「…よう」
「……やぁ」

明らかに不自然な流川の挨拶に三井は吹き出した。いつも遠慮会釈もなく対戦を挑んでくるものだから、緊張しぃとは無縁の方向に佇む男だと彼は流川を思っていたのだから。
「なんだよ。おもれー!イモジャーの上真顔で、んな愉快な台詞言うんじゃねーよ」
そんな三井は3年の特権か、部活時と変わらない服装で愛想がない。ハーフパンツから伸びるマネキンみたいな脚にもちゃんとサポーターが巻かれていて、今がまだ正午前だというのが疑わしい。
いざ向き合ったところで何を話せばいいのか。三井が言ったとおり空間は流川にとって居心地が悪く、柄にもなく緊張さえしていた。
「…試合、終わったんすね」
「おうよ。勝ったけどまだこれから3回もあってよー。赤木んとことも絶対当たるし最悪。木暮はどーやら別種目出てるみたいだけどな。俺以外の主力は病欠だしどうするか…」
ゆうに流川の3倍は喋り三井は口元を手で覆って思考した。こういう表情をするとテスト赤点の常習犯とは思えないくらいに知的に見える。同じ美形でも流川が真顔でいると天然そうとか言われるのに。
その知的さで流川の心情を見抜いて、会話を続けて欲しい。流川にとって現在は、居心地は悪いが不快ではない。並んであてもなく歩くのは本当に不思議なことに、彼の無感動な心拍数を穏やかにも落ち着かなくもさせる。
「ほら、」
沈黙を守る流川にとくに注意も払わずに、自然のイントネーションで三井は言葉を紡いだ。

「たとえ球技大会でも俺がバスケで負けたらお前ら笑うだろ?」

―――笑わない男に向かって笑うだろ?とはなんだか違和感のある台詞だ。流川は僅かだけ驚いた反応を目じりに浮かばせ、三井を改めて見つめた。身長は僅かしか変わらず、流川と身長の変わらない人物は珍しい。ゆえに視線のすぐ近くにある顔というのも珍しく、それがアップに耐えられる造作というのも不思議なことなんだろう。
彼の欲しがっている答えが見つからず、また流川は黙するしかなかった。どうしても「そんなことないですよ」なんて言えなかった。流川の知らないところで三井に負けられたら、虚しくなるほど自分は―――笑ってしまうだろう。

「そうだな。俺は笑うだろう…」

思ったことを思わずそのまま口にしてしまったら、隣の三井からタックルを喰らった。流川より若干細身の体躯で繰り出されたそれは、別に吹っ飛ぶほど強くはなかったが、それでも流川はよろよろと体勢を崩すと校舎の壁に張り付いた。
「お前も笑うのか!興味はあるが最悪だー!負けらんねぇー」
たかが授業の延長線上の球技大会。彼を駆り立てるものがなんなのか暴こうとしても、表にも裏にもそれはバスケ一色しかないのだろう。流川にとって野球は重い武器を携えてボールを殴るだけのものであったが、それがバスケットだったなら無意識に積極的に勝利を勝ち取りに行っただろうか。
「…負けるのがいや?」
「うん。いや。勝つのと負けるのとじゃ試合後の疲労感が違わねぇ?」
「…わかる」
「だろ?後は説明できねぇな…」

勝つことが大好きな我侭な男は語尾を濁して、抜けるように青い空を見上げた。
彼が今だけでもプレッシャーと無縁でいられるなら。自分に三井を癒せる能力が欲しかった。
流川は自覚する。ああいいな、と。すきとか嫌いとかそういうんじゃなくて、三井はいい。
バスケを言い訳にして自然に眺められるその姿がいい。
もしくは傲慢なまでに執着するものをもつ気高い精神が。
立ち止まることに惹かれつつも進むしかない三井を、かわいそうにも思うが流川は決して引き止めることはないだろうと自覚した。

「で、なんでお前は体育館にいたんだ?女子へのファンサービスか?」
三井に聞かれたことをすぐに答える術は持たなかった。流川はしばし躊躇してからそれでも告げる。
「あんたの…試合を見に」
流川にとって案の定、三井は変な表情を晒して頭の後ろを掻いた。
「はぁん?いつも見てんじゃねーか嫌ってほど。俺のファンかよ」
「違う」
「ずこっ。はっきり言うんじゃねーよ。先輩たてろってのバカヤロウ」
でもはっきりファンですって言えば、あんたまた変な反応返すだろうが。流川はふぅとため息を吐くと、苦い顔をしている先輩に向き直った。
「そういうんじゃなくて…ただ」
ただ、何にも厭わされず、三井の姿勢だけを追って―――何を変えようとしたんだろうか。

「あ、そうだ!流川。お前さ、体育館からたまたまグラウンド見てたんだけどよ。ホームラン打ってなかったか?」
「見てたんすか?」
いきなりな話題の方向転換に流川は鋭い双眸を思わず瞠った。規則的な音を立てていた足元の砂利も一瞬大きく擦れる音がする。いつの間にかグラウンドへ降りる階段の手前まで自分達は来ていて、意外と長く2人きりに浸っていたのだと思うと、流川はまた落ち着かなくなるのだった。
三井は意味の無いジェスチャーを交えながら、緩く唇を笑みのかたちに刻む。
「相手のチームの外野がすぐそばまでボール取りにきたんだ。どこのやろうだと思って外見たらバッターボックスにてめぇが。あんな長身わからねーわけないじゃん」
得意げに話す三井は、流川が遠い距離にいてもそれが流川だとわかると言う。
「お前が野球一生懸命やってるなんて意外で面白かったぜ。また女子の株上がるんじゃねぇ?」
後半は流川にとって問題ではなかった。浮かれた心に忍び込むのは前半の後ろめたさだ。自分は三井と違って一生懸命になどやっていない。たまたま偶然タイミングがあっただけだ。3組のエースピッチャーの投球と、流川の遠心力にまかせたバットのスイングが。
しかし、
俺はこれを打てるようにと願わなかったか。クラスメートからの期待でも、それがチャンスだったからでもなく。川の底の水のように純粋に。ただ負けたくないと。
「そんなことは…」
ささやかに呟いた。
「そんなこと?何?」
「そんなことねぇッス。俺は偶然打っただけで後は全然」
「あ、そう」
全員が見惚れるほどの剛速球を放ったあのピッチャーに、今になって流川は詫びたい気持ちになった。
自分のそれしかない本職が、必然以外の方法で、へし折られてしまうと誰だってへこむ。

流川にひととおりの説明を受けたあと、
「…なーんか巧くいかねぇな。いや巧くいってんのなんか今だけか」
冷めた口調で誰にともなく呟いて、三井は突然その場に座り込んだ。運動場に続くコンクリートの階段の頂上。長い足は無造作に投げ出して。緩やかに骨の浮く首を傾げる。
「バスケとか。それしかなくなんのが嫌なんだよ。いざなくした時立ち直れなくなったら、俺多分後がねーぞ」
バスケで三井をへこまそうとしたら、それはけっこう大変な労力を伴うものだと思う。それでももし、立ちふさがるものがあるとしたなら。
流川は今日信じられないほど積極的に行動を開始した。巧くいってくれ。彼が言うように。

「…道くらい俺が作ってやる」
「…あ?」

須らくの生き物を射抜く視線で、三井をあますところなく映しこんだ。あっけに取られた無防備な表情は朴念仁の流川でさえも危うい気持ちにさせる。なで気味の先輩の肩に、わざと肩を触れさせた。
「あんたがしやすいように。俺もバスケだけ精一杯になる。身近にこういう奴がいたら安心できませんか?」
「いや、こういうも何もお前苦労するぞ。それに時が経てばお前だって、少しは視野も広くなってそれだけじゃなくなるさ」
「そんなことはない。山王の沢北にも話したから後戻りも出来ない。プロになるのってこういう奴なんじゃねぇのって」
違う世界の王のような名前が流川の口から出てきたので三井は驚いた。確かにあの夏、彼が幾度となくある一選手とトラッシュトークを交わしているのを耳にした覚えはある。なのにそれをそれだけを守ることはないのに。しかし、三井は流川に大人ぶった世知辛い話をしたいわけではなかった。根暗のくせに前向きな流川は、決して言えないが見ていて心地が良い。癒し系とは一番程遠い雰囲気をまとっているのに、三井にとってはそれに近く、哂ってしまうくらい可笑しかった。

「だから、なんとかなんねぇっすか?」
「なんとかって!ちょっと、おいっ!」

何でだ!?そううろたえながら三井が姿勢を崩すのは、流川が無意識下で三井の両手を取っているからに他ならない。じゃれあいにしては流川の指先の意図は怪しいものを含んではいないか。三井は白い頬を微かに蒸気だたせて辺りを伺った。遠くに見える一年らしきサッカー班・野球班はこちらを注視する余裕もなし。グラウンド隅の鉄棒の近くでは、赤い頭を筆頭にした桜木軍団がどこにも混ざらず談笑している。おい、いいのかよ!?
桜木に思念を送ってみたがこの距離でチームメイトと気づくはずもなく。三井は流川を邪険にすることは諦めた。

なんとか―――すなわちバスケットを続けるということ。流川と一緒に。思春期を過ぎたまだ多感な時期、惑わされるものは意識しなくても多い。むしろないほうが異常なのだ。例えば自分とか。
流川は薄目を開けて握りこんだ長い指の輪郭を辿る。アートのようなシュートを打てる、または青田のような巨漢の襟首も掴める、魔法のような偉大なゆびさき。日に透かせば、毛細血管が皮膚に確かに流れていて感じたことのない感慨が脳裏によぎる。
「綺麗だ」
「わっ、わ。あんだよ?」
手首までを真剣に辿る視線と流川の指のくすぐったさで、三井は半笑いになりながららしくもなく緊張した。
流川さん。綺麗だなんて晴子ちゃんにでも言ってあげなよ。物凄く違和感有る台詞だぞ俺にとってそれは。
「こんな生きてる手なら、何回戦でも余裕で勝ち抜けるでしょう。これから」
「…覚えてたのかよ」
今日あったときに最初に交わした球技大会の勝敗のことだった。なのに当事者がすっかり忘れたような表情を晒していたら流川も困るだろう。慌てて三井は唇を引き締めると、試合を見学していた女子向けではない、太陽が咲く様な笑顔を後輩に向けた。

「ああ。負けたら笑われんだったな。なんたって現役だもんな俺。それに運動場の隅っこの方で喋ってるだけの桜木に笑われんのもしゃくだしな」
「うす。どあほうはどあほう」

脈絡のない流川の憮然とした受け答えに三井は意地悪くひひひと忍び笑った。
それから威勢良くスクワットの途中のように立ち上がり、背筋の綺麗な様で視界全体をぐるりと見渡す。180度の一点を指差し、三井は告白した。

「宮城のパス受けんの好きなんだ。内緒だぜ」
流川に思う存分撫でられた指先は、中庭に追い出された高飛び用のマットで、幾人かの同級とバック宙の練習をしている見慣れた先輩を指している。いつもは纏めてあるハニーブラウンのウェービーヘアがほつれて下りている。その彼が空中で軽く身を翻すと、彼がマットから落下しない様に壁となっていた少年達からどっと歓声が上がった。なにやってんだか。だが、先ほどは気づかなかった割と近いその距離に、流川は何故かどきりとした。自分が三井にした行為が酷く隠微なものだった気がしたのだ。
「赤木のゴリラじみた怪力も、木暮の結構センスいいバスケもいいな」
体育館ではまさしくその霊長類に揶揄される元主将が、苦手だったはずのフリースローを決めて早くも準決勝進出を獲得していた。三井に敗北を喫したためただ見守るしかない青田龍彦が、子供じみた野次を飛ばす姿などもちろん2人が知るわけはない。
運動場では木暮がサッカーボールを桜木軍団の溜まり場へ蹴り飛ばし、理不尽な顰蹙を買ってそれに言い訳をしていた。
「桜木の豪快なシュートもいいな。復帰はまだか」
木暮にきぃきぃ絡む桜木は、本当は寂しいのだろう。どんなスポーツにも混ざりたいのに彼の背中に負うものがそれを許さない。気が長いとは言えるはずも無い桜木が医者の言いつけを頑なに守るのは、女目当てに入部したバスケ部がもう彼の一部に植えついて離れないから。
「そんで流川の…」
何故か流川は必要以上にドキドキしながら三井の口上を待った。三井は顎の輪郭を親指と人差し指でさすりながら、印象的な視線をあちらへこちらへ漂わす。思案げな声も形良い唇から漏れた。
「…何にしようかな?」
「…アドリブだったんすか?」
似合わない友情とか仲間意識でも、彼が語るなら真摯に受け止めて浸りたかったのにそれはないだろう。流川はがくっと首を横に傾けた。三井が気まずそうに弁解した。その鼻の頭が赤いのは照れか羞恥か。
「うっうるせぇな!なんか恥ずかしくなってきたっ!俺のガラじゃねぇし!」
言い訳が必要ならレギュラー全員分考える必要などないのに。妙に律儀な三井に感心しながら、今度は流川が第3者に気がついた。三井と自分の橋渡しをした、長身な三井のクラスメートだ。

「先輩…」
「あ、ああ。もう次の試合か」
遠慮がちに聞こえる流川の声に三井は平常を取り戻し、体育館への渡り廊下に向かおうとする。三井の友人が手を振っている。流川は構わず三井の腕を捕まえた。
「うわ、なに?」
「が、頑張ってください」
中学生の頃から何百回と言われ続けたその陳腐な台詞を、自分から他人に言おうとしたのは初めてだった。それに含める意味が思うより強いのだということも。また自分の無知に対する罪悪感を知る。
そんな俺だが、三井の瞳に映る流川楓の顔は思ったよりも綺麗で。自分の顔が彼にも今、魅力的に映ればいいのにと思う。
三井はまた凝視を保ったまま、自然に強張った険の有る表情を軟化させた。三井の笑顔も流川のそれと同じで、かなり貴重なものだから。自分達が特別なんじゃないだろうかと錯覚してしまう。

「…まぁそんなバスケ部の面目を保つためにも、もうちょっと頑張ってみるわ。気負わずにな。球技大会で優勝したら…そうだな。熱いキスでもやろうかな。お前に感謝でも込めて」
「―――え」
「何真顔ってんだよ!おもしれっ。うそうそ、中華らいらいのギョーザラーメンでも奢ってやるよ!じゃあな!」

手招きするクラスメートに向かって手を振り返しながら走っていく三井に、流川は何の反応も出来なかった。何か答えようとした唇のこわばりは、間違いなく三井の冗談によってもたらされたものだ。
―――熱いキスでも。
口付け。洋画でしか見たことのないそれを、流川は三井に自ずから施しているところを明確に想像してしまって、思わず白い校舎の壁を拳で殴りつけた。
そんな、まさか。





―――俺が走るのは。
どうしようもないこの気持ちを、治める方法を知らないからだ。
すきとか嫌いとか、どうでもいいなんて。
思っていたのにこれじゃあ困る。

日課のロードワークは禅の修業に似ている。
だとしたら自分は背中を叩く棒にとっくに打ち殺されているだろうが。
朝焼けに追いつく速さで走っても、心の霧は晴れない。
ギョーザラーメン奢ってもらっても、熱いキスの方が良かったなんて言い出せるはずもない。
熱い食い物を消化しても、残るのは昨日の、昼にもまだ早かった二人だけのやり取りだ。
今度また機会が訪れたら、自分は何をしてしまうかわからない。
彼が冗談で仄めかしたとおり、三井の唇を舌で撫でて、溶かして食べてしまうか。
汗に濡れた先輩の背中を手のひらで辿るか。
ひょうひょうとした心の奥底まで忍び込んで、流川の種を植え付けるか。
バスケしかないって誰にでも流川は思われているのに、
早朝に相応しくないほど自分は邪で、冬にはまだ遠いのに震えがはしる。
いやだ。いやだ。怖い。

陰鬱な影など無縁とでも言うように、一日の天気を象徴するかのような大輪は昇り、電池の切れた身体で流川はガードレールにもたれ掛かりつつそれを睨みつける。荷物を運搬するダンプが背後を轟音と共に通り抜けてもそれに負けない強さで。
眼下の海に反射する陽光の美しさにも負けないものを自分は知っている。

「…負けねぇ」

決意の内容など呟いた流川だけのもので、他人の誰にもわかるはずもない。
バスケ以外に貪欲になったことはない鋼鉄の少年は、生まれて初めて知った感情に全力で手を伸ばしてみた。
光の洪水の先に、人を食ったような笑みで佇む太陽の象徴がいるに違いない。
何度でも俺に話しかけてくれるはずなんだ、そして何を言ってもどんな反応でも受け止めてくれんだ。まぼろしなんかじゃねぇ。

流川のとっくに切れた吐息が、鼓動と共にもう一度息づいた。
そしてまた、走り出す。
火の点くような愛を歌う、洋楽をテーマにして。