DAY DREAM BELIEVERS ぜえぜえと荒い息を吐き、ブーツを履いた足を引きずりながら駆け込んだのは、この街でただ一つだけ静寂を保っている古ぼけた教会の礼拝堂だった。 もつれるようにして入り口から一番近くの公聴席に倒れこみ、自身に受けた負傷の程度を測るべく意識を集中させる。呼吸が落ち着く代わりに熱と痛みが鎌首をもたげ、その感覚を一番激しく訴える個所を認識したと同時に、青年は緩慢に上体を起こし、血と汗と火薬で汚れたカスタムジャケットと都市迷彩色の軍服を脱ぎ捨てた。上半身に目立った損傷はないが熱くて敵わない。 アーミーパンツを捲り上げ被弾した左の膝をアスピリンのみで消毒し、骨ばった足に慣れた手つきで処置を施している間にも、遠くで―もしくはぞっとするほど近くで、弾薬の炸裂する音やヘリの飛び交う音、歩兵の怒鳴り声が間断無く耳に運ばれた。 無我夢中で逃げ込んだ先のこの教会も、改めて見回すと窓やステンドグラスの類は全て破壊され、硬質な白い床にも所々にその破片や、いずこの者とも知らない血液が点々と散らばっている。小さな建物の最奥に配置された、教会が教会である由縁―――聖なる象徴の神の子の像だけが何にも汚されずに無垢な眼差しで下界を見下ろしていた。 衝動―――とでも言うのだろうか、冷え切った脳が伝播した感情に突き動かされたようなこの行動は。 青年は傷口を手当てした以上に慣れた手つきで、神の像に自らの命を繋ぐ“武器”を構えた。しっくりと手に馴染むレミントンM700/SR。スコープに映し出される標的は、ただ硬質なだけでなんの感情も宿しはしない。それだけでなんと自分の心は安らぐのだろう。躊躇いもなく引き金を引ける。そう、闖入者の存在がなければ事実そうしていた。 「その安らぎとは真の安らぎでしょうか」 まるで心中を見透かされたかのような問答、そして気配なく現れた人物にライフルを構えた青年はわずかばかり目を瞠ると、あくまでも表面上は何の動揺も見せずに照準をそのまま落ち着いた声の主に合わせた。スコープは通さずにまっすぐに視線をぶつける。鳶色の大きな眼球に捕らえられたのは、恰幅のいい白髪の老人だった。この“戦場”に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべ、教会の白い色調と対比する黒のローブをまとっている。そして胸には銀のチェーンで提げられた神の子のしるしが。 「・・・神父か」 久々に出した声は枯れていた。憔悴の色も滲ませて。その呟きを肯定するように老齢の神父は軽く目を閉じると無防備に彼に背を向けた。 青年は把握できない老人の行動に、眉間に皺を寄せると続けて言った。 「じきに戦火はこの街の隅々にまで燃え広がる。信仰の場すら例外じゃねぇ。荷物まとめてとっとと国境まで逃げやがれ。とっくに避難勧告は出ているはずだが?」 「ほっほっほ。お気遣い有難うございます。心有る友人よ」 「―――感謝は、自分の運にするんだな。俺が殺戮者だったらどーするつもりだよ。ったく」 青年は存外若さの残る表情と口調をさらけ出すと、ボルトアクションを解除してから銃身を下ろした。神父はこうなることが分かっていたかのようにそれにも動じず、生命の危機とは無縁であるかのように教会の象徴の前に佇んでいた。 「では感謝の代わりに―――若い友人よ。神にではなくていい。ただ祈りなさい。あなたの信じる者たちに。彼らが健やかであるように。たいせつなものを心の最奥に留める限り、血で穢れようとも真の安らぎがあなたにも訪れる」 神の父の名を冠する者がそのような台詞を吐いていいものか、と青年は少し驚いた。しかし染み入る言の葉に救われる何かがあったのもまた確か。神は自身を貶められても「許せるもの」だからこそ最上級の存在として君臨し続けるのだろう。それを目の前の彼は理解している。 争わず、言葉で人を救える彼を青年は羨ましく思った。スコープの向こうで自分の手で命の潰える様を何度も見た。それが部隊の人間とほんのわずかな人々を救った。とうに諦めのついている、いつ終わるか分からない日常の事だ。 「信じた奴らはもう逝っちまったよ・・・ハーヴのやつが裏切りやがって・・・俺の部隊の奴はみんな逝っちまった。親はもとからいねぇ。スナイパースクールの友人も・・・きっともう死んでる」 生きているものが2人しかいない静寂の空間が、敵の奇襲狙撃部隊から逃げ切った後にも続いていた緊張を和らげたのだろうか。呟いて、まつげを震わせ子供に戻ったような青年のなで肩に神父は優しく肉厚の手を置いた。 「わからないものに決断を下そうとしてはいけないよ。自分の望みを優先しなさい。友にまた会いたいでしょう?信じたいでしょう?」 青年は視線をゆっくりと目の前の聖者に合わせた。整った顔立ちが、老人の深い暗色の瞳に映し出される。それが細められ、青年は魅入られた。 「あきらめたら、そこで希望は終わってしまうよ?」 「こーして俺様は生き長らえてるってワケだ。ロマンだろ?まぁそれもこれも俺様の人徳と言うか日ごろの行いがだな・・・」 「その台詞さえなきゃ感動秘話だったんですけどね!ミツイ軍曹。俺の部隊のヘリの経路がアンタの逃走進路とバッティングしてなきゃいづれナパームの餌食だったじゃないすか」 「んだぁ?生意気じゃねぇかミヤギ!伍長に昇進して早速増長か?」 口汚い罵りあいが瞬く間に火の手を上げる様を目の当たりにして、上官の昔話(とはいってもほんの2ヶ月前の話だが)に聞き入っていた兵士たちはやれやれと肩を竦めあった。 星だけが贅沢に散りばめられた砂漠の夜。それ以外は人には足りないものが多すぎる。日中は人を殺せる熱気が立ち込め、夜はむさくるしい男たちが身を寄せ合わねばならない寒波に満たされるここが、国境紛争を鎮圧する、次なる作戦に向けて派遣された部隊の駐屯地だった。闇に溶け込む配色をされたテントが砂混じりの風に打たれ、ザーザーと不気味な旋律を奏でる。テントの中にいる殆どの兵士たちはひときわ大きな風の音に思わず開閉孔を振り向いた。 「この寒さの上に砂嵐か?勘弁してくれよもう」 「チキるなトーキィ。この辺りはいつもこうさ。丘陵で勢いをつけた風がそのままブチ当たってきやがる」 童顔を情けなくさらに幼くさせた青年兵にニヒルな笑みと言葉を返したのは、この部隊の司令官であるアカギという男の補佐を何年も務めているミヤギだった。国籍不明なクセのある顔立ちは重い目蓋とぐるりとした双眸によるところが大きい。身長は彼の仲間達と比べても低い方だったが、頭の回転の速さによる自信と態度は誰よりもデカかった。それゆえに、先ほどのように上官や仲間との衝突も多い。 「・・・ミヤギは前もこの辺りの任務に就いたことが?」 低いがよく通る声で問うたのは、ミヤギの上官にして喧嘩仲間のミツイ軍曹だった。すらりと高い身長と、怜悧な美貌には誰もが一瞬射すくめられる。それを裏切る乱暴な口調と幼さを残した未完成な性格がなんとも魅力的で、兵卒たちが敗残兵にして途中入隊の彼を容易に受け入れた一つの要素でもあった。 「ええ。4年前のテロ鎮圧の時の前線支援基地がこの辺りにありましてね。そこの情報部に配属されたことが」 「へぇ。情報ね。そいつはてめぇになにかもたらしたかい?ミヤギ伍長」 ふくみのある声音にミヤギのみならず場にいた全員が怪訝そうにミツイを見遣った。何十もの視線を気にも留めずに、すました印象的な両眼はミヤギに向けられる。 「危険性の話さ。情報を持つ者はその量に則して需要がある。味方にも、敵にもだ。空白の4年間にどれだけの人間と接触を持った?その中にスパイが紛れていてもおかしくはねぇぜ」 ただでさえ肌寒いテントの中の空気がさらに冷え、同時に剣呑とした苛立ちが隙間を埋め尽くした。激昂と言っても過言ではないだろう。いきなり台頭した若き下士官よりも、同じ部隊で寝食、あるいは命のやり取りを共にしてきた伍長に対する信頼の方が比べるまでも無く大きい。オーダーとしては間違っているかもしれないが、感情の部分でそれは正しかった。 気の荒い一人がミツイに食って掛かろうとするのをミヤギは片手で制し、一歩だけ彼の掛ける木椅子へと歩み寄る。同時にジャケットの胸元をはだけ、左胸に近いそこから写真を取り出すと人差し指と中指ではさんで掲げた。 「それはねぇよ。ワイフに誓って」 ミツイ以外の仲間達なら一度は突きつけられてついでにのろけられた写真はミヤギの“女神”を映し出したものだった。ミツイのように凝視せずとも、紙片に映る東洋系の美女の勝気そうな瞳と艶やかな唇は網膜に焼きついている。 ミツイはしばらく黙ってそれを見つめていたが、ふっとたおやかに笑みを浮かべるとひそりと目を閉じた。 「美人じゃねぇかよ。俺も好みだ」 「そりゃ、どーも」 場の緊張を緩和するのはそれで十分で、魔法を解かれたように屈強な戦士たちはあくびをかみ殺しつつ睡魔と戦い始める。ミツイが就寝を告げようとしたところで、テントの一部が開き、別のテントで参謀と話し込んでいたはずのアカギが顔を覗かせた。 「なんだ貴様らまだ起きていたのか。明日は90マイル移動する。とっとと寝ろ」 「げぇー!!そんなにも!?」 「そりゃないっすよ。砂漠から脱出できるのは嬉しいけどさ〜」 厳格な声に対するノンキな悲鳴に、アカギは諦めたように溜息を吐くと、ひとり黙したままのミツイに視線を投げる。 「ミツイ。こいつらの後は任せたぞ。見張り番の順も決めさせろ」 「・・・ウィー・サー」 ちろりと上目遣いの視線で返事するミツイの声は覇気が無かったが、この男の落差の激しい低血圧ぶりはいつものことなので誰も気に留めない。もともと陸軍の通常訓練を受けるよりもスナイパースクールでの訓練・在籍期間が長かったミツイは、小隊を組んで行動することもあまり無かった。いつも一人ないし三人までの相棒と闇を縫うように行動し、味方の糧になる追跡法、隠蔽、偽装に励む。目標の射程距離に入れば観測・射撃をそれぞれに分担し、そして静かに死神の鎌を振り下ろす―――その仕事に人間味を加味することは必要なかった。 特に“メルコール・ファイア”闇の中の炎、と味方にも畏怖される射手であるミツイには。 back next |