キトラ古墳・・・・・朱雀とともに眠る被葬者
  所在地は明日香村大字阿部山ですが、その場所は高取町大字観覚寺の東際で高取町に向かって位置する古墳です。高松塚古墳(直径18m高さ5m)の南1キロにあり、直径14m高さ3.3mで7世紀末から8世紀初頭に築造された横口式石槨の古墳です。石槨内部の壁画は、
 
  (a) 天井に金箔を朱線でつないだ星座を表した天文図があります。
  キトラ古墳の天文図は、古墳に明確な星座を描いたものとして高松塚古墳に次いでわが国で二例目となります。
  キトラの天文図は、外側の東に日像(太陽)、西に月像(月)を表現し、天の北極を中心として、一年を通して一度は見える星座の範囲全体を示した円形星座です。そこに描かれているのは中国式の星座です。
  古代の中国では天体の動きに従って人間の吉凶禍福が定められているものと信じられていたため、天空の星座を、太陽が地球を中心に運行するように見える天球上の大円である黄道に沿って、天球を28に区分し、星宿(星座)の所在を明瞭にして、二十八宿を七づつ四つに分け、その四つの星座がおかれた様態を玄武(北)、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)の神獣とみたてて、それを方位の守護神としたのです。

 (b) 北壁に亀に蛇がからまった「玄武」、東壁に「青竜」、南壁に「朱雀」、西壁に「白虎」と、それぞれの方位の守護神である「四神」が描かれております。











 (c) 「四神」の下に人物像のような絵が何か所かにかすかに残り、獣の頭に人間の体をした「子(ネズミ)」などの十二支像(獣頭人身で表現し神像化された守り神)と推測される絵が描かれています。十二支とは、中国や朝鮮半島、日本など漢字文化圏で方位・時刻・年月日を表すものに使った十二種類の動物の名前です。十二支の方位思想とは、北から時計回りに30度ずつ「子、北」「丑、北北東」「寅、東北東」「卯、東」の順になり、方位の守りを意味します。十二支像は、四方の壁の四神の下に各三体ずつある可能性が高いと考えられます。

  「四神」及び「十二支」の方位思想は、古代中国から、朝鮮半島の三国時代である高句麗・新羅・百済を経て倭国にもたらされたものです。こうした方位神は、古代中国において、一切の万物は陰と陽の二気によって生じ、火・水・木・金・土の五行(万物組成の元素)中、火・木は陽に、水・金は陰に属し、土はその中間にあるとし、これらの消長によって天地の変異、災害、人事の吉凶を説明する陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)(わが国に伝来して陰陽道(おんみょうどう)となる)とかかわっています。

  キトラ古墳の被葬者は、死後もなお生前の威光と支配、永遠の栄光と安楽を欲して星図と四神図を墓室に描くことを切実に希求したものと思われます。それは生前の生活と思想のなかから育まれてきた被葬者の欲求と信仰であり、世界観であったものと思われます。このことは同時に、被葬者の欲求と信仰を知る人々が、被葬者の永遠の安息を願って墳墓を築き、その墓室に星図と四神を描いたものと思われます。

 被葬者は渡来系氏族である東漢氏の一族であると考えられます。