ショートホープ:::
日の出にまだ早い。
放射するまっすぐな気持ちが走り出す。
両耳に響く海の向こうの楽曲が俺のテーマになる。
アスファルトと靴裏の摩擦で。
俺が燃えてしまう。黒い髪さえ朝焼けの中に溶け込んで色を失って。
白いガードレール。道端の雑草。緩く広がる坂道―――潮のにおい。
肌を濡らすものか、波の寄せるそれか。
俺は。
やがて眼下の海を越える。あんた覚えていてくれるか。
きっと空をこの足で飛ぶから。
それとも、俺がちょっとでも愛想良く笑ったりするほうがあんた、忘れんでいてくれるか。
全速力で坂道を下る。つまさきが痛い。顔を上げる。まぶしい。
ハレーションの向こうに妄想を見て、俺は手を伸ばした。
光は弱くなり、それはちっぽけな海だと知った。
「…ハ」
息が切れた。
「かっとばせ〜ル・カ・ワ!」
「ふらふらすんな〜。ちゃんと立って打てよ〜。もう2アウトだけどなー」
「いや、もうアウトでいーぜ流川。めんどくせー」
いつもなら彼に向けて贈られる声の大半は、いわゆる女の子の黄色い悲鳴というそれだ。
ただ今日に限っては、前述のクラスメートのやる気ない声援が、同じくテンションの微塵に感じられない流川の周りを飛び交って―もといふよふよと浮遊していた。
イニング毎に気持ちよく惰眠を貪っていた流川は友人にその度蹴り起こされ、鉄棒のそばに割り当てられたダッグアウトというか陣地から、ネクストバッターズサークルも経由せずそのまま石膏で描かれたバッターボックスに立つ。まだ半分寝ているかのような表情でふらりと木製バットを肩に構えた。
すらりとした立ち姿は美しいが、バッターがきっちりと足を気をつけ状態にしているのはいかがなものだろうか。
軽く15名以上はいるスタメンの各々は、思い思いに地面に落書きなどをしつつ、ため息を広大なグラウンドに吹きすさぶ風に混ぜた。
「あーこりゃ負けたな。一回戦負け」
「誰だよ流川をクリーンナップにいれた奴は。元富中の安部か?」
「だって、あいつ運動神経よかったじゃん。バスケ部で」
「まーうち野球部いねぇしな。3組なんて野球部のレギュラーめちゃいるじゃん。卑怯くせー」
「けっこーいい線までいってたんだけどな〜」
2対1。わりと善戦した凡骨チーム1年10組だったが、9回裏2アウトランナー2塁での思わぬ穴に早くも負け犬ムードが漂い始める。流川の本日の成績は4打席見送り三振だった。
そんな敵側ベンチをよそに、1年3組の投手はひょろりと立つ流川よりも2塁のランナーを警戒しつつ、セットポジションでボールを放った。
ぶん。
明らかにキャッチャーミットが鳴るよりワンテンポ以上のズレで空を切る音がした。
この木製バットという武器は、ひょっとしてかなり重いのではないだろうかと流川は眼光鋭く見据える。
「こら流川!バット見て首かしげてんな!お前の動作が遅いんだっつの!」
「…いるよな。自分のミスを道具のせいにしたがる奴」
仮にもチームメイトの冷たい野次でも、ろくでなし博覧会なバスケ部に在籍する流川にはまったく刺激となりえない。次はちゃんと足を開いて流川は四角いボックスの中に踏ん張った。切れ長の目はピッチャーを映し、グラブが振りかぶられるのを追う。複雑な動作で繰り出される最速の世界を流川は好ましく思った。
「っ!スモークボールッ!」
そう、誰かが叫んだほど3組のエースピッチャーの球威は早く、更にそのセンテンスが終わる前に、流川のバットに捕らえられた白球はそれ以上の速さでどこかに¥チえた。
「え…どこ行った?」
「…多分あっち」
「多分ってなんだよ」
3組の投手野手陣がうろたえて消えたボールを探す中、流川は興奮した10組のクラスメートに急き立てられつつベースを回る。彼が緩慢にホームベースを踏んだ後にようやくボールを見つけた外野手が戻ってきたが、すでに2点を重ねた10組チームの逆転は揺ぎ無かった。
「すっげ!流川サイクルヒット!ってーかホームランか?」
「よーやったよーやった。てめぇ野球部入れよ流川」
「甲子園につれてってカッちゃ〜ん!」
「…嫌っす」
梅雨場の天気のように感情がころころ変わるクラスメートにもみくちゃにされながら、流川は何の感慨も浮かばないポーカーフェイスで会話に答えていた。試合終了の合図とともに彼らはマウンドの中央で整列し、サヨナラ勝ちを許してしまった3組の面々の苦い顔に頭を下げる。
グラウンドの端でサッカーに興じている別動班がそれに気づいて、10組に歓声を送った。
それに気づいてはいたが流川はたいした反応はしなかった。半年を越える付き合いでもうクラスの連中は流川のキャラをそういうものだと把握していたし、体育の授業やちょっとしたイベントで重宝されることはあっても彼はそこの心地よさに溶け込もうとはしなかった。
付き合いの悪い流川に今でも気さくに話しかけてくるクラスメートは有難かったが、彼が求めるちっぽけなものは、ただ一つの目標に向かって邁進させてくれる動力だ、燃料だ。それはきっと苦しく辛いものでなくてはならないと彼は思う。こんなつまらない自分など周囲は放っておいてくれていいのだ。
赤いユニフォームから伸びる、長い腕たちに触れられる以外のスキンシップは居心地が悪い。
そんなことをとりとめもなく考えながら、流川はまた次の試合に駆り出されていった。
まだ夏の気配の残る初秋。湘北高校球技大会。
奇跡に近い勝利をほどほどにかみ締めた1年10組野球班は、続く2回戦、嘘のようにボロ負けした。
(コールドゲーム)
「なんにせよ女子が皆体育館で競技やってて応援が魁!男塾ばっかだったのが敗因だな」
「そうそう。何が悲しくて男ばっかで球技大会なわけだよ」
「まーこうなるとは思ってたけどな。メシ食い行こーぜメシ」
「屋上開いてるしそこ行こうぜ。雀卓持ってきた」
「親父くせーな。やっぱUNOだろUNO」
「2つとも15人とかで出来んのかよ」
むしろ負けてこれからが本番!といった趣のあるめげない10組の男達は、早々にグラウンドを引き上げ教室に向かっていた。午後からはまた敗者復活戦と、バレーボール班と交代の体育館競技とめんどくさいラインナップが待ち受けているのだが、残りの時間は他クラスの見学などうっちゃってとにかく遊ぶのがクラス全員の総意だった。約1名を除外して。
昇降口で靴の中の砂をはたく音の中、陰鬱な声が適当なクラスメートの鼓膜を揺さぶる。
「…悪ぃ。俺パス」
「えーなして?流川。一回戦のMVPじゃんかお前。トイレ行ってた俺に武勇伝を聞かせろよ」
「体育館に行きてぇ…」
「女子バレー班の応援か?」
「ひゅー。やるぅムッツリスケベ」
遠慮がちに敬遠する流川を、クラスメート達は不思議そうに見ていたが「まぁ流川だし」と単純に納得しつつ。廊下の分岐で別れを告げた。流川と同じバスケ部の石井が付いて来ると言い出さなかったのは幸運だ。流川は学校指定の窮屈なジャージの胸を押さえると、体育館に向かって歩き出した。
鋭く長く響くホイッスルの音が体育館中を満たし、一瞬誰も彼もの興味を引く。
そしてそれをもかき消す大歓声が体育館の主に半面、バスケットコートから轟いた。
「34対24!3年3組の勝利っス!礼」
「っした〜」
センターサークルを挟んで向かい合う5対5の青年達は誰も彼も汗まみれだ。審判の号令に頭を下げ解散する彼らにもう一度大きな歓声が上がる。それだけ良い試合だったということだろう。隣でバレーボールのトーナメントに興じている女子の声援に慣れない笑顔で応えながら、三井寿はチームメイトの輪を離れ、張り付いたその表情のまま今さっきまで熱戦を繰り広げていた3年5組の陣地に歩いていった。
いち早く三井の行動に気づいた堀田徳男が、まだ整わない呼吸のまま不自然に息を呑んだのは、彼が話しかけようとしている相手が184センチの三井よりも更に長身だったからだろう。
「おい、青田」
低いが良く通るその声に苗字の主が振り向く。柔道部元主将の青田龍彦を知らないものは校内には数えるほどしかいないだろう。彼が柔道で全国大会に行ったことは有名で、その強さには校内の不良も避けて通る術を選ぶ。その彼が毎年恒例の球技大会で彼のライバルと張り合う一心でバスケットボールの種目を選択していることは、ばかばかしいを通り越して微笑ましい。
「なんだ三井。敗者をあざ笑いにでも来たのか。言っておくが―――」
「ちげぇよ。お前やっぱりバカだけど運動神経はいいのな。なのになんで俺が後半10分ぐらいでいったレイアップ止められなかったんだ。多分もっと高く跳べるだろ」
言いつつ三井は汗で崩れたヘアスタイルを隠すように頭にタオルを巻きつけた。何にも邪魔されず精悍な顔が露わになり、不敵に青田と向かい合う。
「…?なんのことだ」
「とぼけんじゃねぇよ。俺と始終マッチアップしてたんだからわかってんだろ。お前はお前の実力を出し切ってれば後半10分の得点阻止できたんだよ。このバスケ部のエースの俺様のシュートを」
くどいようだがその低いがよく通る三井の声は、彼が思っているだろう範囲よりもより遠くまで聞こえる設定になっている。気のない青田とやたら食い下がる三井の会話を、体育館の出入り口すぐで耳に入れて流川は少し肩をしならせた。湘北バスケ部のエース…まぁいいけど…
体育館を出入り口から平行に2分する奥のほうに、流川の目当てとする光景はあった。説明するまでもなく3年男子が競技する最中のバスケットコートだ。そして彼だ。
「悔しいからもう一回勝負しろよてめぇ。赤木に勝てる方法教えてやるからよ」
「な、なんだとっ、まだやる気か!?はっきり言って疲れたぞ!?」
「一試合20分だぞ?公式の半分じゃねぇか。でかい図体してるくせに体力ねぇな」
「柔道は一試合4分だ!長期の持久力向けに身体作ってねぇんだよ!」
タイミングよく掛け合いを行う三井と青田を指差して、ある3年5組の男子はまだ発汗したままなにごと?といった視線を隣の友人に投げている。お互いがインターハイ選手で有名人だからか、周囲の注目は女子バレーの応援と同じくらいに否応なしに高く、それゆえ彼らと同じ組のグループに所属する生徒達は延長戦突入かと気が気ではなかった。普通ならプログラム進行の都合上、個人同士の諍いなど考慮されないに決まっているが、相手が相手、湘北高校始まって以来の問題児との噂も有る三井である。夏のはじまりに更生したはずなのだが、口調も態度もぞんざいなままなので殆どの一般の生徒には具体的に何が変わったのかが全く持って伝わっておらず、未だ三井は恐怖の対象として見られることが多かった。すなわち従わなければ即、キルだ。
「ていうか何故そんなにこだわる三井。たかが授業の一環だろうが」
そんな三井にも物怖じしない、数少ない図太い神経の持ち主がこの青田で、迫る三井に青田は当然の疑問を投げかけて様子を伺う。三井は一瞬きょとんと目を見張った後皮肉げに口角を持ち上げ、さも当然とでも言うように堂々とのたまった。
「お前にとっちゃ授業にマジになんなよだろーが、俺にとっちゃバスケはバスケなんだ」
「あー…」
今度は青田が下まつげの目立つ双眸を納得のかたちに開く番だった。負けず嫌いは青田も同様で、これがバスケでなく彼の本職とする柔道の勝負だったら、彼は自ずからリベンジをどんな手段でも持ちかけていただろう。それが自分に納得のいかない試合であれば。たとえ我侭だと罵られようが。
「わかるだろ?」
「うむ。ワカル」
愚かなほど一途な男たちは分かり合ったが、見守っていた者たちの総意を汲み取るならば、それはわかんねぇよの一点張りだっただろう。
「まぁ、終わっちまったものはしょうがねぇっつう考え方もあるな。いいや、お疲れさん」
「あ、ああ。今度は俺も手加減しないことを努力しよう。高く跳ぶんだったな」
「けっ、よく言うぜ」
結局は青田に納得さえしてもらえばよかったのか、突然三井は軽口を飛ばすと自分よりも一回り大きい巨漢に背を向けた。
行動が気まぐれな猫のようだ。途中からだったが目が離せなかった流川は思う。思考が柔軟なせいで、三井は自分との1ON1のとき、思いもよらない奇抜な方法で持って出し抜こうとするのだろうか。思い描く範囲外で挑まれると長い腕でシュートを即座に決められてしまって困るというのに。
流川が男子の遊戯の誘いや女子の目を避けて見学したかったものは、ひとえに三井のバスケットボールだった。それも彼が勝手知ったるバスケ部の連中とじゃなしに、全くくせも能力も知らない同年代相手にどう立ち回るか。同じコート上ではなく、動く三井を客観的に分析するのが酷く楽しい行為のような気がして、今日流川はここに来た。が、それは少々遅く彼の先輩の試合はもう終わってしまった後の様だった。授業授業と白けてはみせても、いざ始まると結構試合に熱中してしまうのが男の性だ。均整の取れた背筋や腹筋を惜しげもなくひけらかしながら、脱ぎたてのシャツを開放された非常口の外で絞りながら友人と談笑している三井はいつもより少しだけ遠い。もっとも普段から桜木や宮城や木暮よりも彼の近くにいる流川ではないのだが。
「あー、都村がインフレで休んでなければなー。バスケ部いねぇ5組なんてメじゃなかったのによ。青田は妙にシャレなんねーけど、うちのメンバーも悪くねぇのにあまり点差が開かなかったのは都村が休んだからだ。ちくしょう。たりぃー」
しわくちゃになった紺のシャツを再びうひゃうひゃ言いながら着込む三井は、隣で同じことをしているクラスメートにここぞとばかりに愚痴ってみせた。流石にクラスメートともなれば、更生してからの三井が見た目ほど凶暴じゃないことも理解している。一時期3年3組での三井の影のあだ名は「劇的!ビフォーアフター」だった。長すぎるのですぐに廃止になったが。ともあれ話を振られたのっぽの学級委員長は、笑いながら考えながらそれに応じる。
「インフルエンザだろ。かといって無理に来られて感染されてもお前困るじゃん。そんなにバスケが好きなら」
「そうだけどよ。これから3回戦4回戦決勝とマジ困る。やっぱ今が一番身体動く時期なんじゃねぇ?運動神経のピークというか。バスケ部でもねぇくせに動き良すぎ。疲れる」
三井はそう言って強気な眉を心持ち下げ肩を竦めた。弱音というより本音なのだろうこれは。
いつぞやも誰かに三井が体力に欠けることを聞いていたので、3組の委員長は、殆どオフェンスに参加せず一人でパス回しやゲームメイクに尽力していた三井にねぎらいと敬意の混じった眼差しを向けた。
「ちょっとハードな試練だと思えよ。それか変則的な練習か。いつも同じ連中とやってるみたいだからたまには刺激になるだろ」
「まぁ…な」
監視の教師の目を盗んで誰かが購入してきた1Lペットのポカリを回し飲みしながら野次を飛ばし、素人の突飛な行動に肝を冷やしつつ、笑いながらがむしゃらにするバスケも悪くない。
鮮やかなボールさばきに目を奪われることはなくても、バックボードの中ほどまでに伸びる腕から叩き込まれる派手なダンクシュートがなくても、バスケというだけで何やら本気になってしまう自分がいる。
「なんとかしねぇとな…」
「え?」
無意識に呟いた三井に、水分補給していた委員長が振り向く。人差し指で顎の古傷をひっかけつつ三井は目を逸らして言い訳をした。
「バスケだよバスケ。いつまでもやってられるわけはねぇんだし、やっぱ熱冷まさねぇとなとは思うんだけどよ」
「青田相手には確かにみっともなかったが、別にいいんじゃん?やれるときにやっといたら」
「うーん…でもなぁ」
三井の口からバスケを少しでも否定する言葉が出るのが、流川にはショック以前に不思議だった。
一番遅くにバスケ部に来たのが三井で、誰よりも赤木と木暮の引退を惜しんだのも彼だ。なのに流川には三井がもうずっと、自分が湘北に来る前からここにいたような気がしてならない。どあほうや先輩に言ったら笑われるかもしればいが、ここで自分を待っていてくれてたのではないかとも思う。そんな変な事を考えるのもまた彼にとって楽しかった。
インフルエンザなんてメじゃねぇ熱情に浮かされて、同じコート上を死にかけながら走ったことを。
覚えているならば、その熱に冷水を垂らす大人ぶった言い訳を聞かせないで欲しかった。
3年女子のバレーボールコートを横断することが出来ずに、未だ体育館の隅の壁にもたれている流川に、三井よりも先にその隣の友人らしき人物が気づいた。グラウンドの方を見つめている三井に流川を気にしながら耳打ちする。彼は緩慢に振り返り何の表情も宿さずに流川を見た。同じく表情には出さなかったものの、流川は慌てて彼らに興味などないといった風情を装う。別に接触したいというわけではなかったのだ。話しかけたところで何を言えばいいのかわからない。
なのに三井は少々面倒くさそうに腰を上げると、後輩に向かって長い指で「外に出ろ」というサインを寄越してきた。女子の黄色い悲鳴に巻き込まれるのを恐れてか、こちらを横切って来いと言われないだけマシかと、流川は一つ頷いて一度体育館を後にした。
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