高取町大字清水谷に所在する集落遺跡で、平成13年12月7日高取町教育委員会は、現在の床暖房であるオンドルを備えた朝鮮半島系の特殊な構造の「大壁建物」と呼ばれる建物跡が出土され、時期は5世紀後半と考えられ、これまで最古とされた渡来人の集落跡遺跡である大津市の「穴太(あのう)遺跡(6世紀後半)」を百年近くさかのぼり「渡来人の最古の集落跡」であると発表しました。
飛鳥地域では初の発見であり、渡来人の先進技術と文化が、後の飛鳥の宮造営の呼び水となったと見られ、専門家らは日本を代表する遺跡で「飛鳥の原点を明らかにする成果」と高く評価しています。
大壁建物は地面を掘って埋め戻し、突き固めた上に柱ごと塗り込めた壁で、囲う土蔵のような構造で、朝鮮半
島から渡来した高度な建築技法です。
6棟の建物跡は6〜11m四方で、2棟のかまど跡からは、それぞれT字形とY字形に延びる溝「煙道」があり、煙の熱で暖をとる床暖房のオンドル遺構であることが判明しました。
また、韓国南部の伽耶地域など朝鮮半島系の土器破片数十点も見つかりました。
「大壁建物」「オンドル」「朝鮮半島系土器」の三点セットが揃った遺跡はこれまでに見つかっておらず、知られざる飛鳥前史に光をあて、これまで伝承に過ぎなかった「いにしえの渡来人」の営みを具体的に浮かび上がらせました。
この地域は古代「檜隅」と呼ばれ渡来系氏族最大の「東漢氏」の本拠地です。「日本書紀」に5世紀後半の雄略天皇の時代に、渡来系氏族を飛鳥地域に住まわせたとする記述と符合し文献伝承を裏付けました。当時は磐余(いわれ)地域(奈良県桜井市)に王宮が置かれていたが、その後、6世紀末から約百年間、飛鳥に集中的に王宮が営まれました。東漢氏の持つ最新の技術・文化が飛鳥に代々王宮が営まれる背景となりました。「清水谷遺跡」は飛鳥のルーツを解明する大きな発見です。
東漢氏(やまとのあやうじ)は、姓(かばね)は直(あたい)で、朝鮮半島の主に百済や伽耶から渡ってきた渡来人で、当初は大和の各地に分散し、渡来時期も出身地も違う個別の集団でしたが、<漢の皇帝の血を引いている>という伝説のもとに、長い年月を経て「東漢氏」として結集し、現在の明日香村から高取町に至る地域に居住し、一族をなしました。
東漢氏は、もともと多様な先進技術を携えて渡来してきた技術集団でした。しだいにその力は蘇我氏に認められるようになり、朝廷では書記、土木技術関係、仏教関係(写経・僧)、漢書の写書、軍官などに任じられ朝廷の中で重用されるようになりました。
後の律令制のもとでは、朝廷は彼らの持っている優秀な技術を再生産するために、学令の規定によって、東漢氏の同族であれば、官人としてのエリートコースである大学に優先的に入学できるようにしたほどでした。
有名な氏族に坂上直があり、わが国の最初の征夷大将軍に任じられた「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」(758〜811)がいます。
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