薬猟(くすりがり)と波多甕井神社(はたみかいじんじゃ)

日本書紀、巻第二十二、推古天皇二十年(612年)の箇所に「夏五月(さつき)の五日(いつか)に、薬猟(くすりがり)す。羽田(はた)に集(つど)ひて、相連(あいつらな)りて朝(みかど)に参趣(まいおもむ)く。」という記載があります。解説すると、夏五月の五日に、波多甕井神社(はたみかい)周辺(現在の地名でいうと高取町大字羽内から大字市尾辺りになります)で、壮大で華麗な宮廷行事として、鹿の若角をとったり、薬草の採取などを行いました。行事が終わり、諸臣は羽内ほうち高取町大字羽内)に集まって一緒になって、朝廷に参上した。という内容です。

 当時は、聖徳太子が摂政となって、推古天皇を補佐して政治を執り行っていました。有名な十七条憲法の制定や冠位十二階の制定など律令国家体制への基礎固めが推し進められていました。有力豪族が朝廷のためにどのような業績をあげたか評価され、それにより位が決められる位階制度である冠位十二階は、徳・仁・礼・信・義・智の六つの冠をそれぞれ大小に分け、十二階とし、冠の色を使い分け、可視的な身分秩序が制定されました。薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色は皆それぞれの冠の色と同じで、冠にかんざしを挿して正装して参加しました。ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿(さ)していました。大仁は、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していました。色とりどりの冠と服装そしてかんざしを挿した諸臣が、この波多甕井神社周辺で鹿の若角をとったり、薬草を採取する光景は、まさに壮大で華麗な万葉の絵巻物を観るようでした。
  波多甕井神社(はたみかいじんじゃ)は、天照大神を祀っていて、770年に創建され、859年に従五位上に昇叙しょうじょ、位が上がる)されました。従五位上の位は、個人で言えば貴族の範疇です。ちなみに奈良時代に貴族と呼ばれるのは150人位でした。さらに、大宝律令の施行規則を制定している平安時代初期の延喜式という規則集の中の神名帳に記載されている神社(式内大社しきないたいしゃであり、高取町では唯一の式内大社として由緒ある神社です。往古は、広大な社地を有し、荘厳に余りあったと思われます。
  神社の下方の字井戸谷には、老杉に囲まれた「太師井戸」と呼ばれる井戸があり、清水が湧き出ています。この清水が水利に不便な当地にあって、大切な水源(水甕、みずがめであったことから、甕井神社と呼ばれる由縁です。現在でも羽内の人々の飲料水に使われています。
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