羊は、世界でも広く飼育されており新石器時代初頭、紀元前9000(6000)年頃のイラクの遺跡ザビ・ケミ・シャニダールでは家畜化された遺骸が発見されている。此れは農耕が西南アジアで発生する直前であり、ひとは定住に近い生活を初め、従来の狩猟活動、種子植物の利用もするようになった。この家畜化は農耕の発生過程とほぼ時を同じとし、その後の古代オリエント文明成立の経済低背景をなす。当初羊は狩猟動物に変わる食料源でしたがしだいに乳の利用が重視されていく。古代メソポタミア・エジプトではB.C.3000年ごろには乳製品なるものが作られていた。まだ羊毛の本格的な利用はなかった。古代ヨーロッパにも飼養種として広く知られていた。
アリストテレス「動物誌」によると、動物の餌や飲み物に塩を混ぜておくと、大きく健康に育つ。長い間乳を得るにはソラマメをたくさんあたえ、雄と交尾させないこと。妊娠しているメスがどんぐりをたくさん食べると流産する。羊飼いは、腎臓の周りに脂肪がつきやすく食べ過ぎると死んでしまうので羊の餌は少なくせねばならない。雄羊はまず年長の雌と交尾する。(若いオスからは小さい子供しか生まれないことを知っているらしい)交尾のとき北風が吹いていると雄が、南風ならば雌が生まれる。雄羊が交尾前に飲む水の色によって生まれるこの体色が決まる。白い水なら白い子。黒なら黒などとある。アリストテレスの羊に対する評価は低く、四足獣のうちもっとも劣悪な動物だとしている。理由として、羊飼いが居なければ荒野へと迷い込み、吹雪の中でも死ぬまで動かないというその鈍さをあげている。
羊を低能な生き物とみなす思考は中世ヨーロッパにも伝わり、愚鈍と盲目的服従のシンボルとされた。初期キリスト教時代では親切・優しさ・献身などの象徴ともなった。
プリニウス「博物誌」では羊は頭部がもっとも弱く、そのため草を食べるとき日射病にならないように太陽に背を向けるとある。また、西洋の少女は愛のお守りとして、乾燥させた羊の心臓に小枝を突き刺したものを作る。
イギリスでは羊は<黄金の蹄>を持つ家畜と云われ、牧草地への放牧が推奨された。牧草は羊に踏みつけられることによって丈夫になるうえ、牧草を根元から食べることで草を刈りそろえる手間が省けるからだ。
また羊が野草ににあたえる害として「セルボーンの博物誌」にも次のような逸話がある。かつてロンドン・グレイタム教区の荘園農場に、ほぼすべての家畜を適当な時期に森へと追いやる権利が与えられていたが、羊だけは例外とされた。羊は森の草を根絶やしにするため、鹿が育たなくなるというのがその理由らしい。
1620年にはドイツで頭が一つで体が三つ(?!)という奇形が生まれる。
血液型という概念がまだなかった頃は戦いで負傷し大量出血したものに羊の血を輸血していたらしい。オイオイ血、固まるって…。
中世「べスティアリ」では子羊は常に母親を知る、また子羊をラテン語でagnusとよび、清潔さのシンボルとなっている。此れはギリシャ語のアグネス(貞節)に由来する。
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