「束明神古墳」に眠る草壁皇子(没後岡宮天皇)を舎人等が泣き悲しんで詠った歌
(1)万葉集巻2に柿本人麻呂や舎人(とねり)等が草壁皇子を偲んで詠った歌が26首あります。
(a)真弓の岡(遺体・霊のやどる束明神古墳のある丘陵本体の総称をさす)を舞台にした歌
万葉集 

巻2 167番(柿本人麻呂の作)
天土(あまつち)の ・・・・・
(あま)の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)
り 上(あが)りいましぬ 我が大君(おおきみ) 皇
(みこ)の尊(みこと)の 天の下 知らしめしせば
春花(はるはな)の 貴たふと)からむと 望月(もちづ
き)
の たたはしけむと 天の下 四方(よも)の人
の 大船(おおぶね)の 思い頼みて 天つ水 仰
ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれ
もなき 真弓の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふと
し)
きいまし みあらかを 高知(たかし)りまして
朝言(あさこと)に 御言問(みことと)はさず 日月(ひ
つき)
の まねくなりぬれ そこ故(ゆえ)に 皇子
みこ)
の宮人(みやひと) 行くへ知らずも 




巻2 174番
(そと)に見し 真弓の岡も 君ませば 常(とつ)
つ御門(みかど)と 侍宿(とのい)するかも


巻2 182番
とぐら立て 飼(か)ひし雁(かり)の子 巣立ち
なば真弓の岡に 飛び帰り来ぬ
(意  訳)



天の原の 岩戸を開き 天に登り
お隠れになった わが大君(天皇) 日並(ひなし)
皇子尊(草壁皇子)が 天下を お治めになった
としたら 春の花のように お栄えであろうと
満月のように お見事であろうと 天下の 四
方八方の人が (大船の) 頼りに思って (天つ水)
仰ぎ見待っていたのに どのように 考えられ
てか 縁もない 真弓の岡に 宮柱を しっかり
と立て 殯宮(ひんきゅう)を 高く営まれ 朝のお
言葉も のたまわれぬまま 月日も 
あまた積もったので そのために 皇子の宮
(みやびと)たちは 途方に暮れている
 *殯宮(天皇・皇族の棺を葬儀の時まで安置しておく仮
の御殿)



関心もなかった 真弓の岡も 今は皇子(み
こ)
がいらっしゃるので 永久の御殿として 
宿直することか 


鳥小屋も建て 飼った雁の雛よ 巣立ったら
今度は真弓の岡に 飛び帰って来い
(b)佐田の岡辺(真弓の岡の丘陵南端の舎人達の奉仕する場所をさす)を舞台にした歌
巻2 177番
朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居(い)つつ 我
が泣く涙 止(や)む時もなし

巻2 179番
(たちばな)の 島の宮には 飽(あ)かねかも
佐田の岡辺に 侍居(とのい)しに行く

巻2 187番
つれもなき 佐田の岡辺に 帰り居(い)ば 島
の御橋(みはし)に 誰(たれ)か住まはむ

巻2 192番
朝日照る 佐田の岡辺に 鳴く鳥の 夜泣きか
へらふ この年ころを

朝日が照る 佐田の岡辺に 群れていて 泣く
われわれの涙は 止む時もない


橘の 島の宮では 物足りなくて 佐田の岡辺
まで われわれは宿直をしに行くことか


縁もなかった 佐田の岡辺に 戻ったら 島の
宮の回廊には 住む者もなかろう


朝日が照っている 佐田の岡辺に 鳴く鳥のよ
うに 夜泣き続ける この最近は
(c)その他生前草壁皇子が住んでいた島の宮(明日香村島庄)を舞台にした歌などがあります。
  巻2 171番から巻2 193番まで
(2)束明神古墳(つかみょうじん)・・・草壁皇子が眠るのは束明神古墳か岡宮天皇陵か?
(a)束明神古墳
(@)古墳の概要
  束明神古墳は、高取町大字佐田に所在する春日神社の境内にあり、丘陵の尾根の南斜面に築造された7世紀代の終末期後半の古墳です。






 
  現状では墳丘がわずか直径10m程に見えますが、これは中近世の神社境内の整備のためであり、発掘の結果、対角長36mの八角形墳であったことが判明しました。
  





                           
  埋葬施設は、特殊な横口式石槨(せっかく)で、約厚さ30cm・幅50cm・奥行き50cm大の凝灰岩の切石を積み上げ、南北約3m・東西2m・高さは1.3mの所から内側に傾斜させ家型となっています。ただし、盗掘により天井部が破壊されているので、推定であるが高さ約2.5mあります。この石室は構築にあたっては極めて精巧な設計がなされていたらしく、黄金分割等を使っています。
  盗掘されているため、出土した遺物は少ないが、漆塗木棺破片や鉄釘や須恵器・土師器と人歯・骨などがあります。
  飛鳥時代の古墳は、丘陵の尾根の南斜面に築かれており、それ以前の古墳が平坦地や尾根の稜線上に築かれているのと異なっています。これは、中国の風水思想が朝鮮半島からもたらされ、都市・住居・墓地などの場所を選ぶ場合「四神相応の地」として、北
の玄武は小山があること、東の青龍は川が流れていること、南の朱雀は高山があること、西の白虎は大道がある地、この中心に墓地を作ることが吉であるとされています。
(A)被葬者
  佐田の村に伝わる伝承に、幕末の頃までは、この古墳に玉垣(たまがき)をめぐらせていたが、明治時代になって岡宮天皇(草壁皇子)の御陵を指定するための調査を行うとの通知があり、当時佐田の村では春日神社横の古墳を岡宮天皇陵とのことで祭っていたが、これが正式に指定されると佐田の村は強制移住されるとの風聞が立ち、そこで村人は玉垣をはずし、石室を破壊してしまい、役人がやってきて鉄の棒を墳頂から突いたが石室にあたらず、結局御陵は佐田の村の南300m森村の素戔鳴命神社(すさのおのみこと)の本殿の地と定められ(現岡宮天皇陵)、神社は東側に移動させられたことが伝えられています。
  終末期古墳では、墳丘は30mと天武陵の45mに次ぐものであり、石槨は凝灰岩で作られてかなり緻密な構造になっており、出土品や歯牙の理化学的分析から青年期後半から壮年期にあたる年齢であるという考古学的事実と文献(万葉集・延喜式)や伝承等を合わせて総合的に判断すると束明神古墳は草壁皇子陵であるというのが現在の考古学・古代史双方の見方です。
(B)束明神古墳の復元実験(古墳のレプリカ)
  橿原考古学研究所が、発掘に伴い破壊された石槨の復元を試みました。束明神古墳の石材は二上山の凝灰岩が利用されていますが、現在国定公園であり、採石ができないので採石実験は、同質の凝灰岩を現在採石している栃木県宇都宮市大谷町で行われました。
  50cm四方の採石した石は研究所に運ばれ、500個の石の加工・組立てが行われました。それに必要な労力は、石の切り出しから石槨の完成までに延べ500人程度の労力で可能、これに墳丘作りを合わせると延べ1000人程度の労力で可能ではないかとの結論に達しました。
  



 この実験で判明したことは、凝灰岩という軟石を使うと緻密な石槨ができ、しかも少ない労力で作ることができます。硬石の花崗岩では数十倍の労力が必要であり、飛鳥時代には合理的な発想がなされていて驚かされます。











(b)岡宮天皇真弓岡陵(まゆみのおかのみささぎ)
                              
  現在岡宮天皇陵とされているのは、束明神古墳から南300mの高取町大字森に所在しています。これは、1862年(文久2年)に宇都宮藩が中心になって現岡宮陵の修陵が行われ、宇都宮藩による山陵修補関係図には、岡宮帝御陵之図というのがあり、この時期に陵が決められたらしいと思われます。
  また、地元では、現岡宮陵の位置は素戔鳴命神社の本殿が鎮座していた所で、
立ち退きをしてそこを陵としたということが言い伝えられています。