阿波野青畝(あわのせいほ)句碑巡り

 明治32年2月、俳人阿波野青畝は、奈良県高市郡高取町大字上子島に生まれました。

少年期から耳が遠く、中学から上の学校への進学を断念せざるを得ない絶望から、「万葉集」をはじめ、読書にふける毎日を過ごしました。

これがのちの俳句創作に拍車をかけることになりました。19歳の時に、「虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児」と詠んだといわれています。

畝傍中学時代に、郡山中学の英語教師・原田浜人に句作の指導を受けていて、郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師弟の間柄になりました。

のちに高浜虚子から、「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」と言われるほどに耳疾そのものが、青畝の俳句にしみじみとした哀歓をただよわせるに至っています。

 昭和3年、青畝の叙情性が最もよく表現された一句が

葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな

です。葛城山は古くから多くの神話を持ち、また修験の聖地でもありました。葛城山が持つ神秘的な光景から写生でありながら、その句は無限の広がりを持っています。まさに俳句の聖人でありました。

山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになりました。

 この句が誌名となり、昭和4年1月、郷里の俳人たちの要請で「かつらぎ」を創刊し、青畝は主宰となりました。

 高取町には、また、4Sのもう一人である高野素十(すじゅう)も一時期住んでいました。素十は、一高から東京帝大を経て医学を修め、昭和9年から35年まで奈良県立医科大学の法医学教授を務めました。この間の一時期、昭和20年前後高取町大字観覚寺に住んでいて、ここから奈良医大に通っていました。素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる「厳密な意味における写生」と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます。

虫の灯に 読み(たか)ぶりぬ 耳しひ児(ご)
                                                 大正6年 18歳作
                     青畝の生家の中庭にある句碑                         

                               昭和60年3月に甥の橋本二郎氏が存建立

【解 説】

  幼い頃よりの耳疾でよく耳が聞こえない。秋虫の音を聞きながら本を読みふけっ
いる「耳しひ児」それは私なのだ。






 「かつらぎ」昭和41年11月号より・・・青畝の投稿の一部抜粋

中学を卒業する前のこと、進学に大きな障害となる、耳の不自由ということで前途暗澹はなはだしく私は苦悩した。ほとんど捨鉢な気分を出して色々な本を読みまくった。人が嫌いで読書の鬼となれば多少気も落ち着くかと考えていたらしい。

久保猪之吉博士(九州大学教授)が耳鼻科専門の立場から、この句を例にして、難聴者は外周の音響が高まるにつれて更に高声で話す現象がある、との意見を新聞のコラムに載せられたことがある。
 もろもろの虫が鳴けば季節のあわれが身にこたえたものだ。じつに玄妙な挨拶を示す自然である。

(そなえいも)耳鼻(げんじびぜつしん)(い)も無(な)しと

昭和20年 46歳作

長円寺の中庭にある句碑

 昭和43年12月に長円寺の住職が建立

【解 説】
  戦時中のこと、長円寺の仏様に供えてあるさつま芋を住職に頂いて、お腹が減っていて、全身で味わって、全身でおいしかったと喜んだ。





【句碑建立の経緯】

青畝は、住職にさつま芋を頂いたのが嬉しかったので、お礼に上記の一句をしたため供えた。

 住職は、青畝より頂いた句を自分だけ一人じめするのは惜しいと思い、昭和43年12月に寺内に句碑を建立した。

【眼耳鼻舌身】
  眼耳鼻舌身とは、般若心経にでてくる「無眼耳鼻舌身意むげんにびぜつしんい、眼・耳・鼻・舌といった感覚器官も身体や心もないとの意)」から引用しています。般若心経は、古代インドで成立した経典で、わずか266文字という短い経文の中に、彼岸にある理想の世界へ渡るための大いなる仏の智慧の心髄を説いている教典です。

葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな

                                                昭和3年 29歳作

 高取中学校の中庭にある句碑

 昭和44年12月に高取中学校の中庭に建立

【解  説】
  郷里の高取からは葛城山がよく見える。寝釈迦の図は、実際には葛城山の山腹にある寺の中にあるが、まるで葛城山腹に寝釈迦が抱かれているがごとく思える。

有名な句なので、どこの寺かとよく聞かれるが大和へのノスタルジーから生まれ句で、特定の寺ではありません。・・・石寒太文

この句を満月のような句だと思っている。俳句表現の見事さを、これほど円満に具えた句もめずらしい。・・・石田波郷

【句碑建立の経緯】

昭和43年に、高取中学校と育成中学校が統合され現在の高取中学校になった。新校舎も建てられ、落成の記念に句碑が建立された。
 この句は、青畝が作った「たかむち俳句会」の当時の会長の亀井淡子
(たんし)さん等が選んだ。

【毎日新聞 昭和38年11月18日】・・・青畝の投稿記事――ふるさとの駅――

葛城の 山懐に 寝釈迦かな

私にはいまも心の生活の象徴になっている。

葛城山をテーマにしたこんな句があるが、故郷の町から西に見える葛城山は、駅へ来るともっとその全容がはっきりした。

荷物を預ける茶店が駅前にあったが、汽車は二時間に一本通る程度。掖上駅はその頃の名は「壷阪」だった。壷阪寺へ参る人たちが利用するように付けた名だろうが、実際は駅から壷阪寺まで随分遠かった。

少年時代の思い出と、駅はいつでも結びつく。憧れの大阪まで行って、鼻が煤煙でまっ黒になって、拭いてもとれないので困った思い出など・・・・・

      句碑を高取中学校から、誰でも観ることができる中央公園に移転

 
 「たかとり観光ボランティアガイドの会」の要請により、平成16年3月に、高取中学校の中庭にあった句碑が中央公園に移転されました。
  今までは、中学校の生徒さんしか観れませんでしたが、中央公園に移転される事により、誰でも観ることができるようになりました。





  中央公園からは、雄大な葛城山が一望できます。 

飯にせむ 梅も(ていご)と なりにけり

                                              昭和17年 43歳作

夢創舘の中庭(ポケットパーク)にある句碑

 平成12年3月夢創舘の中庭に建立

【解 説】
  上京のついでに梅見の誘いをうけた。東京を離れて多摩川の長い堤を、どういうように歩いたかは覚えていない。不便な土地へひっぱられ、見るとあちこちに農家があり畑に梅が咲いている。畑に籾殻などが敷いてありその上を踏んで行くと、見晴らしのきく場所に粗末な置床几をちらしてある。数人の客が甘酒を飲んで遊んでいる。


 句を作るべく、私らは梅の下枝をかいくぐったりする。足が重くなる。冱()え解けの柔らかい土がひっつくからだ。

日はすでに頭の上にあって正午になっている証拠だ。なんとなしにひもじい気持が催して、飯を食う所がないかと人に問いたくなったのである。・・・句集「国原」



【句碑建立の経緯】

 平成12年3月に、かっての呉服屋店を改修して町の観光案内所「夢創舘(土佐街なみ集会所)」が設けられた記念に句碑が建立された。この句は、「たかむち俳句会」が選定した。

満山の つぼみのままの 躑躅(つつじ)かな
                                                昭和21年 47歳作
           
             砂防公園の休憩所の石畳の庭にある句碑


 平成11年3月砂防公園に建立

【解 説】
 これから躑躅の花が、一杯に咲こうとしています。







【句碑建立の経緯】

砂防公園の完成を記念して、町が「町おこし」に句碑を建立しました。当時の筒井町長や「たかむち俳句会」、山口峰玉(ほうぎょく)先生等によってこの句が選ばれました。





「たかむち俳句会」について

青畝の指導の下、高取町は大正から昭和初期にかけて、辻大牙(たいが)、森下紫明(しめい)、亀井淡子(たんし)などの俳人が活躍して俳句が盛況だった。

戦後一時衰退したが、現在は「たかむち俳句会」の方々が、山口峰玉(ほうぎょく)先生の指導の下、青畝の意志を継いで活躍されている。

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