*日付の変わる頃、踏み切りのあたりで・2*

  

   時を感じさせなかった湘北との死闘の後、あっけなく決まった自分のバスケ人生の残り時間。

   突如気付いた視界の違和感に軽い気持ちで病院を訪れ、そして知ってしまった。
   近い将来、自分が光を失う―――目の病気に罹っているらしいこと。
   つい医者と母の深刻そうな会話に耳をそばだててしまったことから、俺の世界は一変した。
   背後に呆けた表情で佇む自分を見て、母が卒倒したのと、医者がそれを受け止めようとしたのと、
   待ちなさい!と高い声を上げる看護婦の焦った表情が網膜に焼きついている。
   いつかこの情景も闇に閉ざされる日が来るのだ―――

   薬剤の匂いのする清潔な白い部屋の並ぶ廊下を何かに追われているようにただ走る。
   渋面を隠し切れない医師。卒倒した母と慌てる看護婦。そればかり記憶の中で再生される。
   とにかく俺は逃げた。何事かと叱責を飛ばす医者も、悲鳴を上げる看護婦も振り返らずに。
   ・・・否、逃げ出そうとした。

   「仙道・・・?」
   
   長い廊下の途中、聞き覚えのある声に呼び止められたので。

   ああ、なんてことだ。どうしよう。止まってしまったから追いつかれる。
   20点差のゲームでも、あの全国を賭けた湘北戦でもこんなに動揺したことはなかった。

   明らかに様子のおかしい俺にその声の主は怪訝そうに近づいて来る。それにも身体が勝手に跳ねた。
   確か3Pシュートを綺麗に打っていた腕が自分のそれを捕らえた。少し低い位置にあるはずの顔を
   上目遣いに震えながら見上げた。すっと通った眉に形の良い双眸。顎に浮かぶ古傷。
   やっぱり自分はこの人を知っていた。
   まだ知られる準備も出来ていないのに、知っている人間に逢ってしまった。
   ああ、何言ってるんだ俺・・・

   「せ、仙道?どーしたんだオイ!?なんか顔色悪いぜお前・・・」

   確か一つ年上だったその人物は、頭を抑え長身を曲げた俺を包み込むようにして支えようと
   両手を伸ばした。俺の腕より幾分骨ばったそれは温かくて、母に抱かれる幼児になったかの如き
   錯覚をさせる。僅かに俺の心音が落ち着きを取り戻した―――
   
   「仙道彰君!!」

   しかし―――
   自分の名前を連呼しながら早足で近づいて来る誰かの―――多分、担当の医師の―――
   姿に俺は再び恐慌状態に陥りそうになった。身を屈め、目の前の男に抱きついているせいか、医師は
   俺のいる廊下と垂直に交差する廊下をそのまま気付かず横切っていった。
   この廊下には部屋が2つとトイレしかなく、人気が無かったのも幸いしただろう。
   遠目に抱き合っているように見える患者を、孤独に飛び出していった仙道彰だなんて誰が思うものか。
   骨ばった指に肩を抱かれて、俺は低く笑い声を洩らした。
   しかし見つかるのは時間の問題だろう。

   「仙道・・・さっき医者が呼んでたのお前じゃねーのかよ?行かなくていいのか?」
   「・・・・・・」
 
   年上の男の言葉に焦燥が募る。わかっている。そんなことはわかっている。
   だが、俺にあえて絶望を味わいに行けと?俺にとっては死の宣告にも等しいそれを聞きに行けと?
   俺は軽い『検査』のような気持ちで診察を終え、その後には越野の家にビデオを借りに行く予定
   だったのに?
   こんな予定なんて、無い。
   医師と母との間に流れる会話の雰囲気は『治療することができる』といった雰囲気ではなかった。
   もうバレた以上医師も余計な隠し立てをする事もないだろう。
   俺を椅子に座らせて、白い壁紙の貼られた無機質な空気の部屋で、こう始めるのだ
   「落ち着いて聞いて欲しい」と・・・

   そしてそこから俺の孤独な戦いが始まる。
  
   チームメイトに悟られたら、もうきっと本当の意味での笑顔は誰も向けてくれないだろう。
   そして代わりに傷口に触れるような痛ましい視線を微笑の中に紛れさせるのだ。
   そんなことは耐えられない。仙道彰として。
   だから『その時』が来るまで絶対に隠し通さねばならない。1年―――あるいはもっと近く。
   俺が光を失うその瞬間まで・・・なのに。

   「あ〜っ、しっかりしろい!熱はねぇだろ?なんだって外科に用のある俺様が・・・」

   こいつが・・・こいつが俺の人生に登場してしまった。俺が医師に捕まったら、きっとこの人は
   確信するはずだ。『仙道なにか病気持ってんのか?』と―――そう悟ったら病名もなにもかも
   きっと早い段階に知れ渡ってしまう。

   『天才:仙道彰は近い将来失明する』

   自分で文章を組み立ててゾっとした。そして仙道を支えながら医師を呼ぼうとする男にさらに
   ゾッとする。ヤメロ―――!!

   「俺が付き添ってやっから医者んとこ行くぞ、オラ。取り返しのつかねーことになったら
   どうすんだ・・・」
    
   その後にも何か続きそうな気はした・・・だが俺は、バスケさながらの敏捷さで彼の口を左手で覆い、
   右手で彼の身体を抱きすくめると人目に付かないうちにトイレの個室に無理矢理引きずり込んだ。
   
   
   「逢ってしまったからには・・・」
   震える声で言い訳のように呟きながら、長身の男2人でスペースの埋まった個室の鍵を
   後ろ手に閉めた。無機質なその音に、されるがままになっていた男が抗議の声を上げる。

   「うるさい。黙って―――」
   誰かに気付かれたならここでこんなことをしている意味がない。こいつには“共犯者”になって
   もらうしかなかった。お互いの最も奥の“秘密”を共有しあうのだ。
   そして誰にも明かさないと絶対の秘密を約束させる。
   ―――この人の“秘密”は今から俺が作る。

   「逢ってしまったからには・・・」

   鳶色の瞳に青い炎を湛えた虚ろな男を写しながら、目の前の青年の顔が歪む。恐怖の表情に。
   「仙道!?」
   その叫びを契機に、俺は精一杯の握力と腕力で彼の肢体を壁に押さえつけると、清潔そうな
   ワイシャツを片手で引きちぎった。ボタンが床にぱらぱら弾け、僅かな繊維が便器の上に落ちる。   
   露わになった均整の取れた肉体が妙に官能的に映った。

   「ちょっと地獄まで付き合って貰いますよ三井さん・・・」
   狂気の笑みすら浮かべて。俺は引きつった三井寿の表情を構成する唇に噛み付き、そして
   一つ一つを奪っていった。
   眼科医が放送で、俺の名前を呼んでいた。


   そこから仙道彰のバスケ以外のもう一つの生き方がスタートした。
   それを良い言葉で言い換えれば“生きがい”という・・・


   仙道は三井の所持品から彼の住所を記したものを見つけ出すと、トイレのそばの窓から
   外界に脱出した。さすがに行為後のあられもない格好を人前にひけらかすわけにはいかず、
   三井には仙道のパーカーを羽織らせてある。
   三井寿―――誰かがフルネームで呼んでいたので自分も覚えてしまっていた。
   彼の意識はあるようでない。荒い息を吐いて潤みを持ったはれぼったい瞳は生気を持って
   いたが、極度の疲労のため意識を捕まえているのがやっとのようだった。 

   
   「超すみません・・・」
   ぽつりと仙道の口からそれだけ漏れた。三井はせわしい呼吸の下、笑った。
   「・・・なんだよ、それ・・・」
   「俺の申し訳ない気持ちです。とんだ災難でしたね・・・」
   「ああ・・・災難・・・だぜ」

   先刻から仙道と三井の役割は全く逆転していた。抱いてみて案外細く感じられた長い肢体を
   左半身で支える。肩口に感じる吐息の熱さが情事の名残を彷彿とさせ、頬が勝手に血を上らせた。
   三井は言った。

   「災難だったが・・・これで俺も、お前のこと、詳しく知れるんだろ?」

   身を潜めた病院敷地内の植え込みが音を立てるのも気にせず仙道は三井を振り向いた。
  膝が植木にあたったのだ。しかし三井は掠れた低い声で続けた。

   「さっきのアレじゃあ・・・フェアじゃねぇだろうが。
   あんなことした、理由と原因を、聞く権利くらい、くれ」   
      
   ―――地獄まで。付き合わせてもいいのだろうか?

   「・・・なんかあの時、ほっとけねぇと、思ったんだ。誰かに・・・似ていて」

   それは誰だろう?そのコも何かしらの障害で挫折を経験したのだろうか?しているのだろうか?

   「・・・いいんですか?言ってしまって」
   「言えよ。俺は先輩なんだから。高校は違うけどな」

   色を失った鋭角的な顔に不敵な笑みを浮かべる彼は、自分の知っている先輩とはまた違った
   強さを持っていると確信した。自分が酷く頼りない存在に思えるほどに。

   「三井さん・・・俺―――」   

   

   この時おそらく初めて、仙道は他人を心から頼った。
   そして後に、かの人の強さと優しさに、戦いに疲弊した心が付けこむようになる。
   三井に感じる嗜虐心と愛情は表裏一体だった。
   そのまま季節も巡り冬が訪れた。最近とみに視界の違和感は酷くなった。


   
  「帰ろうぜ仙道・・・俺がお前を置いて帰れるわけねぇだろう」

    
   過去に想いを馳せていた脳が、その声で現実を認識した。一瞬暗くなった視界が徐々に晴れ、
  最も愛しくてそして憎い男が姿を現した。

  「・・・保護者みたいですね三井さん。すっげぇ老けて見えるな」

   ふっと眉を下げて仙道が笑い、自分に伸ばされた腕を取った。三井は何も答えず表情も動かさない
  まま、案外頼もしい握力でもって仙道を再び車道に立たせた。そして仙道をつま先から頭の先まで検分
  するように眺めると、片方の眉を歪めて服についた砂を払い落とした。
   
  「・・・酷いこと言ってももう傷ついてくれないんですね・・・」

   歩いて。先程身を寄せただけでも辺りを憚っていた三井は仙道の手を握り締めながら、
  誰とすれ違おうとも堂々とした足取りで、陵南高校前の駅まで彼を引っ張っていった。 
   
   そして、仙道を振り返ると三井は印象的な両眼を瞼に隠し、ふいをつくように唇を合わせてきた。 
   その柔らかい質感に驚き、思わず仙道は辺りを見回す。
   駅前のロータリーにたむろするまばらな人々は誰も自分達に注意してはいないようだった。
  
  「・・・保護者とこんなことはしねぇだろう。安心しろよ」

   そして三井は挑戦的に唇だけで笑った。コート上でよく見る彼の顔だった。
   明日は俺たちが絶対勝つ。と言い残し、身を翻して駅構内に消えていこうとする三井を仙道は
  衝動的に捕まえた。

  「三井さん!今日の日付が変わる頃、さっきの踏み切りのあたりに来てください。待ってます―――」
  「お前何言って・・・」
  「待ってます。来てください・・・」
  「・・・・・・ちゃんと帰れよ。仙道」

   三井は仙道の台詞に答えずにアイスブルーのブレーカーを靡かせ行ってしまった。
   しかし仙道は確信していた。

   ―――あの人は絶対来るだろう。と。

   自分が何をしたいのか。何をめざしているのか。仙道はもうわからなくなってきていた。
   彼を振り回しているようで、振り回されている自分にもう気付いている。
   コートに突っ込んである携帯電話で時間を確かめ、駅から徒歩5分のところにある自宅へと
  向かい駅に背を向けた。

   
  「三井さんはほんっとうに俺のことが好きだなぁ・・・ちくしょ」


   それが三井が仙道に尽くす全てであり、仙道が三井に切っ先を向ける理由だった。
   



   am2:00。仙道は目を覚ました。
   自室を彩る家具が視界に薄暗く浮かび上がり、見慣れた世界を形成する。
   慣れ親しんだベッドのシーツの感触から身を離すと、白い足を床に下ろした。

  「・・・いっけね。こんな時間・・・」

   時計の針を確認し、呟いてコートに袖を通した。すでに寝静まっている家族を
  起こさない様細心の注意を払い、玄関を出て冷たい外気に眠気を飛ばした。

  「いるわけないよな・・・」

   白い息に紛れさせ、足早に最寄駅に向かって歩を進めた。
   日付の変わる頃、踏み切りのあたりで―――あんたが待っている?


   案の定。丑三つ時の過ぎたそこには、生物の存在感など一欠片もなかった。
   そのことに安堵する自分がいながら、彼がここにきたのかどうか確認できないこと
  に仙道は嘆息した。
   来ていなかったらいい。けれど目的のためにはここでいつまで経ってもこない自分を
  待ちつづけていて欲しかった。

  「・・・来てたんなら流石にあの人も懲りただろ俺に・・・」

   冷えた感情でそう結論する。しかし昼、腰掛けていた場所に見慣れたモノを見つけて、
  仙道は息を飲んで駆け寄った。新型の携帯電話―――長い指の間にコレと同じものが握られて
  いたのを知っている。何より仙道が驚いたのは・・・

  「何で冷たくないんだ・・・」

   硬質なプラスティックボディに温かさを期待して良いわけが無いが、それでも氷点下の大気に
  嬲られつづけたはずの携帯電話は恐ろしいほどに「普通の温度」だった。
   ディスプレイを見ると、ロングメール送信画面が表示されていた。それは編集中でもちろん
  送信されていない。送信済みなら自分が知らないはずがないからだ。サブジェクト、仙道へ―――

  『お前来ないから帰るな。俺様を待たせるとはいい度胸だ。今日の試合で借りは返させてもらう。
  出来ればお前はここには来ないで欲しいが、お前は言い出した以上来るよなきっと。
  この携帯見たらいつでもいいからこれ届けてくれ。悪いな。
  ・・・お前が「頃」とか「あたり」とか使わずに時間と場所と目的をしっかり定めて俺に命じるなら
  俺はそれに従うのに。例えドラマみたいに北海道でも。バカだな仙道』

   文章はそこで終わっていた。送信保存の時間を見ると、わずか15分前だった。
   仙道はボタンを操作するとそれを送信トレイから消した。
   厚い雲に覆われた空を仰ぎ、ゆっくりと深い溜息を空に放つ。

  「嫌いになってくれないのは、俺が詰め甘いからか?それとも―――」

   可能性はあの雲の上に輝く星よりも多いのかもしれない。目を瞑ると、その星の光景よりも
  三井の姿が闇にぽつんと浮かんできた。

   強引に関係を持ってから、最初三井は仙道になにかと反発していた。副キャプテンの越野
  よりうるさい存在に会ったのは初めてだった。
   時に性交を強制し、三井の過去の傷を抉った。それはテレビゲームよりも、もしかすると
  バスケよりも甘美なストレス解消法だった。
   秋方から急に視界がブレたり、黒に塗りつぶされたりすることが多くなった。後者にはかなり
  恐怖した。もうこれで最後かもしれない・・・と。検査のために入院することもあったし、学校
  も休むことが多くなり、仙道が直接担任を挟んで田岡監督に打ち明けたのもこの頃だった。
   監督の表情が痛ましくて、仙道はこの時のことをよく覚えていない。
  『お前は俺が見つけてきた最高のバスケット選手だ。これからもずっとそうだ』
   と全て話し終わってから、自分に向かって放たれたその言葉だけが思い出される。その時不覚
  にも少し笑ってから、泣いてしまったことも。
   出来れば自分の手で監督を、皆を全国へ連れて行きたかった。でも医者には渋い顔で良くて
  冬の選抜が最後だと告げられた。
   そのときどきに仙道は三井に会った。衝動的に抱くことは少なくなっていた。ガキのようで
  けれども大人っぽさも兼備えたあの笑顔と深い声に、癒しを感じていたのはいつからだろう?
   あるとき仙道は三井に「好きだ」と告白され、激しく戸惑ったのを覚えていた。関係なら
  同情と身体だけで良かった。そんなことを言われても、自分は―――自分は―――
   いつかあなたの顔さえ忘れるんだぜ?

  「俺も結局アナタに恋愛してたんだよな・・・」

   仙道から告白の睦言を囁いたことなど一度も記憶に無かったが、仙道と三井は恋人同士だった。
   急速にお互いに侵食されていきながら仙道はこのままではいけないと何度も思った。
   そしてそれと同じ位、三井に告白されたときのことを反芻した。

   この、踏み切りの前だった。

  『好きだ。仙道。どうしても好きだ』   

   ほんのそれだけ。しかも吐き捨てるように言われたので、最初からかわれてるのかと思ったほどだ。
  なんせ自分は強姦魔だったわけだし。

  『俺は最後まで付き合うから。お前も諦めないで欲しい。だから―――』

   一緒に生きたいと彼は言った。最初に地獄まで付き合えと言った事を根に持っているのかと問うたら
  殴られた。でもその痛みの底で仙道は幸せだった。泣きたいくらいに幸せだった。
   三井も田岡監督も、そしてチームメイトも自分にみんな優しかった。誰一人自分のために不幸に
  したくなかった。
   仙道は母方の実家の神奈川の祖母の別宅に永住して、野菜を育てながらたまに魚を釣りにでて、
  独りで生きていくことを決めていた。祖母よりも役に立たないことは無いだろう。ただ若い三井と
  暮らすのは別だ。足を引っ張るのはなけなしのプライドが許さなかった。
   
  
  『好きだ。仙道』
  

  「三井さん俺は。その言葉だけでもうこの先生きて行く事を頑張れるんです」
  「だから・・・あの光の下で幸せになってくれ」

   
   全て闇に包まれたとしても、なお思い出せる規則正しいバウンドの音と、軽快なネットの摩擦音。
   その世界で生きる彼が。彼らが好きだった。病気を知った当初は恨みもしたのだけど。   

  
  「だから早く俺なんか見限ってくれ!!何一ついいことなんてないだろアンタに・・・!!」   

   しかし仙道は、この台詞を三井に面と向かって言うことがどうしても出来ない―――
   
  「・・・俺は卑怯だ・・・」

   その涙さえ伴った独白は夜の魔力と氷点下の大気に吸い込まれ誰に聞こえることもなかった。
   もちろん静寂が支配する夜道を白い熱を吐きながらゆっくり踏みしめ歩く愛しい人にも。

   

                                            *END*  



  
   何より設定が無茶すぎますが、精一杯書きましたええ。
   仙道サンがちょっと鬼畜になっちゃってびっくりですが(ちょっと…?)                                     02.0524UP