古代万葉集に詠われる遥か紀伊国へ至る道・・・紀路
万葉集 巻4 第543番

大君
(おおきみ)の 行幸(みゆき)のまにま ものの
ふの 八十伴
(やそとも)の男(を)と 出(い)でて行
(い)きし 愛(うるは)し夫(づま)は 天飛(あまと)
や 軽
(かる)の道より 玉だすき 畝傍(うねび)
を見つつ あさもよし 紀伊道
(きじ)に入り立ち 
真土山
(まつちやま) 越ゆらむ君は もみち葉の
散り飛ぶ見つつ むつましみ 我は思はず 
草枕 旅を宜
(よろ)しと 思ひつつ 君はあるら
むと あそそには かつは知れども しかすが
に 黙
(もだ)もえあらねば 我が背子(せこ)が 
行きのまにまに 追はむとは 千度
(ちたび)
へど たわやめの 我が身にしあれば 道守
(みちもり)が 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ す
べを知らにと 立ちてつまづく 

    
【意  訳】

天皇の 行幸にお供して 数多くの 臣下の方
々と 出かけて行った
いとしいあの方は (天飛ぶや) 
軽の道から (玉だすき) 畝傍山を横に見て
(あさもよし) 紀路に足を踏み入れ 真土山を
越えているであろう貴方は もみじ葉の 散り
飛ぶ景色を見て かわいいとも 私のことは思
わず (草枕) 旅も結構いいものだと 思って
いることだろうとうすうすは まあ知ってはいる
が さりとて じっとしておれないので 夫が
行ったあとを 追って行こうとは 何度も思うけ
れど かよわい女の 我が身のことゆえ 関
の番人が 尋ねた時の返事を どう言ったら
よいか 分からなくて 立ち上がったもののし
りごみしてしまった
  註 (   ) の中は枕詞
                               
  紀路という道の重要性は、弥生時代まで遡りますが、大和時代、5世紀後半から6世紀代に、歴代の王宮は天香具山(あまのかぐやま)の東北域の磐余(いわれ)とか初瀬(はつせ)といった地域にありました。
  紀路はこの時期における王宮の所在地と紀ノ川河口とを結ぶ道でありました。それから7世紀代になって、いわゆる飛鳥時代になっても、飛鳥と紀ノ川河口を結ぶ重要な道で、奈良時代には南海道となった道です。
  古代の紀ノ川は現在と違って新和歌浦に注ぎ、河口に港があって、紀伊水門(きのみなと)と称されていました。紀伊水門は、5・6世紀においては、大和王権が直接管理する外港としてきわめて重要な機能を果たしていました。紀ノ川河口に近い和歌山市善明寺では、5世紀中頃の鳴滝倉庫群が検出されており大和朝廷の管理する大倉庫群でありました。7世紀になると、飛鳥朝廷の外港は難波津(なにわづ)に限定されていきました。
  中国南朝の諸国家や、朝鮮半島の百済・新羅・伽耶諸国との交渉に際し、大和王権の使節や水軍は紀伊水門から出航していました。また紀伊水門に運ばれた異国の文物や渡来した人々は、紀路を通って大和に入ってのです。
  紀ノ川(奈良県を流れている区間は吉野川と称されています)は、落差が少なくて、途中に滝がなく、古代にはもっと水量があり紀ノ川河口から奈良県下市町千石橋(千石船がここまで遡ったことから千石橋と称される)までは船で遡ることが出来ました。7世紀飛鳥に都が出来たのは、紀路を通ってやって来た渡来系の人々が檜隅から高取町域に多く住み、また紀路を通じ紀伊から遥か中国や朝鮮半島諸国と結びついていた関係にあります。