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全開の窓から吹き入る初夏の風が、緩くパーマのかかった髪とピアスリングを撫でて通り過ぎていった。
傾いた太陽に少し涼しさを取り戻した放課後の2年1組の教室には、40あまりの机のセットと、そして2人の人物が。

机にざっくばらんに教科書を広げた少年は、額に落ちる髪をうざったそうにかきあげ、しかし集中はその机の上の中心にあるノートから離すことはしなかった。絶え間なく、右手のシャープペンシルが硬質な音を立てて白紙に文字を綴っていき、その筆跡から彼が仕草に慣れていないことを窺い知る事が出来る。
低い背を更に丸めて筆記に没頭する彼の前に、もう一人の少年は陣取っていた。自分のものでは無い木のいすを長細い身体で軋ませ、こちらも何か机に向かって書き連ねている。100円のスケルトンのペンシルが、不規則な軌跡を何度も描いた。背後の少年と彼が違うのは、その机の上には何も置かれていないということだけ。

「・・・何してんすか三井サン」
「んだよ宮城?落書きだ落書き」

自分の立てる音より更に硬質な尖った音階に好奇心を刺激されたか、背の低い少年が訊ねるのを、「三井サン」は熱中を散らしもせず一言であしらった。伏せた顔に、形良い口角を持ち上げる様は、いたずらを仕掛けることにわくわくする子供のようだ。関心がちっとも自分に注がれないのが少々面白くなくて「宮城」はため息を吐いた。
空気の振動につられるように、教科書のページが僅かにはためいた。

この教室にいて、この机に座っていながら、三井はこの湘北高校にいなかった。いや、去年まではいた。というべきか。
湘北高校の一生徒という肩書きを過去のものとし、今は東京の大学に通う新規生というのが彼の代名詞だった。
校内で見咎められたらさぞかし浮くだろう大き目のパーカーと優雅に伸びた脚線を隠すカーゴパンツがそれを裏付けている。
彼が二度と、まだ記憶に鮮明な白いカッターと、少し手を入れた学ランに袖を通すことは無いのだと思うと、宮城は少し勿体無いような気がした。しかしその感傷も、薄い肩越しに見える机の前に霧散する。

「アンタなにやってんすかマジで・・・」
「ゴクウだ。俺、上手すぎ」

いすの背もたれに肘を付き、宮城を振り返り破顔する男の姿を、透過して宮城の視線をくぎ付けにしたのは、木製のキャンバスにさせられた学習机に広がる漫画キャラの似ても似つかぬ似顔絵だった。

「ちょ、消して下さいよ!そのヘタれな落書き!!」
いくらなんでもこのままでは、その机の本来の持ち主が激昂する(もしくはへコむ)ことが容易に想像でき、宮城は慌てて机から立ち上がる。
「へたれとはなんだ!どう見てもゴクウだろうが!この名台詞もポイントだっつの。クリリンがフリーザに殺されたときのだなー・・・」
「そーゆう問題じゃねぇっての!!」
得意げにその異星人(いや、ゴクウは異星人なのだが…)の横に書き添えられた、「クリリンのことかー」とかろうじて読める「この絵にしてこの字あり」といった風体の筆跡にめまいを覚え、宮城は消しゴムを三井に投げつけた。

「消せ!今すぐ消せ!そこの席んやつ柔道部なんだよ!怖ぇんだよ!今すぐ消さねぇと、指一本でイかす!!」
「な、なに言ってんだてめぇバッカじゃねぇの!?」
「アンタよかマシだー!!」

しぶしぶ消しゴムを拾う三井だったが、剣呑な視線は宮城に注がれていた。宮城も負けずにガンをつけ返す(ヤンキー小説じゃありません)
ここの生徒だったときから何一つ成長していないように思える性格、大学でやっていけているのかと心配になる。そしてこんな男と付き合っている自分も、マトモな大学生になれるのか、と。

「芸術だったのに・・・」と文句を垂れつつ、ゴクウに消しゴムを入れた三井は(そのせいか机は前より綺麗になった)今度は宮城の机に興味を示してきた。机じゃなく俺に興味を示せよ。と言いたかったがそれも落ち着かなくて困る宮城は、再び筆記作業に集中した。それでも背もたれをまたいで宮城の一挙一動を見守る三井の存在を感じずにはいられなかったが。

「志望校どこよ・・・?」
「・・・S大」

落ち着いた声音で掛けられた質問に、要点だけで宮城は返す。机の隅に積まれた教科書から一冊のページを長い指で繰ると、三井はポツリと呟いた。
「遠いな」
この神奈川から、この青春の遺跡から。宮城の未来の先端はあまりに遠かった。隣接する首都からもそれはもちろん。

何か考えようとして、言おうとして。それを行動に移す前に三井の指が宮城のノートの一節に添えられていることに気づいた。
「ここ」
消えかけの傷痕が残る口元で単語を囁いた。
「間違ってると思うぜ。Pointing to research data that shows the world's whale poplation is increaching〜だからこの場合の訳はthatが・・・」
あんなに汚い絵を描くくせに、案外発音が綺麗だったのが悔しかった。
答えも多分、彼の言うとおりなんだろう。
とっくに知っている。変化が訪れないわけはないということ。
彼の言うとおりにペンを滑らせ、静かな大人びた視線に気づかないふりを宮城はした。

せっかくの休みに受験勉強にいそしむ自分になんか会いにきた彼に。
宮城がしてやれることはあまりに少ない。
濃く色を変えた灼熱が沈む前に、彼は彼のふるさとへ帰っていくのだろう。

本当はいつもつなぎとめたかった。この高校に三井の居場所がほしかった。

宮城はまるで自然にノートから自らの机の端へと鉛の筆跡を走らせ、何事かを三井にサインした。細かい傷の無数に浮く板上の端ほんの数センチ。怪訝そうに三井はそれを解読しようとした。彼からはさかさまになって見える日本語。

好きだ。

「どうすか?」
「・・・やっぱお前の方がバカだろ・・・」
三井の表情があからさまに険しいものへと変化して、宮城は無残な言葉に射貫かれた。
「こんなものこうしてやる」
「あーっ!シンケンに書いたのに!」
再び三井が凶器をひらめかせ、宮城の書いた文句の横に重ねて何かを書き連ねた。

「・・・?読めない・・・」
「読めなくていいっての。ばかばかしい。英語やれよ」

ふてくされたように三井は吐き捨て、細い腰を浮かせ教室の出入り口へと大またに歩く。見慣れないニューバランスが教室と廊下の境界線を踏んだ。

「じゃーな」
「三井サン?え?待って・・・」

事態を認識し、引き止める言葉をかけたのは遅すぎた。
長い肢体も険のある美貌も見えない。
気配ひとつもうここには残っていない。

いつも自分は追いかけない。目の前に、やることがあるので。

宮城は何かひとつ欠けたような学ランの胸元を抑えると、少し雑多になりすぎた教科書類を整頓した。そして自然、唯一三井が存在した証拠に興味を奪われる。
彼の遺した宿題―――次回までに解いておけってか?

正気の沙汰とは思えない自分の書いた台詞の横に。
鉛色の糸ミミズが這っていた。

「マジ読めねぇ・・・」

回り込んで、角度を変えて、推理して、やがて天啓のように理解した。

―――おれもスキ。


「―――っは・・・」

宮城は呼吸するのを一瞬忘れた。
その一瞬を突いて躍動する、身体の奥に流れるマグマの奔流に抗う事もできない。
手をついた机から、存在を忘れられた文献がばさばさと落ちる。

窓から差し込む熱色の光に、赤く染まった机とあの文字は―――
宮城の最奥を一瞬で溶かした。







ドキドキ初恋編(嘘)final seconds;と少しリンクしています。