森カシ谷遺跡
  平成14年12月17日高取町教育委員会は、高取町大字森の「森カシ谷遺跡」の丘陵上に物見櫓(やぐら)と見られる柱穴や、大型の高床式建物跡、周囲に巡らされた柵跡(さくあと)などが見付かったと発表しました。
  




(高取町教育委員会提供)
  7世紀後半に建てられたとみられ、古代幹線道路である紀路沿いの、飛鳥の内と外を分ける境界にあり、「飛鳥を守る砦」であると見られています。飛鳥の都の出入り口を監視する役目を果たしていて、望楼の下に生木を貯蔵する穴があり、狼煙(のろし)をあげ、飛鳥の宮と連絡を取り合っていたと考えられます。
 

 (上記のイメージ図は2002年12月17日読売新聞の記事を抜粋) 
   663年新羅・唐の連合軍に白江村の戦い(はくすきのえ)で大敗した天智天皇は、海を隔てて
、直接大唐帝国の威力と接する恐怖感に晒され、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり。辺境の守備兵)と烽(とぶひ。のろしをあげて火急を知らせる施設)を置き、博多湾から大宰府に至る途中に防衛ラインとして土を何層にも頑丈に突き固める版築工法(はんちく)で土塁をつくり、その外側に堀をつくり、現在の太宰府市・大野城市・春日市にかけて所在する全長1.2kmの強大な水城(みずき)と称される大堤(おおつつみ)を築き、大宰府の背後に位置する大野山の尾根に土塁をめぐらせ、谷には石垣を築いて城門を設けた大野城を築き、大宰府は前線の水城と、待避・籠城用の大野城のセットで防衛システムが立てられたと日本書紀天智天皇3年是歳条にあります。大野城は朝鮮式山城と呼ばれる構造で石垣は精巧な切石で築かれ、百済からの渡来技術者集団が築城し、その技術者の末裔が、安土桃山時代、信長の安土城をはじめ全国の城郭で石垣づくりのスペシャリストとして活躍した穴太衆(あのうしゅう)です。山城は大宰府の大野城から瀬戸内海を沿って大和に至る高安城(大和と河内の境界にある山で、現在の大阪府八尾市と奈良県生駒郡平群町の境界にある)まで点々と築かれ、それに烽と呼ばれる通信網とセットで、壮大な防衛ネットワークを形成していました。
  壬申の乱の勝者である天武天皇は、唐・新羅の侵攻に備え、天智天皇の時代に築いた防衛ネットワークに加え、大和へ入る要所である竜田山(たったのやま。大和川の北にある大和と河内の境の斑鳩町竜田にある山で竜田道が通じる)と大阪山(おおさかのやま。大和川の南にある現在の二上山で大阪道が通じる)に関所を置き、難波(なにわ)に羅城(らじょう。都市の周井をめぐる城)を築いたと、日本書紀天武天皇8年11月条にあり、その関連で紀路を通ずる飛鳥の内と外の境界にも関所(烽)を築いたものと考えられます。
  その他、壬申の乱に関連する砦とか、斎明天皇時代から藤原京の頃の、大土木工事に地方から使役として徴発された人が、飛鳥の工事現場から逃亡するのを取り締まる検問所であるとかの見方もあります。
  やがてこの関所は都が飛鳥京から藤原京・平城京に遷都され、その役割を終え廃棄されます。その後、丘に円墳が築かれます。
  
森カシ谷2号墳
  平成15年2月14日高取町教育委員会は、高取町大字森の「森カシ谷遺跡の砦跡」の丘陵南斜面から7世紀末に築かれた円墳(終末期古墳)が見付かったと発表しました。
  土を何層にも突き固める版築(はんちく)工法で築かれており、築造時期などから被葬者は天武天皇の皇子か皇女の一人であろうと考えられます。南に大きく開く立地は風水思想の反映と考えられます。石室は残っていないが、下部に十
(高取町教育委員会提供)
字の排水溝が設けられており、排水溝の長さから直径約14mと推定されます。