にいこか。手つないだるから」
「え、わ、わぁ! ちょっと!」
「行きも怖いんかいな……ほな、手すりつかんでゆっくり歩いてみ」
 手を離して、促す。
「て、手すり……」
 おずおずと、動く手すりを掴む。
 案の定、足が動かずに上半身だけ持って行かれるのを見てため息をつく。
「た、たすけて〜」
 体を引っ張ってやる。がっしりとしがみつかれた。
 床に手をついて呼吸を整えて、見上げる。
「こ、殺す気なのさ?」
「どうやってさ……ああもう」
 タンタンと駆け上り、したたたと階段を駆け下りる。
 センサーの外でそのまま待つ。
 すると、エスカレーターが規定の動作時間を終えて止まった。
「よし」
「な、なるほど……これを上れば」 
「そんなんで治るかいな、一段目に乗れ。それで自分がスイッチ入れるから」
「え、えぇ!」
「いいから乗る」
「う、うん……」
とん、と一段目に乗り座り込む。
 目をかたくなに閉じてエスカレーターにもたれ、
「ああ、怖い、怖いぃ……」
「その体勢のほうがよっぽど怖いわい。立て……じゃ行くで」
「ゆ、ゆっくりね」
「無茶言うな」

バツン――ヴヴヴヴン……
「わ、わぁぁ」
 いきなりの移動についていけずに、足をすくわれたように転んだ。
「ば、なにやってんねん!」
「こ、腰が抜けて立てない……あああ、床の溝が冷たくて痛い〜」
「あほぉ〜!」
 走り寄る音。すぐに体を起こされる。
 立てない、力が入らない、体が震えて息すらできない。
 心臓が破裂しそうだ、鼓動が耳の裏でやかましい。
「おい! しっかりせえ! エスカレーターなんて怖ないから、な?」
 声が遠い。視界が歪み頭が真っ白になる。
 不意に視線が上を向く。頂上部はまだ見えない。
「大丈夫か、目つぶっててもいいんやぞ。無理すんな」
「(大丈夫、大丈夫だから……)」
 分かってる、分かってはいるのだ。
 一歩、何も考えずに一歩。
 階段を上るときわざわざ考えないでも足がいつもより上がるように、
段差を飛び越えるとき、知らずと大またになっているように、
何気なく一歩踏み出せば、体が勝手に動いてくれる。はずだ。
 段差がどんどん縮まっていく。もうすぐだ。
 見えた。
 階段を飲み込み、何もかもを粉々に磨り潰す、地獄の口。
「しっかりせえ!」
 目の前が暗転し、力が抜ける。意識だけが先にその暗い穴に飲み込まれた感じだった。
 だが、
「ちゃんと見ろ! たいしたこと無いから」
 落ちる体が途中で支えられる。隣に人がいた。いや、そうではない、先ほどから居たのだ。
 そいつは、頭を抑えて下を指差している。
「ほら、よう見てみい」
 いつの間にか、スリットはかなり下の位置にあった。
 それはそうだ、高校生の背丈では地獄の口などすぐに見えなくなる。
 気づかなかった、こんなことも気づけなかった。
 今までずっとあの地獄の口が目の前に来る夢にうなされていたから。
 体が軽くなった。意識しなくても、体は動いた。
「どうや、大した事無いやろ」
 すぐそばで、声が息と一緒になってかかる。
「っで、できた……ね。信じられないや」
 信じる信じないも何も、
 ただエスカレーターを上っただけである。
 でもまあ、それはそれとして。
「お、おい。どないした?」
「は、はは力抜けちゃった」
「あ、あほ……」




エピローグ


「まだ怖いんか?」
「まあ、ね。でも……もう大丈夫」
「すまんかったな。その、無理やり」
 まさかあれほど怖がっているとは思わなかったと、謝った。
「ううん。その、あ――」
 音を立てて、動く階段が機動をやめる。
「……下りで練習すればよかったかもな」
「はは、そうかもしれない……」
 お互いに微笑がほころんで出てくる。
「……」
 一歩踏み出す。
ビービービー……
「あほ! 何やっとんねん」
「い、いや。逆からだとどうなんのかなって」
「下りになるとでも思っんたか、あほっ、目いっぱいあほっ!!」
 それから逃げるように、いや、本当に逃げる。
「え、あ、待ってよ、疲れて動けな」
「知るか! じゃあな、適当にがんばれや」
「うっわ、ちょっとまだお礼言ってな」
 逃げ行く二人を残して、
 警報の音がけたたましく鳴り響く。



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