大化の改新の陰の立役者は高取町在住の豪族「東漢氏」と「巨勢氏」
  大化の改新は、中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我入鹿を宮廷で誅して成就したことは良く知られています。しかし、この時の蘇我氏の権勢は絶大なものがあり、天皇を凌ぐ政治的な力がありました。渡来系豪族を早くから勢力化におき、その先進の技術力でもって飛鳥を開拓し、また朝廷の財務面を取り仕切り、磐石な経済的基盤を確立しました。
  そして経済的基盤が固まると渡来系の豪族東漢氏を軍事面に専念させ、最新の武器と大陸の兵法を兼ね備えた軍隊も併せて勢力化におくようになりました。古くからの豪族物部氏を倒し、新興豪族として飛鳥朝廷を樹立しました。
  天皇を豪族諸連合国家の大王にして、蘇我氏が実質的な支配者として君臨し、推古天皇や聖徳太子を補佐し、また仏教を積極的に取り入れ、隋との国交も行い統一国家としての初期の飛鳥朝廷の政治体制を確立しました。
  しかし、自分の意志に背く崇峻天皇を東漢氏直駒(あたいこま)に暗殺させるなど、蘇我氏の専横も次第に目立ち始めました。しかし誰にも阻止できない程、圧倒的な経済力と軍事力を備えていました。その経済力と軍事力を支えていたのが渡来系豪族であり、そしてその中心的な豪族が高取町に在住した東漢氏と巨勢氏でした。
  中大兄皇子は蘇我入鹿を誅しても、蘇我氏の強力な軍隊である東漢氏を味方にしないと、このクーデターは一瞬にして覆られることは明白であり、事前にこの渡来系豪族の切り崩しを画策していました。
  中大兄皇子は自ら、蘇我氏と少し距離をおいている巨勢氏の王である徳陀(とこだ)を説得し、味方に付け、徳陀から東漢氏を説得させることにしました。東漢氏は隣人の巨勢徳陀から、日本は国家開闢以来「君臣の区別」があることを諭され、蘇我氏が君臣の義を踏み外していることを悟り、中大兄皇子に味方することを決めました。
  蘇我蝦夷は、頼みとする東漢氏が中大兄皇子に味方したことを知り、甘樫丘の邸宅に火を放ち自殺しました。ここに大化の改新が成就して、日本は律令国家建設に大きな一歩を歩きだしました。
 
  このことは、日本書紀の皇極天皇4年6月条に
「・・・中大兄、将軍巨勢徳陀臣(いくさのきみこせのとこだのおみ)をして、天地開闢(あめつちひら)けてより君臣(きみやっこら)の始めより有ることを以ちて、賊党(あたのたむら)に説かしめたまひ、起(た)つ所を知らしめたまふ。・・・」現代語に訳しますと「・・・中大兄皇子は将軍巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)に、天地開闢てんちかいびゃく、日本の初め)から君臣(天皇と臣下)の区別があることを賊党ぞくとう、朝敵ども、ここでは高向臣国押や東漢氏などを指す)に説明させ、その立場を知らしめられた。・・・」とあります。そして巨勢徳陀臣は、この功により考徳天皇5年4月に左大臣に昇進しています。