ONE NIGHT STAND


 
  流川楓が普段見向きもしない“ソレ”に応じたのは、なんのことはない、
  ただ今日はバスケ部の練習が臨時で休みでヒマだったからだ。夜までは。
  ―――それまでならまぁいっか。たまには。
  と、黒猫のような気まぐれさと敏捷さで、彼は特に急ぎもせず体育館へ向かって
  歩を進めた。

 

  『今日の放課後バスケ部の体育館の倉庫で待っています。』


  「・・・なんだこりゃあ?」
   昇降口の3年生の下駄箱の前で。三井寿は一片のメモ用紙を片手に突っ立っていた。
  差出人も何も書かれていない。ただ前述の文章がまぁまぁ整った筆跡で書かれて
  いるだけだ。しかしこれは経験則に照らし合わせて考えると―――
  「ラブレター・・・つか告白されんのか?俺?」
   声に出して呟くと同時に、にへらと端正な顔をだらしなく崩す。三井のクラスメート
  が2、3人、彼のほうを怪訝そうに見遣りながら靴箱に手を掛けた。
  そしてなるべく関り合いにならないほうが賢明だろうと心中思う。のだが。
  「なぁ杉本っちゃん!俺ってイイ男!?」
   途端、杉本っちゃんと呼ばれた男は、靴箱に伸ばした手をそのまま怪しい男の長い
  指で絡め取られ、ぐりんと身体を長身のクラスメートに無理矢理抱き寄せられる。
  彼の友達は巻き込まれることを恐れてか、そそくさと彼らの半径3Mは距離を取った。
  「みっ、三井君!?」
   “杉本っちゃん”はそんなことをされるほど親しいわけではない三井の顔を、思わず
  間近で注視することになってしまい、うろたえた。自分より少し高い位置にある
  シャープな小顔を見つめるのには少しの照れと多大な恐怖があり、目をそらして呟く。
  「う、うん。三井君はカッコいいと思うよ・・・」
  「だべ!?だよな!?」
   ようやく三井は彼のゾーンから杉本っちゃんを解放し、満面の笑みを浮かべながら
  その肩をねぎらうように叩いた。その力の強さから、杉本が三井の質問に否定的な回答
  を述べていたらどうなっていたか・・・想像に難くない。
  「男にも認められるこの俺の美貌!もはや罪!」
   三井はうわははは・・・と下品な笑い声を上げ、体育館方面へ身を翻すと軽い足取り
  で去って行った。残された哀れなクラスメート達は呆然と呟く。
  
  「なんだったんだ一体・・・」
  「つか俺、三井とそんな親しくねーし・・・」
  「あんなに浮かれて・・・痛い目みなきゃいーけど・・・」

   そして彼らは“杉本っちゃん”を見捨てた見捨ててないで、靴箱の前で喧騒を
  繰り広げるのだった。



  ―――所変わって、いつもとなんら変わりないハズの、彼にとって使い慣れた体育館。
  もはやそこの主の一人とも言えるほど密接な関係を持つ流川は、律儀にバッシュに
  履き替え、明るい板張りの床に足を付けた。こうして突っ立っていると、今すぐにでも
  ボールを手に持ち、遠くに見えるリングにぶちこみたくなる。しかし今日はそれには
  邪魔なパイプ椅子が、所狭しと敷かれたグレーシートの上に無数に並び、また普段とは
  異なる様相を覗かせていた。
  「・・・式典なら別の体育館でやれっての・・・」
   不機嫌も露わに呟き、流川はその整った顔を少し歪めると、指定された場所につま先を
  向けた。そう、この体育館の用具倉庫だと確か書かれていた・・・


  「いきなりこんなトコに呼び出すなんて大胆だな・・・そういう女、嫌いじゃないぜ?」
   歯の浮くような台詞を、クールな表情で嘯く―――薄暗い室内の空気に乗せて。
  そして我に返ったように三井寿は、近くにたまたま転がっていたサンドバックにチョーク
  スリーパーを掛けた。
  「ぎゃー!なんてな!なんてな!バッカじゃねぇの俺!」
   自虐の言葉を吐きつつも、その表情は言葉にするのも憚られるほど幸せオーラを撒き
  散らしていた。もちろん、下駄箱の手紙(というかメモ用紙)とこの表情が密接に結び
  ついているのは言うまでもない。高校1年生の頃はこの手のモノも結構頻繁に貰っていた
  のだが、グレてやめてそして復帰して―――それからはとんとお目にかかれなくなっていた  
  のだ。女子からの告白だのそういう類のものは。
  だから花も盛りの健全な男子高校生が身も世もない浮かれ方をしてしまったとしても、
  誰が彼を責められようか。
  三井は薄暗い室内浮かび上がる体操用マットに腰を沈めつつ、相変わらずサンドバック
  を抱きかかえたまま、手紙の執筆者がこの場所に訪れるのを、まるで初心な少女のように
  待ち焦がれた。
  ―――その幻想が僅か1分後には打ち砕かれるなど、もちろん1mmも考えていない。


  固く閉ざされた無機質な鉄製の扉の前。流川はその長身をしばし微動だにさせなかった。
  視線だけでその扉の上のプラカードに書かれた文字を確認する―――“体育用具室”
  ―――いかん。なぜか緊張している・・・
  これでは彼曰くのどあほうにもデカイ面が出来ない。流川はガラにもなくそわそわと
  辺りを見回し、やがて意を決したように薄い唇を引き結ぶと両開きの扉の片方に手を
  掛けた。今日なんでここに来ようと思ったのか・・・気まぐれで誤魔化した自分の決意を
  流川は知っていた。
  ガラリ。
  
  「うす・・・」

  殆ど人間の聴覚には拾えないほどの声量で呟くと、用具室の狭い空間の中、確かに人の気配
  がこちらに向かって誘うように手を伸ばした。ここからでは逆光でよく表情が見えない。
  流川はその奥の存在に導かれるように歩を進める。そして目の前の人物が腰掛けていた
  らしき場所から立ちあがったのに釣られ僅かに驚いた。
  ―――女にしちゃでけぇ・・・
  思ったと同時に、その“女”が自分の腰周りに腕を絡めてきたのを感じて流川は硬直した。
  ―――ちょっと待て。
  「待ってたぜ・・・俺のこと、好きなんだろ?」
   そのまま胸辺りで囁かれた。そのゾクッとするような“男”の声に、流川は思わず
  身を跳ね上げる。まさしく別の意味でゾクっとして。
  「緊張してんの?大丈夫だって・・・俺に全てを任せ・・・」
  ―――だから待て。待てって!
  腰辺りを這う骨ばった指の感触に、流川が抗議の声を上げようとした瞬間―――

  ガコン!!

  激しい音とともに、一切の光が背後から消えうせ、流川は反射的に扉の方を振り向き
  そして腰に回る腕を振りといて駆け寄った。
  「な、なんだぁ!?」
   動揺したらしき、セクハラ魔人(流川命名)の声に微かな引っ掛かりを感じるが、
  それより流川は目の前で完全に閉ざされた扉を思い切り引いた。が、びくともしない。
  ―――な、なんで・・・開いてたのに・・・ 
   湘北の体育倉庫はいつから自動扉になったのだろう?そんなものに金を使うなら、
  部室にシャワーを増やしてほしい・・・   
  流川の混乱気味の思考を遮るように、扉の向こうの拓けた世界から、数人の爆笑する
  だみ声が轟いた。

  『ッバーカ!!』『調子乗ってんじゃねーよ!!』
  『インハイ行ったからってイキがってんじゃねーぞバスケ部!!』
  『更にモテルからっていい気になってんじゃねーぞ流川!三井!』

  罵声と嘲笑だけ耳を打った。そして、その声も徐々に遠ざかって行く。
  ガンっと金属音が隣りでして、流川がそちらを振り向くと、ここに閉じこめられたもう
  一人の人物が拳を扉に打ち付けているようだった。
  「ちっくしょ!!ハメられた!!誰だよあいつら!!」
  「ああっマジで!?ビクともしねぇ〜。閉じ込められたっ!!」
   ―――待て。俺はこの声を知っている。
   流川は思いつくと、薄暗がりの狭い室内の中、必死に姿を捕らえようと目を細めると、
  隣りの人物の両肩らしき個所を掴みこちらに正面を向かせた。そして呼びかける。
  「先輩?三井先輩すか?」
  「・・・流川?ゲッ・・・!!」
   その台詞は流川の疑問を肯定していた。
   彼の表情はやはり認識できなかったが、その声で手に取るようにわかる。
  「うわぁぁぁ〜!背のバカ高ぇ女だとは思ってたんだ〜!まさか流川だとは!!」
   絞るような悲鳴が流川に失礼だった。そっちが勘違いして勝手に盛り上がってきた
  クセに。抱き寄せた時点で気付けよ・・・
  触られ損の上、訳もわからぬまま閉じ込められて、流川はココに気まぐれで来てしまっ
  たことを心底後悔していた。
  ―――よりによってこんな日に!!

  「・・・っくしょおが!!」

  滅多に出さない、自分でも仰天するような怒声を上げ、流川は長い足で思い切り
  扉を蹴った。そのまま2度3度、回し蹴りをびくともしないそれに極める。

  「る、流川?」

  その勢いに返って冷静さを取り戻した三井は、あっけに取られたように流川を凝視した。




  それからも2人で扉を蹴ったり叩いたりしていたが、まず三井が疲労に根を上げ、
  続いて流川もくずおれるようにダウンした。今は2人で視界もままならない暗がりの中、
  至近距離で体操マットに寝転がっている。よりによって、せっかく見つけた唯一の光源
  である白熱灯は切れていた。
  「・・・流川もコレと全く同じメモ用紙貰って、ココに来ちまったのか・・・」
  「うす・・・」
  「あークソ。これもあいつら非モテヤロウの罠だったってワケね・・・」
  「・・・っす」
   三井は一度は心を躍らせた紙片をコレでもかというほどに細切れに裂くと、寝転がった
  ままパァと頭上に雪のように舞い上げた。流川も気だるくそれを視線だけで追う。
  しかしそれは殆ど認識出来なかったが。重力に従いそれは三井の仰向けの顔に何枚か降り
  注いできた。三井は目を閉じなかった。
  「あ〜あ。ホントバカ。バカみてぇ・・・」
   三井の声は不思議と憎しみなど、負の感情を含ませてはいなかった。どちらかと言うと
  ふっきれたような爽やかさがある。
  
  「・・・閉じ込められたのがお前とで良かったぜ・・・」

   マットに大の字に仰向けに横たわる三井がそんなことを言い出したので、目を閉じか
  けていた流川は双眸を見開いた。見開いたところで目に映る色は変わりがないのだが。
  「・・・なんで」
  「あ?なんでってそりゃあ、女子と閉じ込められたらいろいろマズイじゃねーか。セブン
  ティーンの男女が体育館で一晩を共に・・・なんて噂になったらアンタ―――」
  「一晩!!」
   三井の飄々とした台詞に流川はガバッと起き上がる。そして再び扉に挑戦しに行こう
  とするのを、三井は腰に縋り付いて止めた。
  「ま、待てー!無駄な労力使うんじゃねぇバカヤロウ!」
  「先輩。今何時すか!?」
   流川の表情は確認出来る筈もないが、その声に僅かに交じった焦燥が、三井をも焦ら
  せた。三井は壁伝いに換気用の小窓に手探りで近づき、それを何とか開けると、腕に付け
  た華奢な時計を微かな光に翳す。
  「ご、5時半くれぇだ・・・」
  「・・・・・・嘘」
  「嘘ついてどーすんだよ・・・」
   流川の声の悲壮さに何故か三井はやりきれない気分になり、約20センチ四方の換気窓
  に手を掛けると更に光が入るように調節した。それから叫ぶ。
  「おーい!!誰か助けてくれーい!!徳男ー!徳田ー!返事しやがれー!!」
   今日が全校生徒部活禁止だったのが災いし、体育館の方など誰も近づいてきやしない。
  学校ではないみたいに人の気配がない。まだ教職員が数人残っていると思われる職員室か
  らも駐車場からもここが死角になっていることを思い出し、三井は歯軋りした。
  「ちくしょー。宮城でもいいから!!俺のデンパ受信しやがれ!!」
   換気窓から差し込む僅かな光によって、ここに来てようやく三井の顔を流川は認識
  出来た。しかしそれもまもなく侵食する闇には抵抗できないだろう。
  「電波といや・・・先輩、ケータイとかないンすか?俺教室に全部置いてきて・・・」
  「俺も置いて来ちまったよ。携帯さえあれば宮城にデンパなんぞ飛ばさんでも
  一発なのにクソ!!」  
  「・・・ちっ、使ぇねぇ・・・」
  「あぁ!?なんか言ったか流川ぁ!」
  「別に・・・」
   不満そうな流川の声に、三井は唇を尖らすと、再び仰向けにマットの上に倒れこんだ。
  「まーサイアクでも明日の式典までには助け出されるよな・・・考えたくもねぇような
  恥さらしだけど。赤木にまた殴られるんだろうなー。ヤダヤダ。あー、トイレ行っといて
  良かったー・・・」
   ぐだぐだと三井は諦めきったように愚痴を垂れていたが、ふと寝返りを打って、流川の
  気配のする方に身体を向けた。
  「・・・と、俺はまぁ状況に適応できたんだけど、お前はなんかその・・・やべぇのか?」
   あの流川が取り乱したようにここから脱出しようとしたのだ。何もないはずはないと、
  ずっと引っかかっていた。
  「第一、お前があんなメモ用紙如きでのこのこやってくるってのもおかしな話だよな」
   三井はそれだけ言って疲れたのか黙った。しばらく沈黙が空間を支配し、やがて流川が
  ぼそりと言葉を紡いだ。

  「先輩はもし、ここに来たのが俺じゃなく女だったら付き合ったの?」
  「あぁ?」

  まったく脈絡のない流川の質問に、三井は気だるげに身を起こし、おぼろげに見える
  流川の顔を見据える。

  「俺のこと、かなりいやらしく触った。アンタ」
  「ちっ!ちげーよ!俺なりのスキンシップじゃねぇか!別に何もする気ねーよ!
  初対面の奴には!!」
  
  慌てて否定する三井を横目で見て、流川は嘆息した。
  「俺は、女が良かった」
  「な、何言ってんだてめぇ・・・」

  「・・・女の子と付き合ってみたかった」
  
  ようするに流川は、さっきの三井の「閉じ込められたのがお前とで良かったぜ」発言を
  受けて答えたのだろうと三井は納得した。そして激昂した。

  「バッ、バカヤロウ!!お前だったら黙って突っ立ってても・・・いや、実際突っ立って
  るだけだけど!手のひらで転がせるほど女寄ってくるじゃねぇか!なにを今更!!」
  「だから。そういうのじゃなく、能動的に・・・自分の意志で誰かを好きに―――」
   流川は顔の前でパタパタ手を振って、どことなく元気のない声で三井の怒りをかわした。

  「だから今日、ここに来たコを好きになれたらいいと思ったンす。他人に興味もって、
  そのコの良い所を探して、それを愛せたらいいと思った・・・」
  「なっ・・・」

  思わず三井は顔を朱色に染めて俯いた。自分が言われたわけではないが、それでもこの男
  の、この鉄仮面のそういう台詞は強烈だった。聞いているこちらが恥ずかしくなるという
  か・・・ワケも解らぬまま三井は挙動不審気味な手の動きを交えつつ、謝罪した。

  「い、いや、俺が来ちまって悪かったよ。マジで。でもまた何でいきなり・・・」
  
  流川はまた一つ溜息を吐くと胡乱げに言った。

  「今日、姉貴の結婚式と披露宴なんすよ。だから人を好きになるってどんな感じかな、と」


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