はじまりさえない夜へ+1+






彼は息を詰めていた。
かえって眠っていない事がばれてしまうぜ?
そのまま呼吸さえとめて。終ってしまえばいい。



月明かりに青白く映えるシングルベッドの上。
薄い布団に耳まで潜り壁の方を向いて横たえた微動だにしない長身が在る。

仙道彰は静寂が染め上げる薄暗い部屋の中ゆっくりと音も立てずに近づいて上から覗き込むと、
彼の表情の伺えない顔の前に―――冷たい手を付いた。長い指のかたちにシーツが波紋を描く。


「まだ・・・寝てないでしょう」
「・・・」


厳かな声で、疑問よりも確認の意味をこめてそれは空気に溶ける。
低すぎない若い声は、夜の不透明な空気によく似合っていた。
風呂上がりのまま時間によって冷やされた身体を、自分以外のただ一人が眠るベッド上の空いた
スペースに片方の足だけ床に投げ出して横たえる。
そうしなければこの狭い家具の上、いい年をした男2人がどうやって同衾など出来るだろうか。

薄い夜着が衣擦れの音をたてる、無愛想な彼の背中と意味ももたない仙道の片方の腕。
はりついた体温はお互いに存在を知らしめて、冷たい腕は少しだけ温かないろを点した。
掛け布団はこの熱く薄い背中の主に持っていかれ、ぬるい淀んだ空気に仙道の身体はさらされたままだ。
それでも仙道は視線をしみ一つない白い天井に投げたまま、腕も足も重力に任せてただもう一人と共有する
ベッドに沈んでいた。

―――何もかも忘れて眠ってしまおうか。このまま目を閉じてもう一度
朝に目覚めれば、全てがなかったことに出来るだろう。


だがその考えは、たちまちのうちに、ほんの一瞬で、ただの男のただの一つの仕草で、あっけなく霧散した。
骨の目立つ身体の下に敷かれた腕とは逆の腕が、彼の背中の体温を吸収した仙道の腕に触れた。
長い指が手探りで、筋肉を行き来する。

形よい後頭部が掠れた声で語る。茶色の髪の毛は、闇をすかしてもそれにのまれる事はなく。

「・・・お前の腕は冷てぇな」

まるで温めるように、何からか来るその身の熱さを分け与えるように
鍛えられたそれをなぞり、最後に指を絡めた。

「やらねぇのか」

掠れた声を聞いて、仙道の平坦な眉が少しだけゆがみを持った。






まるで偶然だった。と仙道は思っている。
懐かしささえ帯びるその日はまだ夏の中間地点で、珍しく休日で、珍しくバスケ部の何人かで
海の広く見える場所まで自転車を走らせた。
少しだけ憧れの、海の向こうを思わせる地上の空へと続く長い長い坂を、激しい大気に包まれて
ブレーキなど握らずに一気に駆け下りる。
まだ大人の階段を上りきってもいない彼らには、この吹き抜ける風になぶられる心地よさが
何にも勝る快楽だった。

「ひゅーぅ!!仙道!あっこ海で泳いでる奴らいんじゃん!」
「え、今日泳げるの?今涼しいぜ結構ー」
「それは俺たちがチャリで思い切り坂下ってるからだろ・・・」

屈託なく笑いながら越野は、自転車をガードレールに寄せつつ涼風に明るい声を乗せる。
見慣れないボーダーのシャツがアスファルトの坂を吹き上げる突風になぶられ、
まだ焼けきらない削げた腹を撫でていった。
無邪気な子供を感じさせる越野に普段仏頂面の福田も表情を和らげ、
眼下の深い青の平原に細い視線を飛ばす。

ただ自転車を並走させ、弄ばれ崩される髪を気にもしない。
目を開けていられない。
やがてたどり着いた湘南の海は光を無数に躍らせて眩しかった。

「ほらな。俺視力いいんだよ。泳いでたろ」
自転車からふわりと足を地面につけ、越野が大きな目を得意げに指差す。
「サーファーじゃんよ。サーファーは8月でも2月でもいるさ・・・」
福田は割とセンスのいいパーカーをたくし上げ、頬を伝う汗を拭った。

自転車を適当な位置に止めて、陽光をそのまま吸収したかのような砂浜に駆け出したくて
うずうずしている。
誰よりも自分が。と仙道は感じた。

「越野、福田、好奇心剥き出しはかっこ悪いぜ」
「んだと仙道ー!お前も好奇心と気まぐれの塊じゃねぇかよ」

越野がいち早く海岸の熱い砂に降り立ち、つまさきで熱い砂を蹴る。

仙道が穏やかに笑みつつそう言っても。
誰よりも自分が刺激を求めている。
安穏としてそれでいて激しい日常に、クセになるような毒を。

仙道の人生はそんなものだ。
かけた歯車でも、動くものは動く。




一瞬だけ空気に散った砂を虚ろな眼差しで見つめていた越野に、聡い仙道が気づかないはずがなかった。
鮮やかな夏。砂のように崩れ行く夏。巡る季節のたった一部。
純粋にただ輝きだけ求めて。それだけをもとめて今日、越野も福田も海に来たのではないだろう。
さらさらとした砂をかき集めて器用に城を創る福田の無表情に時々走る影。
ハーフパンツから伸びた細い足が散らす波の行方をただ静かに見据える越野の目。

語りたくても語れない、何から手をつけて何を解決すればいいのかも定かでない一夏の終わり。
暦上の夏はたしかにこれからが本番だったが、仙道達の夏はすでにひとつの結末を迎えていたのだ。
―――灼熱にも劣らなかったあの死闘で。

誰よりも優しく誰よりも大きな背中がなじみの体育館から去って行く姿をふと思い浮かべそうになって、
いつのまにか波打ち際にぼぉっと座り込んでいた仙道はふっと唇を緩い孤の形に歪めた。

だがそれも一瞬の事で。
気まぐれに逸らした視線の先に仙道は未来を見る。



限られた空間の中だがエースの名を冠する仙道は視力もそれなりにいい。
越野の大きな瞳も自分の少したれ気味の双眸にも同じだけの力はあって、それはありのままの世界を映し出す。

フィルムの中に表れたのは、目立つ長身の若い男だ。
遠目にもときおり蜂蜜色に輝く短い髪は印象的で、均整の取れた長い足はしっかりと
熱い砂を踏みしめ一歩一歩限りない青へと近づいて行った。
表情はここからでは読み取れない。
ただ少し、張り詰めた糸のような怜悧な雰囲気が、Tシャツとハーフパンツのラフな格好で
くるんでも隠せずにいた。

波打つ平原の手前で歩くのをやめて、両手を握りこぶしの形で固め、うつむき加減に
透明を射抜くように見つめる「彼」の正体を仙道はとっくに知っていた。
越野と福田はサーファーたちを見学に行って、広い海岸の端遥か遠くに豆粒で存在している。
まだ夏も浅く、空の色も薄い青が陽の光になお白く。
手のひらに張り付く温かい砂のベージュ色は肌の色とたちまち同化する。
視界を埋め尽くす海はどこまでも特定の色を宿さず―――

立ち尽くす彼だけ鮮明だった。



「―――ッ・・・」

縫い傷の残る顎の上の形良い唇は何といったのか。
嗚咽にも近い呼吸音だけ僅かに空気を伝わって仙道の聴覚に拾われる。
責めるように自身を震わせ、挑むように大海を照射する。
赤と黒の派手なユニフォームをそのまま体現したような激しい感情を知らず放つそのヒト。
やがて彼はゆっくりと身体を弛緩させ、つま先を翻し視界を彼方から引き戻した。

目をそらさないのは偶然だった。
目をそらせないのは必然だった。

視線がかちあっていることに気づいたのはどちらが先だったか。
少なくとも仙道は鮮やかな鳶色が瞳の色だと最初気づかなかった。
「陵南の・・・仙道・・・?」
何かをかみ殺していた唇が初めての羅列を発音し、その名を冠する仙道もまた心の中で
全く同時に彼の名前を見つけていた。
三井―――先代が遠くない過去何度か呟いたそれがそのままで再生される。


「・・・やぁ」
何が適切な言葉だったのか知らない。
ただ僅かに苦笑をかたどって呟かれたその台詞に、年上の他校の青年も同じ表情で返した。
「・・・よぉ」


凛々しい眉を下げて笑うその表情が今にも泣き崩れそうに見えたので、
柄にもなく仙道は束の間緊張した。
自分に苦手なものがあるとすればそれは田岡監督の小言と目の前でいきなり泣くガキだけだ。
あと甘いものも少々。

しかし「敵」にいきなり無防備な自分をさらす人間がいないように、彼もまた一人の人間であり
男であり少年であり青年だった。
ざっと重い音をたてて、三井は仙道に近づいた。

「サボりかよ。余裕だな」
「違いますよ。今日はオフ。あっちに越野や福田もいるよ」
「ああ、ガードとフォワードの2年か」
「そ」

もう微塵も弱さは見せない。
顔立ちは整っているが、にやりと笑うと本当に性格が悪そうに見えると仙道は思った。
上目遣いに眺めても美人なのが、美人が美人である絶対条件だ。斜に逸らすシャープな顎線がキマっている。
きっと不器用な感情表現で損をするタイプだと勝手に結論付けて、その発想の飛躍にクスリと笑った。
三井は怪訝そうな表情で仙道を見つめ、それからまた仙道の好きな角度で海と空の境目に視線を投げた。

「お前が丸ごと欲しいよ」
三井がそのまま呟いて、仙道は再び緩慢に視線を上げる。
三井は彼方を見たままだった。
「何事も努力が最終手段だろ?それでも敵わなかったら俺はまいっちまうから、まずお前が欲しいぜ」
自嘲気味に笑う。強い光を放つ眼球をまぶたの奥に押し込める。
仙道は三井を見上げたまま真顔で返答した。

「俺の才能は俺だけのものです」
「・・・だからきっと欲しくなんだろうなぁ」

そのあと低い声を潮風に混ぜて、屈託なく笑った無邪気な顔は網膜に深く刻まれて当分追い出せそうに
なかったと仙道は記憶している。

そんなに綺麗に笑えるんじゃないか。
仙道はジーンズについた砂を落としつつ立ち上がった。
滅多にお目にかかれない長身と髪型が三井の前に立ちはだかり、あっという間に視線の位置が逆転する。

「確か明後日っからインターハイっすね」

仙道はこの台詞に含むべき感情を結局見出せなかった。
平坦な声に三井はきゅっと唇を結んだ。




「・・・俺は別にいいんだけど。あんたと話してると友達が嫌がるかもしれないから場所変えません?」

仙道は軽く言って後方を少しだけ振り返る。
砂の丘の上に放置されたテトラポットの上に腰掛けて沖から高い波が押し寄せてくるたび
挑むサーファーたちに、ただ焦点を合せている越野と福田が粒子で見てとれた。

「俺はてめぇと話すことなんてなんにもねぇよ」
数週前の試合でも発揮された口の悪さは相変らずだ。
腹が立たなかったといえば嘘になるが、それでも仙道は不機嫌なセンパイに微笑んだ。
「じゃあ俺があんたと話したいということにしましょう」
「何でそうなんだ・・・」
美形を歪ませる三井のすらりと伸びた腕を、逃げる前に仙道は捕らえた。
痕がつくほどでも構わないと勝手に判断して、手首を締める指に力を込める。
三井の顔が今度は苦痛に歪んだ。

「離せよ・・・」
「俺には権利があると思うんですけど。いきなり現れていきなり無防備さをひけらかして
いきなり冷たくされて・・・黙ってそれに流されてるのは面白くない」
―――しかもこんな時期に。
「ヤロウ・・・」
三井はぎっと歯を軋ませながらも不敵に笑い、手首を返して仙道の指をふりといた。
そのまま波に背を向けてアスファルトの世界へと歩き出す。

「で・・・どこ行くんだよ。話すんだろ」
「そうすね。涼しいところがいいな」
「越野とやら達に言ってこなくていいのかよ」
「俺が海の底や悪いヒトに攫われそうに見えますか?」

仙道が肩を並べてそう吐くと、三井は印象的な瞳を仙道のそれに合わせて、
初めて見せる穏やかな笑みで応えた。その表情はしょうがねぇな、とも読めたが。


潮の匂いが彼方へ過ぎ去り午後を連れてくる―――


仙道の、常に前を歩く長身。
メイプルシロップをかき混ぜたような色の瞳。
傍若無人な表情と声。
震える後姿。
何にこんなにも惹かれたのかはもう忘れてしまった。
しかし確かにこの日出会った三井寿という人間は毒にも薬にもならなかったクセに仙道に沁みいたのだ。




「・・・涼しいところって発想からまず最初に“山”が出てくるてめぇが素敵だよ仙道」
「野生児なモンで。てゆうかあからさまに皮肉ですね。まぁいいけど」

ひょうひょうとして捕らえどころのない仙道を、三井は尖った目つきでねめつけ、
彼のものらしいメタリックなMTB(仙道のはブレーキに錆びの浮いたママチャリだった)
を補整されていない山道の入り口に停めた。長い足と小さなヒップがサドルを跨ぐ。

「・・・あちぃじゃねーかよ・・・」
三井の不満げな声が表した通り、標高が高いとは言えない山は風がない事もあって
海よりも湿気と熱を皮膚に感じさせた。
「今日は風がやんでしまったみたいですね。いつもはなかなか避暑地なんすよこれでも」
自転車で大坂を下り降りた時刻とはもう比べ物にならない熱さは、さすが夏と言うべきか
自分の認識の甘さを憂うべきか。
仙道の肩を竦める仕草に三井は眉をぴんと跳ね上げた。
「いつもって・・・結構来てるのか」
「通学路に近いですから。来ようと思えばいつでも来れる」
答えになっているのかなっていないのか。
仙道はそう呟くと山道に落ちるまばらな小石を踏みつつつま先を反転させ、再び自転車にまたがった。

「喫茶店に行く金はないし。どうしよっかな。俺んち来る?」

視線を宙に彷徨わせいきなり仙道がした提案に三井は目を見開いた。
あけすけにも程がある。

「あ、あのな。俺らはほぼ初対面なんだぜ!?しかも敵校の!」
「知ってますよ。あなたは湘北高校の3年ですし、俺、あなたの下の名前も知らない。カエデでしたっけ?」
「バカヤロウ!そりゃ流川だよ!!」
「ハハハ。流川、カエデっていうんだ。すげぇ名前・・・」

本題から逸れてさらに発展を遂げる話題(桜木花道・および彼が付けるあだ名の酷さ・マネージャーの
名前の話題など)に三井が脱線にようやく気づいた頃には、高価なMTBも廃棄物寸前のママチャリも
街外れのボロアパート前に到着したところだった。
太陽はすでにかなり地面と近づいており、空の色も濃さを滲ませてきた。

「失礼を承知で言うけどよ。山小屋か?」
「はっはっはっ。さっきの山にある山小屋よかは少々マシなんですよこれでも」

2階建ての木造住宅は、確かに周り数百メートル田園地帯しかないこの風景によく似合っていたが、
長身のハンサムな若者2人は見事に風景に溶け込まず浮いていた。
げんなりと億劫そうに歩く三井を一部屋の主人である仙道が誘導し、物干し竿も麻縄で区切られただけの
駐車場も越えて一階の3部屋のうちの一部屋の前に立った。
「ここ他に誰か住んでんのか?」
「1階は俺だけです。2階は大学生のお兄さんがいますよ。今いねぇみてーだけど」
鈍い音を立てて開け放たれたドアに2人の長身が滑り込み、共に少しだけ生暖かい空気が
束の間部屋の中の蒸し暑さと交換された。
「・・・邪魔するぜ」
「三井さん育ちがいいでしょう。何となく」
意味のない会話を並べながら、仙道は慣れた仕草で靴をそろえ電気を付け、裸足で畳に長い足を乗り上げる。
間伸びた「どうぞ」の声で、三井もぎこちなくそれに倣って仙道の「家」に足を踏み入れた。


仙道の膝ほどの高さしかない冷蔵庫から麦茶の350ミリ缶が出てきて、長い指によって
それはちゃぶ台に並べられた。

「はい、どーぞ」
「どーも」

仙道の間伸びた声に三井はそれに手を伸ばす。ついぞ湘北ではお目にかかれないぎこちない会話に、
三井は自分のペースが乱されっぱなしで困惑しているようだった。
それを仙道が少し楽しんでいるということは、三井は気づいていない様子であるが。
しばらく冷たい液体を少しづつ嚥下して、静寂だけがこの狭い部屋に満ちている状態が続いた。
もともとの光源が微妙に暗いせいか、この部屋は外よりも少し時間が経過しているように思えた。
この日の夜が来て日付が変わり、もう一度太陽が昇ればもう目の前の青年はこの地にいてはいけないはずなのだ。
仙道は軽い音を響かせて、空になりかけの缶をちゃぶ台の上に置いた。

「・・・海や山はいいですよね。俺は学校や体育館や街やビルや本屋も好きですけど、なんでかな。
気づくと海か山にいるんですよ」
わざわざ数少ない休日に疲れるとこ行かなくてもいいのにな。と仙道は笑って言った。
三井は仙道を悪そうな目つきで見つめてから、ふっと息を吐いて缶を下ろした。
「なんとなくわかる・・・かもしれねぇ。中途半端に狭いところや広いところにいたら腐ってくばかりだ。
自分が小さく見えるところで初めて、自分がちったぁ愛しく感じられるもんだ」
三井が少し遠い目をして語るのを聞いていた仙道は、構わずそれに続けた。

「そーゆうもんでしょうね。でも今のあんたの話じゃあ、三井さんが今日あんな表情で
広い海を見ていた説明がつかない」
我ながら生意気な発言だと仙道は思ったが、三井は少し眉を跳ね上げただけでいたって冷静に仙道を見返した。
彼の仲間とのやり取りを見て、もっと感情派だと思っていたのだが。
「・・・あんなってどんなだよ。そんなに凄い表情で見てたか俺?」
「なんかの映画の撮影かと思うくらいにはナイスアクションでした」
仙道の台詞に顔を引きつらせるくらいには三井も自覚していたようだ。
しかしそれはすぐに自嘲にとって変わられ、仙道と三井がコート上で最後に会ったあの日の気迫とは、
比べ物にならないほど弱さを露呈していた。




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変なところで続いてすみません・・・季節も乗り遅れております(爆)