ENEMY ZERO




「ありがとう」

 不思議な男は沢北栄治にそう言った。
 自分と同じ中学生だったのに、それしか形容する術が無かった。
 試合が終わったばかりの興奮にまみれた顔で、しかし穏やかに。伏せ目がちのまぶたを覆うまつげは長く、数十分前までは完璧だった逆毛の黒髪が、顔にしな垂れてそれも長かった。

「…どーも」

 沢北はそう返し、告げた男の片手を強引にとって握手した。彼が目を丸くして、何らかの反応を返す前に沢北は接触を解く。コートの上から選手が徐々に散り、距離が絶対的なものになる前に沢北はもう一度口を開いた。荒い呼吸にのせて。

「お前は東桜に行くのか?秋月?それともあっちらで強いのは…海南?」
「え?」
「高校だよ。バスケで行くんだろ?」

 告げられた少年はあどけない顔で考えるそぶりを見せた。膨大な汗を端正な鼻梁に流しているが、比較的こたえていないような表情にも見える。沢北にはそれが悔しかった。今日のこの試合に勝っても、この男がちぃとも自分を省みないような気がしたので。きっと彼は、彼自身に負けたのだと思っているのだろう。芯から強いやつは大抵そうだ。「ありがとう」だなんて平凡な言葉を、この自分に向かって言うな。

「…まだわかんねぇかな。そういう話もあんまりこないし」
 
 邪気無く首をかしげて静かに話す。心外だとでも言うように沢北は眉をしかめた。

「ウソつけよ。お前ほどの選手なら、うちだって見過ごさないさ」
「山王に入るの?」
「山王しかねぇだろ。俺がより最高峰にする」

 自信に満ちた宣言に、掴み所の無い少年はバカにするでもなくふっと微笑した。曖昧に首を振って汗の珠を散らす。東京からきた最後の強敵は、沢北に向かい低い声で呟いた。

「いいね。潰しがいがあるよ」

 ―――おおよそ、その和やかな纏う空気に相応しくない声で。対峙する男は唇を薄くひいた。僅かに戦慄する沢北の肩に大きな手を置いて、やはりどう見ても平穏な表情で再び言葉を紡ぐ。

「ありがとう。やっぱりバスケが大好きだ」
 
 無邪気とさえ言える笑顔で一つ肩を叩くと、「決勝戦がんばれよ」と言い残して東京代表のエースは沢北に背を向けた。広いユニフォームの背中に踊るのはどう書くかも知れない名前。何年か後に確実に決着をつけるまで、お互いがその名前を覚えていられるだろうか。
 今日ここで、忘れてしまうのは勿体無いような気が沢北にはした。

「食えねぇ自信家…」
 
 呆れと困惑の混じったため息をひとつ。
 ひとつだけ確かなことは、沢北が失望しかけていた日本のバスケにも、まだ踏破すべき未知の領域があったということだ。
 いいね。お前みたいな天才を、蹂躙して退け、果てまで上り詰めるのはさぞ楽しかろう。沢北は彼と同じように快活に笑って、去っていく背中にひらひらと別れの合図を送った。
 
 ありがとう。同じ感覚を有し同じ才能をもつ友よ。そして、今はさよなら。




みどりーぬ様に頂いたイメージで書かせて頂きました。素敵なイラストありがとうございます。