高取町出身である最初の「征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍 |
(1)坂上氏について |
4世紀後半に百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)を祖とする渡来系の氏族「東漢氏」の一族で檜隅から高取町域に定着し、その後多くの氏に分裂し、それらの氏は住みついた所の地名を氏として、それぞれ発展していきました。 坂上氏は、高取町大字観覚寺(かがくじ)小字坂ノ上(坂ノ山ともいわれています)一帯に居住し、坂上氏と称して飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として発展していきました。姓は始め直(あたい)、682年に連(むらじ)、685年に忌寸(いみき)、764年に大忌寸、785年に大宿禰(おおすくね)と改姓しています。大字観覚寺には、小字坂ノ上に坂上田村麻呂の邸宅があったとの伝承が今日にも伝わっています。 当時の日本人は、彼ら渡来人を異民族あるいは異人種として白い眼でみたり、まして敵視するようなことはありませんでした。ひとつには彼らの進んだ技術・文化に対して、素直な敬意を抱き、また、当時の日本人の間には「まれびと信仰」つまり、季節ごとに外から来訪する神や人は、幸せをもたらすものとして歓迎するという信仰風習がありました。そうした社会風習を背景に渡来人たちがその地に土着し、その子孫が発展していきました。 坂上氏が歴史の表舞台に現れるのは、壬申の乱で東漢氏一族がこぞって大海人皇子(吉野朝廷)に味方し、そのなかでも坂上氏の軍事的活躍はめざましく、たとえば大伴吹負(ふけい)と共に飛鳥古京に攻め入り、古京を陥れ大友皇子(近江朝廷)の有力な拠点を、逆に大海人皇子側のものとしました。この功により坂上氏一族は昇進し、田村麻呂の祖先である坂上老(おゆ)は直広壱(ちょくこういつ、正四位下に相当)の位を与えられました。 祖父の犬養(いぬかい)は造東大寺司長官正四位上左衛士督(さえじのかみ、京内宮中の警護の責任者)兼左右馬監(めげん)兼播磨守(はりまのかみ)といった四つの職を兼ねた高官にまで昇進し、最後は大和守に任命され、出身地である高取町に所在する大和国府の長官として赴任し、故郷に錦を飾りました。 父親の刈田麻呂(かりたまろ)は、陸奥鎮守将軍、安芸守、丹波守、越前守、右衛士督兼下総守(しもふさ)兼左京太夫などを歴任し、従三位の地位まで到達しました。また娘を天皇の後宮に入れ内親王が生まれています。刈田麻呂は大和国高市郡(たけちぐん、現在の高市郡・橿原市のほぼ全域と大和高田・御所両市の一部)の郡司(ぐんじ)に同族の檜前忌寸(ひのくまのいみき)を任命されるように上奏し認可されており、譜第の高市県主(たけちのあがたぬし)を差し置いて同族を郡司にできる力を高市郡におよぼしていました。 |
(2)「最初の征夷大将軍」坂上田村麻呂の活躍 |
@桓武天皇の東国(蝦夷)征討 桓武天皇になってから積極的に東国征討に力をいれました。その理由は第1に、律令政府の威力を東国にまでおよぼし、その地の未開の民を律令政府に服させることにあります。これは当時の中国の影響を受けたもので、中華思想つまり自国の政治文化などを周辺の諸国よりはるかにぬきんでたものと考え、その高度の文化・思想をおよぼそうとする 考えであり、儒教にもとずく王土思想、つまりすべての国土・人民は天皇の治めるところであり、その政治は天皇の儒教的な徳が国内のすみずみまで行きわたる、いわば仁政が行われることによって実現するという考えを中心におくものです。もうひとつの理由は、東国の陸奥・出羽は地味のきわめて豊かなところであり、この豊かな土地を獲得し、そこからの生産物を確保することは、律令国家を維持するためにどうしても必要と考えられたからです。 服従してくる者には寛容に接し、稲作を教え、また朝廷の官人に取り上げられ高官にまで昇進した者もいました。しかし律令国家のそうした行為に服従しないものは、いわゆる「まつろわぬ民」(蝦夷)として、武力によって服従させました。 724年東国経略の最大拠点である多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥の国府と鎮守府を設置し、東国征討が行われました。当時の東国は、城柵を中心に律令国家に服従した東国の民(俘囚ふしゅう)が開拓農民となって寒冷と戦いながら耕作に励んでいました。一方まつろわぬ民は山野で自らの民族の誇りをもって、縄文時代の狩猟・採集生活を送っていました。第1次征討作戦及び第2次征討作戦は、朝廷軍が蝦夷の総帥「阿弖流為(あてるい)」の率いる蝦夷軍に、普段は森に隠れ、相手の隙に乗じて森の中から出撃する神出鬼没の騎馬による弓矢の戦いに翻弄し続けられ、失敗に終わりました。 |
A田村麻呂の活躍 苅田麻呂を父に、犬養を祖父にもつ田村麻呂は、武門の子弟として23歳で近衛将監、30歳で近衛少将となりました。789年大将軍紀古佐美率いる朝廷軍は、蝦夷の総帥阿弖流為の率いる蝦夷軍に大敗を帰しました。 田村麻呂は791年征夷大使大伴弟麻呂の副使になり、第二次征討の準備を任されました。田村麻呂は兵士の質や彼らが所持する武器を調査しました。兵士は大部分が農民の子弟で、生活苦をあまりにも強く背負っている者ばかりでありました。畿内をはじめ諸国の農民の生活は、旱魃や疫病が流行り、そして租庸調の税金が重くのし掛かり、まことにひどい状態でありました。征夷のため武器や食料を調達す ることを命ぜられても、とても消化できる状態ではありませんでした。 田村麻呂は、皮製の甲(よろい)の製造については、富裕な農民層と五位以上の貴族に製造して差し出させるよう、またこれまでの軍団制である一般農民からの徴兵にかわって、郡司の子弟を選んで健児(こんでん)と名づけ、彼らに諸国の役所や武器庫を守らせる健児制(こんでんせい)に切り替える大幅な改革案を上奏し裁可されました。陸奥と出羽だけは、蝦夷との交戦を目前に控えているため従来の軍団制をそのまま存続しましたが、兵士の質は以前より改善され、第2次征討はそれなりの成果をあげました。また、短期間の戦闘であったにもかかわらずかなりの兵士が逃亡して捕えられましたが、従前であると死罪になるところを、陸奥国に流罪する名目で、柵戸(さくこ、柵を守る農民兵)とすることにより彼らの命を救いました。田村麻呂はこの功績により従四位下に昇進しました。 翌796年陸奥・出羽按察使(あぜち、国司の治績や諸国の民情の巡察する官吏)兼陸奥守兼鎮守府将軍に任命され、陸奥における軍事行政上の全権力を掌握することになりました。これは、第3次征討の前ぶれの人事であり、田村麻呂はただちに多賀城に赴任して、来るべき第3次征討に備え、兵員の確保や糧食の調達を図る一方で、陸奥の開拓や民生の安定化をはかるため稲作や養蚕の普及に力をいれました。伊勢・三河など六カ国から養蚕技術をもつ女性ををそれrぞれ2名づつ選んで陸奥に派遣し、また武蔵・常陸など8カ国の農民9千人を伊治城に派遣し、平時は土地の開墾と稲作の指導を行わせ、事あるときは武装し兵士として戦う屯田兵のような性質をもつ農民派遣を行い、みちのくの農村もしだいに活気を示すようになってきました。 797年さらに最初の征夷大将軍に任命され四つの要職を兼ねて陸奥の地に臨むことになりました。しかし、田村麻呂は戦闘の準備よりも行政面や民生への配慮に重点を置き、蝦夷を討つにあたって、膨大な軍隊を動員して、ただがむしゃらに攻めこむのではなく、治安を回復し産業を盛んにし、民生を安定することに重点をおきました。蝦夷に対しても、むやみやたらに敵視するのではなく、帰順してくる者に対しては、土地を与え生活を保証し、また律令農民との間の交易も認めました。ただし、抵抗する蝦夷に対しては、断固として容赦のない態度で臨み、いわば恩威並びに施す策をとりました。それはまた国家の兵士の損害を最小限にくいとめることに役立ち、部下の信望を多く集めることにもなりました。 801年従四位上征夷大将軍兼近衛権中将兼陸奥出羽按察使兼陸奥守兼鎮守府将軍となり、桓武天皇から節刀(天皇の権限を代行するしるしとしての刀)を受け、あらためて全軍の指揮を委ねられました。俘囚軍を大量に動員し、巧みに作戦に使用し、また蝦夷の帰順者があいつぎ、胆沢地方(いざわ)を越えて閉伊地方(へい、岩手県北部)まで兵を進め、胆沢地方を律令国家の掌中に収めるという第3次征討の目的は、田村麻呂の努力により達成することができました。この武功により従四位上から従三位にと目ざましい昇進をとげました。 翌年には造胆沢城使となり、北辺の守りを固め、胆沢地方を開拓し、稲作の普及に努めるなか、蝦夷の族長阿弖流為が投降してくるという画期的な成果をあげました。田村麻呂は彼の助命を請願しましたが受け入れられず、処刑されました。大和朝廷から続いていた蝦夷征討も事実上ここに結末を向かえました。 田村麻呂は、二度の征討においてすぐれた武勲を立てただけでなく、帰降蝦夷の取扱いに誠意をもってあたった人物として、蝦夷や俘囚から大きな信頼を寄せられ、また俘囚でも戦功のあった者は昇進叙位を取り計らい、また公民となろうとして改姓を願い出る者に対してはそれを認めるなど、蝦夷の身分的差別解消にも配慮しました。こうして、田村麻呂は東北の人 々にも、偉大な将軍として神格化され後々まで尊崇されるようになりました。 805年参議の職に任ぜられました。参議は国政に直接参加する職であり、現在における内閣を構成する大臣にあたり、坂上一族では彼だけです。やがて大納言右近衛大将にまで昇進しました。811年大納言正三位右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂は54歳で生涯を閉じました。嵯峨天皇は一日服喪し、従二位を追贈しました。この日、勅命により田村麻呂は甲冑武器を帯びた立姿で葬られました。 |