先生たちの思い出
このホームページを作るに当たって、プロフィールを書くうちに、子供の頃からご指導を受けた多くの先生たちをなつかしく思い出しました。
小学4年生まで習っていた先生は、当時テレビの「のど自慢」などでピアノ演奏をされており、きれいで派手で、町の中でも目立つ方でした。「毎年の発表会で美代ちゃんの演奏を聴くのが楽しみやわ」と言ってくださり、その言葉が私をやる気にさせていたと思います。
5年生の時、家のすぐ近くに教室ができ、そこに代わりましたが、その先生との出会いが、ピアノの先生になりたいという夢を持つきっかけとなりました。
先生はまだ19歳。音楽高校を出られてすぐだったようです。(私も19歳で教室をもつこととなったわけですが)
家が近かったので、レッスン以外にもおじゃまし、先生の家に泊めてもらったり、演劇をされていた先生のボーイフレンドの舞台を見に連れて行ってもらったり。長女の私はお姉さんのような先生が大好きでした。私もピアノの先生になって、こんな風に生徒と遊んであげたいと思ったものです。実際、影響を受けて、私も結婚するまでは、よく生徒さんとレッスン以外でも遊んでいました。
中学卒業と同時に引っ越すこととなり、同時にピアノ科受験に備えて大学の主任教授の先生にレッスンをお願いし、また声楽も始めました。こうして、生活は音楽一辺倒になっていきました。
受験のためのレッスンは、実に厳しいものです。
当時わたしは、高校のある池田から、住吉区の帝塚山までレッスンに通っていましたが、少しでも時間に遅れると教室には入れてもらえませんでした。
ピアノの宿題の多さに練習時間が足りず、高校への通学の1時間半がもったいなくて、よく学校を休みました。 先生宅のレッスンで生徒同士がしゃべることは一切なく、みんな待ち時間はひたすら楽典の問題に取り組み、音楽大学の過去問プリントを仕上げ、2階で「ハノン」「エチュード」などを助手の先生方にみてもらってから、受験の課題曲などを大先生に聞いてもらいます。間違うと、よく椅子から蹴落とされました。その界隈では、よく制服姿の高校生が泣きながら歩いていたと思います。高校3年の発表会、演奏はアイウエオ順で、旧姓・山本の私は最後。期末テストなどで練習不足だった私は、数十人のすばらしい演奏をずっと聴くうちに頭が真っ白になり、生まれて初めて、発表会で最初の音すら出てこないという大失態をおかしてしまいました。わたしだけではなく、客席も、そして私の両親や妹たちも凍りついたことでしょう。
「あなたなら出来ると思ったのに、失望しました。こんなひどい発表会は今までなかった」
その時から、私は演奏が怖くて練習が進まなくなり、最終的にピアノ科進学をあきらめる結果になりました。(その後長く、これがトラウマとなって、電子オルガンでは平気で舞台に立てるのに、ピアノでは舞台に上がれなくなっていました)
高校卒業後1年間は、大阪音楽専門学校(当時。今は?)の夜間課程に通いました。そこで音楽理論を教えていただいていた先生は、「学歴でピアノを弾くんじゃないよ。いつまでも音楽はやめないで、頑張って続けていきなさい」と。その先生は工学部出身の方でした。
そして、現在も女子大で教えていらっしゃる先生にピアノを指導していただきました。いつも煙草の匂いがするその先生にあこがれの気持ちを抱き、その先生に聞いてもらうためだけにひたすら練習しました。ある時、ご自宅へ伺うことがあり、声楽家の美しい奥様と先生そっくりの坊やを見た時、ショックで(今では笑えますが)1年で学校をやめ、今度は電子オルガンにのめり込んでいきました。
20年近い年月がたって、再度クラシックピアノを習い始めようと妹(ピアノ教師)の先生にお会いすると、なんと高校生当時、大先生の2階の部屋で練習曲を見てくれていた方でした。その先生は「たった1回の失敗で大先生もあなたも惜しいことをしましたね」と言ってくださいました。そして、大先生が80歳まで現役のピアノ教師であったこと、素顔はおちゃめな先生であったこと、ご自分の娘さんをはじめ多くの有名なピアニストを輩出されていることを知りました。私ももっと先生のもとで頑張れば、今頃
違う人生を送っていたりして・・・。
いろんな先生との出会いがあって、今の私があります。
生徒として思い出すと、先生の何気ないことばや態度でも、将来を左右してしまうほどの力があるんですね。気をつけないといけませんね。
レッスンがマンネリにならないように、そしてなにより、一人ひとりの生徒さんとの出会いを大切に、私も一緒に成長していけるようになりたいものです。