*日付の変わる頃、踏み切りのあたりで*


   日はまだ中天にある。けれどそれは果てしなく遠く、そして冷えていた。  

  「明日っから決勝リーグですねぇ〜。両校のエースがいきなりボイコットしたら
  困るでしょうね」
  「・・・お前と流川が?」
  「いや、俺と三井さんに決まってるでしょう」
  「・・・バカヤロウ。うちのエースは流川だ・・・」
  「貴方のそうやってわきまえてるトコ好きですよ」
  「・・・っち」

   からかわれた事を悟った三井は軽く舌打ちすると、持っていた缶コーヒーの
 プルトップを苛立たしげに引き開けた。
   そしてすぐ、仙道がその熱を持った缶を物欲しそうに見ていることに気付く。
 
  「三井さん、それくれない?喉渇いたなオレ」
  「・・・ほらよ」

   まさしく冷めた唇を小さな缶に付けようとした瞬間、横から伸びた大きな手に
  それは攫われた。
   三井の薄い唇は冬の寒さに負けたまま、隣りで香ばしい液体を体内に流し込む
  男の名を呼ぶ。

  「仙道」
  「・・・何?」
  「・・・いや」

   大き目の薄手のウインドブレーカーに身を包んだ三井の下が、いつもの湘北の
  ユニフォーム1枚だということは知っている。
   仙道は無関心に三井を一瞥しただけで、軽くなった缶を道路の向こう、真正面にある
  自販機横のくずかごに向かって放った。コッという僅かな音を空気に伝え、それは吸い
  込まれる。

  「マジでいなくなったらどーすんのかな?」

   仙道はそう言ってクスクス笑い、腰掛けていたコンクリートの壇から立ち上がる。
  ジーンズに包まれた足が彼を追う三井の視線を遮り、温かそうな生地に覆われた腕が
  三井を冷たい地面から無理矢理引き上げた。

  「それとも、シューターが試合後に風邪引く方がマズイかな?アンタ恨まれるよ。役立たずって」

   本当に面白そうにまなじりを下げる。その仙道に対する三井の表情は、冬の選抜、準決勝の
  試合が終わってここに駆けつけてから今まで、笑みに相当する感情を湛えたことはなかった。

  「試してみない?俺たちの価値」

   限界まで冷えた節高い指先を愛しそうに自分のそれに絡め、仙道は三井の耳元で柔らかく囁いた。
   そして近くコンクリートを叩く足音が聴覚に認識されると、つと殆ど密着していた身体を離す。
  暖房装備を万全にした母子がすぐそばを笑いながら歩行し、そして過ぎていった。
  彼らが線路の向こうに消えた後、踏み切りの警報音が鳴り始める。

  「・・・何のつもりだ?」

   凛々しい眉の下意志の強そうな瞳が仙道の顔を映し、静かに問い掛けてくる。
   いつか見た、濡れて艶を持った赤い唇も良かったが今の青褪めた唇も白い肌に相成って綺麗だった。
   人なんて生き物じゃないみたいにストイックに見える。
   
  「だから、明日の決勝リーグ緒戦陵南と湘北ですよね。逃げちゃいません?
  ドラマみたくどこか遠くへ」
  「バカヤロウ。んなこと出来るわけねぇだろう。第一なんで・・・」
  「見たいんですよ。俺ナシでチームがどこまで行くことができるのか」

   僅かに目を伏せて、仙道が呟く。サイレンと電車の通過する音に被ってもその声は印象的だった。
   優しくて。

  「ナメてんのか。魚住もいねぇし、お前までいなかったらやべぇだろう」
  「ナメてんのは貴方達の方では?いつまでも俺が主力のチームと思っていたら足元掬われますよ」

   仙道は三井の台詞をハッと嘲笑に伏す。昼過ぎでも一向に温かくならない空気に、
  一瞬の霧が散った。三井は苦々しい表情を隠さなかった。
   寒くないはずはないのに身のうちは熱く、剥き出しの細い足は感情に反して微動だにしなかった。

  「三井さん達が山王さん達とバトってた間、こっちも結構死闘だったんですよねー。
  もう練習試合百人斬りとか・・・ってこれは冗談ですけど」
   何が面白いのかと三井は憮然とするが、仙道は幸せそうに目を細めつつ三井の肩に馴れ馴れしく
  腕を回しくるりと反転して踏み切りに向かって歩き出した。
   誰に見られているかも知れないのに・・・と三井の心臓が跳ねる。せわしなく視線を四方にやる
  青年に、仙道は嫌がらせのように更に長身を密着させた。

  「越野なんてねー凄いっすよ。3Pシュート毎日9時まで打ってんすよ。福田はディフェンスの
  練習かな。あいつと1on1したら5回に1回は素で抜かれちまうし。一番アツイのは監督だけど・・・」
   仙道は本当に陵南が好きなのだろう。聞いてもいない三井に楽しそうに誇らしげに語る。
  そんな仙道は悪くなかった。年相応に無邪気で可愛い。そう思ってしまうのが年上の三井の弱さだった。
  「彦一はうちの自慢の1年生。結構何でもこなすんだ。宮城みたいに器用になってくれるといいね。
  あ、宮城元気?相変わらずデータ収集にも余念無いし、俺も三井さんのことで結構助かってるなぁ」
   仙道が述べるうるさい1年の所業に三井は肩を落とした。
   一体いつどんなデータを取られているのだろう。少なくとも一昨日換えた携帯電話の番号がバレている
  のは、試合が終わって速攻呼び出されたことでわかる。
   『今すぐに、逢いに来い。陵南高校の踏み切り前で待っている』  

  「・・・彦一の情報網に俺たちの関係流します?『俺と三井さん付き合ってま〜す♪超ラブラブ』」
  「やめんかっ!」
  「あ、電車来るみてぇ」

   頬を紅潮させ睨みつける三井の眼光を難なくかわし、仙道は鋭い音と空気を震わせ降りてくる
  遮断機に興味をやった。
   電車の姿はまだ見えない。
  
  「ここで心中するのもいいかもですね『2人の美男バスケットマンの赤裸々な関係。決勝戦前日
  悲恋の末大心中!?』なんていかにも東スポの一面飾りそうな文句じゃねぇ?ちょっとチープか」

   いうやいなや三井のひょろりとした長身を線路に向かって突き飛ばす。
  限界まで双眸を開き心底仰天した表情で刹那声にならない悲鳴を上げた三井を、遮断機の向こうに
  倒れこむ寸前で仙道は捕らえた。長いウインドブレーカーのフード部分をひっぱった為、ずるりと
  三井の肩が剥き出しになる。赤いユニフォームに良く映える白い肌。いい眺め。

  「てめぇ仙道!!何しやがる!!」
  「って!!」

   振り向き様三井は思い切り仙道の頬を平手で張った。薄紫色の唇で荒く息を吐く。
   しばらくそうしてからふと気付いたように乱れた防寒具を引き寄せた。
   仙道は赤味を帯びた頬を撫でさすっていたが、痛みが退くとその手を静かに下ろした。
   対称的に轟音が彼らの背後を、風を引き連れ通過していく。髪を揺らす、微かな余韻を残して。

  「すいません、悪ふざけが過ぎましたね。殺しちゃ貴方で楽しめない」
  「楽しめないって何だよ!」
  「そのまんまの意味っすよ。そこそこ強くてそこそこ弱い、生きている貴方の方がずっと楽しい」
  「お前を楽しませるために生きているんじゃねぇよ!!」
  「そりゃ残念」

   腹の底から怒鳴ってから、三井は背を丸め口元に手を当てて咳き込んだ。指の隙間から
  白い息が漏れる。
   仙道は苦笑して、三井の背中をさすりに行った。骨の形が感触でわかる。薄い。服も肉も色素も。
  
  「冷たいなぁ・・・大丈夫?マジで風邪ひいてるんじゃないすか?だとしたら、明日ラッキーなんすけど」
    
   優しい顔で、酷い事を言う。他の者が周りにいたらそんな仙道を諌めずにはいられないだろう。
   しかし今だけこの踏み切り前はたった2人の世界だった。
   その世界の住人はそんな無駄なことをしない。

  「うるせぇ・・・俺は明日も出るぞ。何のためにここまで残ったと思ってんだ」

   眉間に皺を刻み息を整える。まだ背中にある仙道の大きな手を三井は身を捩って解いた。
   仙道は行き場をなくした手をひらひら振るとそのままボアの中に突っ込み、まだ上がり切っていない
  遮断機を跨いだ。三井の静止の声などもちろん聞かない。

  「それじゃあ面白くねぇなぁ・・・若いモンに任せようぜ明日は・・・」

   少し困ったように虚空に視線を投げると三井が仙道を追ってきた。もう電車は来ないらしい。

  「マジで出ねぇつもりかよテメェ。バスケ嘗めてんじゃねーぞ!」
   
   正面に立ちはだかり胸倉を掴みあげてくる三井を数秒見つめ、仙道はふいと視線を逸らした。

  
  「あなたは何で出るんです?あなたもう明後日にはいないのに。ここまででしょうが高校バスケ」

   
   拳の力が少し緩んで仙道はほっと息を吐いた。三井の精神より自分の身の安全のほうが大切だった。
   だって明日も試合あるし。
   口だけならなんとでも言える。三井との会話は面白い。自分が勝つから。
   自分の思い通りになるから。

  「あなたよか控えの子ぉ色々出して、公式試合に慣れさせとくほうがいいと俺思うんですけどね。
  これからの為には。どうせ今回は海南か翔陽だろ。3年全員残ってるし。
  それ以外は・・・敗者に順位はない」

   仙道は首もとの冷たい指を丁寧に剥がし、包んで息を吹きかけた。
   その仕草に三井は動揺したらしく素早く両手を引っ込める。
   仙道の優しさには慣れていなかったから。

  「だからさぁ、明日俺んちでメシ食ってプレステして夜まで爆睡してましょうよ。
  簡易ランデブー。人間休息も必要ですよ。走ってばかりじゃ疲れるでしょう」

   この台詞は“俺と”と言わないのがミソ。
   特に湘北は春から爆走してたからなぁ。ここらで一端ブレーキ踏まないと、いざ事故った時に
  ダメージでかいよ。と仙道は続けようとしたが何となくやめておいた。
   代わりにひょいと三井の手を取り、ガードレールの向こうに広がる海に平行に沿って歩を進めた。
   長身痩躯がそれに従う。

  「・・・でも俺は行くぜ。俺の能力も考えて宮城とメニュー組んだんだ。2度とみっともねぇ
  負け方はしねぇと全員で誓った。俺たちは負けない」

   背後から深い声。バスケに関してはとにかく前向きな彼が大好きだ。
   自然に仙道の唇が緩く弧を描いた。

  「宮城と仲いいんだぁ・・・妬けるな。三井さん誑し込んで手錠でベッドに繋いで
  明日の朝そんなあなたに『行ってキマス』って手ぇ振って俺だけ試合行こうと思ったのに」
  「・・・根性腐ってんなお前。やっぱり出る気だったんだろうが」
  「あたり前だろ。それに俺あいつらのために流川抑えないと。後は皆頼りにしてるし。
  桜木の復帰も楽しみだし、宮城の成長も楽しみだけど、あなたはいらない。先が無いから」

   仙道はそこまで言って「あ、大学とはまた別の話ね」と笑った。
   海岸を囲んだ白いガードレールとカーブを描いて消えてゆく車道に映えてその笑顔は鮮やかだった。
   三井もそれに応えて皮肉げに笑おうとしたが、上手く表情が作れなかった。

  「帰るぜ仙道。マジでやべぇ」

   陸と海岸を隔てるガードレール沿いを数歩も歩かぬまま、三井は仙道からするりと手を離した。
   
  「ふうん?」

   仙道は特に反応も示さず振り返りもせず、ただ歩いていく。
   三井は立ち止まり、誰が見ても辛そうに見える顔を瞬伏せ、そしてまた仙道の後を付いて歩き出した。

  「帰るんじゃなかったの?」
  「・・・帰れねぇ」
  「道忘れたの?それとも試合前日に相手高の奴とつるんでるのが後ろめたいすか?」
  「・・・後者はあるな」

   三井は自嘲気味に微笑んだ。人生諦めきった大人のような表情を、この人が頻繁に晒すようになった
  のはいつからだろう?仙道は振り返り不思議そうに三井を眺め、すぐにやめた。

  「俺と別れがたいですか?」

   しゃりと軽い砂の音を立て、仙道は三井の正面で静止した。
   仙道から見た三井は酷く頼りなく見え、所々から覗く肌の白さに比べ、頬の辺りと目の淵には赤味が
  射していた。ひと目で熱を持っているのがわかる。
   仙道は三井の鋭角的な顎からそっと頬に向かって手を這わせた。

  「熱いな・・・マジで明日やばくない?」
  「だからヤバイって言ってんだろうが・・・もうすぐ宮城との打ち合わせもあるから・・・」
  「じゃあ海行きましょう海。冷やさなきゃ」
  
  「―――っ仙道!!止せ!!やめてくれ!!」

   仙道は恐ろしいほどの力で三井の足を抑え、間を置かず肩に担ぎ上げた。
   三井の頭はぐらっと仙道の背中で揺さぶられ、衝撃で脳を走る痛みに息を呑む。
   三井が呻き声を上げ額に手を当て苦しんでいるうちに仙道はガードレールの切れ目を見つけ、
   そこから潮騒の方向へと導かれていった。
   柔らかく細かい砂の僅かに湿った波打ち際でようやく歩を止める。

  「冬の海っていうのもなかなかいいですね。泳げやしないし寒いけど」

   仙道は三井を肩に下げたまま、気持ちよさそうに深呼吸をした。忘れていたかの如く今になって
  身を捩る三井を、その形良い尻を叩くことで黙らせる。
   プライドの高い彼にこれは屈辱だろうとほくそえみつつ。
   するっと骨ばった身体を滑らせ、仙道は三井を横抱きの状態にした。
   案の定炎のような瞳で射貫かれる。
  「さっきのように突き落とすつもりだろう!!そうは行くか!!」
   三井は怒鳴り終える前に長い指で仙道の肩を鷲掴んだ。
   そのままひゅっと器用に足を仙道の首にかけると、そのまま仙道の背後にハードル跳びの
  要領で着地する。
   瞬間ふらっとよろめいたのは地盤のせいか熱のせいかは知る由も無いが。

  「うまいこと逃げられたなこりゃ。思い切り遠くへ投げ飛ばそうと思ったのに。
  水に濡れるとエロいですよね」

   標準装備の笑顔を張り付かせながら、仙道は蹲る三井の方へ身を翻した。
  試合の時のようにせわしなく呼吸を繰り返しながら三井は膝を曲げたまま仙道から距離を取った。
   さら砂が風に舞い海へと吸い込まれてゆく。

  「帰るんだ・・・宮城が待ってる」
  「じゃあ何でココへ来たの。湘北の三井サン」
  「お前が呼んだからに決まってんだろ」
  
   仙道は苛立たしく嘆息した。どうしてこの人はそんなしょうもないことをこんな真っ直ぐな
  視線で告げるのか。
   考えるのも馬鹿らしく仙道は頭を振った。
  
  「俺より、宮城や流川と試合に出る方がたいせつなんだろ?だったらとっとと―――」
   帰れ―――
  
  「比べる次元が違うだろう・・・」

  「いいや、一緒です。彼ら仲間も恋人の俺もおんなじオトコですから」

  「お前とは比べられるか・・・何で俺が最後の試合に出るのか教えてやろう。あいつらが好きだからだ。
  頼りにしてくれて感謝してる。そして、こんなことあいつらには言えやしねぇけど、お前になら
  言える。お前は俺の中でそういう存在だ」

   仙道の表情が一瞬、今にも泣き出しそうに変化したのが三井にわかっただろうか。
   それは確かに一瞬のことで、仙道はまた冷淡な微笑で三井を射抜いた。
   心の最奥を悟らせないために。
   仙道は怖かった。この目の前の男が。粗野な彼の自分に対する優しさが。
   そう遠くない未来、自分に確実に訪れるビジョンを想定して。
   
   
   あまりにもめまぐるしかった初夏の記憶が潮騒も目の前の光景も全てを遠くに追いやった。

   
   
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