『 サイアクの始まり 』 #3




  
act:3 闇の外へ


  「リョーちんこーーーー!!!!」

   今日一日の疲れは普段の比ではなかった。  
  部活に向かう途中―――廊下の隅から隅まで響く、およそ自分のあだ名とは思いたくない絶叫に、
  それでも俺は苦い表情で気だるく振り返る。

  「うるせぇな!なんだ花道・・・っ!!?」

   もの凄いいきおいでダッシュをかけて来た赤いリーゼントの少年が、そのままのノリで
  突然ドロップキックを仕掛けて来たからたまらない。
  持ち前の反射神経でかろうじてかわすと、今度は長い足で繰り出された後ろ回し蹴りを咄嗟に
  しゃがんで避ける。そのまま桜木花道は、拳法の型のように流麗に長い足を収めた。

  「ふんぬー!!逃げんなリョーちん!」
  「バカヤロー!!逃げるに決まってんだろ!殺す気かよ!?」
  
   思わずハ行の悲鳴を上げるところだった・・・と屈辱に眉を顰めつつ、先輩としての威厳を守るため、
  あえて堂々と正面から睨み合う(身長が全く及ばねぇところが、世の中のせちがれぇところだ)
  「落ち着けよ花道。何かあったのか?俺を抹殺しなきゃいけないような事が・・・」
   そんな事態に陥っても嫌だが、何とか場の雰囲気を和ませようとシャレめかして言った台詞は、
  どうやら逆に後輩の逆鱗に更に触れることになってしまったらしい。

  「ふんぬー!!リョーちんは俺が倒ーす!!」
  「落ち着けってー!!これ以上喧嘩沙汰起こしたらマジやべぇだろが俺たち!!」
  「俺がやるのは喧嘩じゃなく、抹殺だからいいのだ!大人しく土に還れリョーちん!!」
  「んな滅茶苦茶なぁああ!!」

   今度こそ悲鳴を上げて、花道の容赦ない蹴り・突き・頭突きから逃げ惑う俺の前に、
  すっと別の人影が立ちはだかる。
  嫌な予感極まりないことに、その長い足はバスケットシューズを履いていた。
  そして舐めるように見上げていくと、湘北高校イチの美男子と誉れ高い流川楓の顔が
  そこに浮かんでいた。だが、いくら美形と言えど、ほの暗い廊下で逆光に煽られながら
  こんな状況で見るそれは、ホラー以外の何モノでもなかった。

  「流川・・・もしかしてお前も・・・?」
  「宮城先輩・・・コロス」

   映画で見た殺し屋顔負けの陰惨な表情と声色で、流川は手にした1メートル竹定規を
  剣道の要領で構える。

  「マジかよ・・・!?」
  
   打ち合わせたわけでもないだろうに、抜群にタイミングの合った2人の攻撃をバク転でかわすと、
  着地したところにモロに定規が襲ってきた。
  (避けきれない―――!)
  目を瞑ろうとした瞬間。どこからともなく飛んできた見慣れた球体が、寸分の狂いもなく
  流川の脳天にヒットした。
  流川は定規を脇に収め、後頭部をさすりつつ不服そうに後方に目を遣る。

  「体育会系じゃ、先輩イジメはご法度だぜ・・・」

  その低めの声を、何故か懐かしいと感じた。腹筋を総動員して一気に身を起こすと、
  トレーニングウェアに薄い身体を包んだ青年が、傷跡の浮かぶ口元を楽しげに歪めて立っていた。
  両手にシュートフォームの名残を残しつつ・・・

  しかし続けられた能天気な台詞に、浅い思考は一定の結論を弾き出した。  

  「・・・ようダーリン。そろそろ俺に惚れたか?」
   なんじゃそれは。
  「・・・アンタの差し金か・・・?三井サン・・・」
  「ああ?」

  昼間、衝撃的に切ない事を言ったかと思えばもうコレなのか?
  このヒトは、俺に嫌われるか嫌われないかのギリギリの境界線を渡るスリルを
  楽しんでるんじゃないだろうか・・・
  俺は脱力して冷たい廊下に膝を付き、そして次の瞬間、キレた。
  ああ、短絡思考。



  1時間後―――保健室は保健室らしからぬ活気に満ち溢れていた。
  
  「もーワッケわかんねーよ!!何で俺が襲われなきゃいけねーんだ!?」
  「てめぇ宮城!!助けてやったのに俺に2発も入れやがったな!?責任とって嫁にもらえよ!」
  「甘いぞミッチー!俺なんか5発も殴られたんだぞ!リョーちんは暴力亭主だ!止めといた方がいー!」
  「うるせーぞどあほう・・・元はと言えばテメェの勘違いが原因だろうが・・・」
  「てゆーかあんたら・・・嫁って一体何の話を・・・」
   とにかく好き勝手に喋りまくり一向に纏まる気配のない湘北バスケ部レギュラー陣(ダンナ除く)
  に焦れたらしく、クラスメートの中迫は俺の頬の傷に貼りかけていたテープを思い切り引っぺがした。

  「いってぇー!!中迫てめぇ何しやがる!!」
  「一番キレキレなお前を正気に戻してやっただけだ。感謝しろよ。で、何がどーなってんだ?」
   それはたまたま保健委員で当番をしていた中迫以上に、俺らが聞きたい質問だったろう。
  誰ともなく顔を廻らせていると、問題児軍団の中でも一番の問題児、桜木花道が言いにくそうに
  唇を開いた。

  「・・・ミッチーが泣いてたから、リョーちんが今までの腹いせにイジメてると思ったんだ。
  だから俺がバスケットマン同志としてそれを阻止しよーと・・・」

  「だっ・・・誰が泣いてただと!?ああ!?」
  「花道!俺がイジメをするような人間に見えんのか!?それよりも確かめもせずにいきなり
  殴りかかってくんのかお前は!?」
  「誰がバスケットマンだ・・・ど素人め・・・」
  「あーもー!!また好き勝手喋るー!!」
   花道の告白でまた騒然となる一同を一喝し、中迫は苦い顔で花道を睨みつけている
  三井サンに向き直った。
  「取り合えずこの1年らが宮城を襲ったのは、三井先輩の差し金ではないってことでいいんですか?」
  「そう。俺が勝手に判断して制裁に出てしまったのだ・・・すまんかったなリョーちん。
  天才にも過ちはあるのだ」
   中迫の質問には何故かえらそうに花道が答え、その後に流川がぼそぼそと続ける。
  「俺は・・・昼休み宮城先輩が三井先輩に突っかかってたのと、三井先輩が部室で泣いてた
  事から判断して・・・そしたらこのどあほうが「宮城先輩を討伐に行く」といきりだして・・・」
   アレを見てたのか!?と俺が叫ぶ前に、三井サンから「泣いてねーって!!」という突っ込みが入る。
  ただそこまであからさまに否定されると、かえって疑わしいと思ってしまうのが
  人間の本能であって・・・まぁいい。
   苛立たしげに嘆息すると、俺は三井サンを横目で睨みつけた。
  
  「三井サン・・・まぁアンタが泣いてよーがいまいが俺はどーでもイイんすけど、
  唯でさえ大会前で不安定な部活に、これ以上問題の原因持ち込まねーでくれねぇかな?
  俺の勘違いは悪かったし、花道たちから助けて貰ったのは感謝してるけど、
  アンタの行動ワケわかんねーよマジ・・・」

   中迫が息を飲み、花道と流川が絶句し、三井サンが硬直するのがはっきり感じ取れた。
   後々頭を冷やして考えてみると、何にこんなにイラついていたのか、こっちの方がワケがわからない。
   彼が“バスケット”という接点だけで後輩の好意と信頼をいとも簡単に射止めてしまったことにか。
   記憶に刷り込まれ繰り返される、屋上での廊下での彼の常識外の行動にか。
   彼が“泣いていた”という原因が俺にあるだろうという事への理不尽さにか。

   それとも。俺はやはりこの人を、心のどこかで許せていないんだろうか?

  「帰る・・・」
   流川が発するような低い声音でそれだけ呟くと、俺は掛けていたイスからおもむろに立ち上がった。
  「リョ、リョーちん部活は・・・」
   花道が罪悪感からか珍しく物怖じするような声で尋ねてくる。それを横目でちらと見ると、
  俺はすぐ目を逸らした。
  「何か疲れた・・・お前も今日は帰った方がいいんじゃねぇか?頬の新しい怪我の説明、
  面倒くせーだろ・・・」
   キレた俺が付けた打撲傷―――このときはそれさえも三井サンのせいだと、
  押し付けようとしていた。
  花道はまた沈黙し、気まずそうに頬に手をやり俯く。
  流川には目立つ外傷はないようだったが、三井サンには薄い唇の横、端正な面に
  そぐわない紫色のアザが広がっていた。

  「・・・俺大丈夫だから、部活出てテキトーに説明しとく・・・アンタも帰った方がいー・・・」
   唐突に流川が、三井サンのアザに労わるようにそっと触れ、そう言い放った。
  流川が他人に気を遣うところなんて初めて見たので俺はついその光景に見入ってしまった。
  花道も大きな目を更に見開き、三井サンも・・・流川の顔に視線を奪われているようだった。
  少し驚いたような幼さの残る表情を晒している。

  ・・・それは確かに珍しかったがそれだけのことだ。俺には関係ねーさ・・・
  いち早く興味を反らし、声を掛けようとする隙も与えず、名前を呼ぼうとする誰かの姿を
  厚い扉で後ろ手に遮った。

  
  明日から、戻らなければ。
  バスケを頑張ろう。朝練もちゃんと出る。授業中に寝ない。
  花道と流川にも謝ろう。ついでに中迫にも。
  そして三井サンに笑って挨拶しよう。何事もなかったかのように。
  きっと、うまくできる。


  だから、今日だけは―――
  







  翌日―――
  カーテンの隙間から漏れる、5月の早朝の強い日差しに叩き起こされた。
  「眩し・・・」
   唐突で強烈な目潰しに寝返りをうってから上半身を起こす。見慣れた自室の風景が網膜に
  認識された。
  何にせよ快晴なのはいいことだ。新しいスタートになんともピッタリじゃねぇか。
  デッキの上の俺の女神(アヤちゃん)も変わらぬ笑みを称えてくれている。
   人間というのは貪欲なもので、どんだけドロドロした気分の時でもどんだけ悩みを抱えている
  時でも、疲れていれば際限なく眠れてしまうらしい。
  そして目覚めはかえって爽やかに迎えられるものらしい。最高じゃねーか・・・

   ・・・枕元の時計が6時半を指しているという現実から目を背ければ。
   ちなみにバスケ部の朝練の開始は7時ジャストだ。

  「後30分しかねぇー!!」
   自慢の俊足をこんな自宅内で活かすハメになろうとは・・・
   しかし慌てて階段から足を踏み外したことよりも、更に最悪な事態が待ち受けていようとは
  考えてもいなかった。


  「・・・俺のチャリどこよ・・・」
   ・・・昨日ちゃんとガレージに入れ、チェーンも掛けたはずの自転車がそっくり姿を消していたのだ。
  そこにあったという証拠である前述のチェーンだけ残して・・・それは本当に証拠でしかなく、それから
  推理できる事象も高2男子の貧困な想像力には限られていた。
  すなわち、“盗まれたか”“持ち去られたか”・・・って一緒じゃねーか!!
  「ああもうっ!!何でガレージに入れてるモンが簡単に持ち出されんだよ!!」
   ニッパーで切断されたような跡があるチェーンを腹立ち紛れにコンクリートに叩きつけると、
  俺は足早に最寄駅に向かって歩き出した(自分のマウンテンバイク以外に我が家に自転車はないのだ)
   もう朝練の遅刻はまぬがれないだろう。大事なインハイ予選前なのに俺は何やってんだろう・・・
  と考えると、深い溜息が無意識に漏れる。
  新しいスタートへかけた意気込みをいきなり削がれ、朝からブルーな俺の前に―――

  「・・・何やってんだ?朝練間に合うのか・・・?」


  俺の前に現れたのは―――ごくごく一般的なチャリに跨った、最近存在を知った先輩だった。
  何故か名前が一瞬浮かんでこなかったのは、やはり後ろめたさか覚悟の問題か・・・

  「・・・後ろ乗るか?ボレぇチャリだけど・・・これしかなくて・・・」

  状況は把握していないだろうに、ピンポイントな誘惑をかけてくる。
  ―――コレは“ラッキー”ですか“試練”ですか、それとも3回目の“始まり”ですか?
  本能としか言い様の無い衝動で、三井サンの細い腕をとった。


  「座って乗るか?それとも立って乗る?」
   低血圧らしい覚醒しきっていない掠れた声で聞かれる。「俺が運転しますよ」の申し出は
  やんわりと制止された。
  「先輩が運転してやろうってんだ。素直に甘えとけっての」
   甘えた後の反撃が怖いんだ・・・とは喉の奥に飲み込み、湘北までかかる時間を考慮して、
  後部に座って乗車する事を選ばせてもらった。
  三井サンの腰に腕を回そうとしたが、彼が気付く前に引っ込めた。
  「行くぞー。お前ンなとこ持ってるだけで落ちねぇ?」
  「大丈夫す。結構安定してる・・・」
   “ンなとこ”とは座っている荷物台の枠部分であるのだが・・・まぁこの人が安全運転を心掛けて
  くれれば大丈夫だろう。三井サンは「重てぇな」と僅かに悪態をつくと、ペダルを思い切り踏み込んだ。
  「よーいドン」
  
  
  「アンタ乱暴すぎるー!!」

   数分後―――俺は目の前の男性にしては華奢な腰に思い切りしがみ付いていた。
   この自称先輩の運転と来たら・・・幅広の階段は後輪をホップさせて飛び越すわ、
  ブレーキの際後輪が浮くほどのスピードを出すわ、かと思えばブレーキさえかけずに
  猛スピードでカーブを横切るわ・・・とにかく同乗者総無視の方向で突き進んでいく。
  ケツが痛くてしょうがない。アザでも出来たらどうしてくれんだ。

  「・・・近道してコレくらい出さねーと間に合わねぇ。我慢しろい・・・」
   苦しげな表情で言い放つ。そういや2ケツなのに坂道も結構走っていたか。
  見るからに体力無さそうだし・・・
  そう思うと、三井サンの努力は俺にとって破格の持て成しであると言えた。
  「ねぇ!アンタ朝練の前にバテちまうよ。停めて。俺が・・・」
   頬を撫で過ぎていく薫風の音に負けないよう彼に訴える。しかしほんの少しだけ少年ぽさを
  残した青年の凛々しい顔は前だけ見据えていて、どこまでも駆けて行くかのような意志を称えていた。
   小気味のいいブレーキ音を響かせ、湘北高校の近くの見覚えのある商店街に出る。
  時間はまだ10分を残している。
   時間に余裕があることと、スピードが緩和されたのとで思わずホッと息を吐き、
  三井サンの体に回していた両腕を緩めた・・・と同時に、三井サンが「ひゃっ」と変な声を上げた。
  「へ、変なトコさわんなバカヤロウ!」
  「変なトコってどこっすか!?」
   とんでもない事をいきなり怒鳴られ、純粋な動揺を叫び返すと、今度は「うるせぇ」と軽く肘を張られる。
  それが少し面白くなくて、俺は三井さんの脇の下から腕をにゅっと出すと、胸板の辺りを
  わし掴む仕草をした。当然女性なら存在する弾力性の欠片も感じず、ただカッターシャツに包まれた
  薄い胸の温かさが伝わってくるだけだ。
  「乳首当てゲーム♪」
  「ちょっ・・バカ、何してんだヤメ・・・!!」
   三井サンのうろたえぶりが愉快で(スキンシップに慣れてないのか?)、悪ノリして更に指に力を込める。
  「乳があったらもっと愉快なのに・・・何でオンナノコじゃないんすかー三井サン」
  「―――っ!知らねぇよ!やめんか、揉むなっ・・・!!気持ち悪ぃ!!」
   必要以上に顔に血を昇らせ振り返って怒鳴る三井サンを、にやけた顔でからかうことに
  熱中していた俺は、目の前に迫っていた危険に全く気付いていなかった。コレばかりは冷静な
  判断力と広い視野が要求されるPGとして未熟だと諌められても仕方が無い・・・
  商店街を抜けて少し行ったところ、ガードレールも何も無い土手が少しばかり広がっている
  事を失念していた・・・フラフラと進む自転車が小石に乗り上げ、本格的にバランスを失うのも
  必然だと言える・・・

  「え?」
  「お・・・」

  何故か視界いっぱいに晴天が広がり、続いて傾斜45度の土手が俺たちを待ち構えていた・・・




  「・・・俺最近ツイてないんすよ・・・」
   ジンジンと擦り傷が悲鳴をあげる身体を土手に預け、空の川を流れる雲を呆けたように眺める。
  「・・・ほう・・・奇遇だな。俺もだ・・・」
   しばらくして、そう無い距離から苦しげな声が上がる。
  「三井サンだいじょーぶスか?」
   呆けたままの抑揚の無い声で、視線は蒼穹に放ったまま一応尋ねる。その問いに応えるよう、
  土まみれのシャツに包まれた腕が一瞬突き出され、また一瞬後には地に落とされた。
  ・・・結構限界キテますか?
   ちらと先輩の伏せている方向にようやく視線を遣り、茶がかった短髪に絡まる芝と、眉の上辺りに
  走る擦り傷と、泥のついた手の甲に滲む赤を認め眉を顰める。
  この手は、一点突破の美しい軌跡を描く為の手であるのに。
  
  「・・・大丈夫じゃないみたいすね。スンマセン・・・」
   
   入学した時から漠然と思い描いていた夢の第一歩を踏み出そうと言う時に、本当に俺は
  何をやっているんだろう。
   落ち着いて考える努力もせずに、勝手に混乱して周りを傷つけて、
  自分自身もロクに制御出来ずに―――
   俺たちの為に何度も動いてくれた花道たちには、せめて心の中だけでも感謝すべきだろうが。
   んでもって、三井サンはいつだって・・・本音をぶつけてくれてくれただろうが。

   (・・・宮城に本気で嫌われたら、きっと生きるのが辛ぇ・・・)
   ここまで重く苦しく、切なくとも、どこかで幸福な告白をされる者はどれ位いるんだろうか?

   コート上を様々な意志を乗せて飛ぶ褐色のボールと、強い視線だけで語り合える。
  彼とそういった関係を築けるのは魅力的だろう。夢が夢で無くなる瞬間、そのまだ知らない
  歓喜を分かち合いたいとも思う。
   それが“信頼”という名の最高の友情であることは知ってる。三井サンとそうなれることは願ってもない。
   それでも俺は―――彼と同じ位、恋は出来ない。

  「・・・俺、告ってフラレてばっかだから、告られるのって慣れてねぇんだ・・・
  どーしていいか全くわかんねーからテンパって、俺が俺らしさを忘れちまったみてー・・・」

   溜めていた感情が飽和状態になって唇から溢れ出た。
   遥か上空の青と白のコントラストが不意に揺らぐ。
   寝転がったままの俺の視界に突然影がよぎり、もう一度目を凝らすと、整った顔が落ち着いた
  表情で覗き込んでいた。
  すっと節高い指先が目の前に翳され、らしからぬ優しさで目元を拭っていく。
  濡れた感触に今ごろ気付いた。

  「泣くんじゃねーよ、みっともねぇ・・・」
  「みっともねぇんすよマジで・・・」
   一端区切って、彼にとって残酷なことを言った。
  「ねぇ、俺を解放してください・・・生きてくの辛ぇなんて言わないでよ・・・」

   俺がアヤちゃんに「もう付きまとわないで」と宣告されたら一体どうするのだろう?
   俺は今それと同じことを三井サンに言った。俺のことを「好きだ」と言った三井サンに。
   三井サンは黙っていた。やはり彼の年相応な大人一歩手前の表情には違和感が。
   馬鹿笑いしてる方が何かイイ。
   向けられた真摯で誠実な眼差しは、屋上で初めて絡まれた時から印象的ではあったが・・・
   そろそろ、お互い本性出して行きませんか?疲れちゃうでしょ・・・
   俺たちは愛を語らうキャラじゃねーよ。

  「・・・お前に告った事ナシにするっつったら、お前は楽になれんのか?」
   マジな声が頭上から降ってきて、俺は三井サンの顔に胡乱げに首を廻らした。
  「・・・ええ、多分・・・」
   彼に何一つ優しくしてやれない自分の態度に、悔しさでまた涙腺が緩みそうになるのを必死に耐えた。
   それでも俺は自らの平穏を守ることを選んだのだから、哀れむことは許されない。
  「おっし、いいぜ。解放してやる。悪かったな、忘れてくれコレまでのこと・・・」
   一拍置いて柔らかいテノールで、一昨日俺を好きだと言ってくれたその唇で別れの言葉を
  告げさせてしまった。
   鮮やかな笑みは蒼穹の空に良く映えていた。痛々しいほどに・・・
  「・・・ホントにいいんすか?」
  「最初に言ったろ、遊びでも構わねーってよ。遊びは出来なかったお前の勝ちだ。
  正直ここまで追い詰められると思わなかったし・・・」 
   拍子抜けするくらいあっさりと言ってのけ、よろけながら立ち上がる。
  そのまま定位置から微動だにしない俺に向かって手を差し伸べた。素直にその手を握るのは、
  何故か躊躇われた。
  「行こうぜ・・・1限には間に合うだろ・・・」
  「ああ、そうすね。自転車は・・・?」
  「へしゃげて下のほう落ちてる。帰り取りに来るわ・・・」
   泥を払いつつ土手を登り、道路に出る。クラブに所属していない生徒が通学してくる時刻になって
  いたようで、校門まで無数の好奇の視線に晒された。
  赤木のダンナや花道らに見つからないうちに校舎に入ってしまおう・・・
   三井サンと並んで昇降口に差し掛かったとき、突然紡がれた言葉。
   その低い声音は、どこか俺に気を遣っているかのようにも聞こえた。



  「・・・宮城、今、楽しいか?」



   その意味を理解することも、それに対する返答も出来ないまま、長身の先輩は人の波に紛れて、
  俺の前から消えてしまった。


  
   



   act:3 闇の外へ/了  act:4 2年間 に続く