「おい、止めろ、殺すなよ!」サンジはゾロが今まで聞いた事も無い、
裏返った声でそうわめいた。
「ああ?なんでだ」ゾロはそう言って一度抜いた刀を肩に担いで顔を顰め、
サンジに近付いた。普段から(男の割りに白い)と思っていて、最近では
その色あいが堪らなく気に入っているサンジの顔の肌がいつもよりずっと
青白い。
(こいつ、ホントに虫が怖エんだな)とゾロは改めてそう思った。
サンジが怖さに顔を引き攣らせているのを初めて見る。
どんな窮地でも冷静で、死ぬかも知れない状況でも怯えなど一片も見せた事がないし、
そう言う弱みを絶対にゾロには見せたくない筈なのに、
そんな強がりさえ出来ないくらいにサンジは虫人間が怖いのだろう。
「コイツらの屍骸なんか見たくねえっ」と言う顔面からは、冷や汗が滴り落ちている。
酷い目に合わされたのだから、その仕返しにゾロが斬り殺してやる、と言っているのに
彼らの屍骸さえ見たくないとは無視嫌いも相当に重傷だ。

「どうするんだ?」
サンジが助けた自動販売機の女の安全をこれからも確保したいなら、
虫人間は一匹残らず、殺さねばならないが、今のサンジにはもうそんな事は
きっとどうでも良くなってしまっている様だ。
「相手が虫だって分かれば、対処の仕方があるだろ・・・」と、
ゾロの言葉に返す声に力が無い。
傷は浅いが、自分がもう少しで蛆虫のエサにされていたのかも知れないと言う事で、かなり大きな精神的ショックを受けて、すっかり生気を失っている。
(自業自得だ)と思うけれど、ゾロは抱き抱える様にして立たせてやった。
サンジはそのゾロの手も振り払う気力もないらしい。
(フヌケみたいな面してやがる)とサンジの顔を見て、ゾロはそう思った。
こんな顔も初めて見る。却って、新鮮で、数秒、まじまじと見詰めてしまった。
きっと、何年経ってもその間抜け面は忘れない。

そして、いつもは少しでも労わられた、と感じた途端、激しく反発するサンジが今、
ゾロの気遣いをごく自然に素直に受け入れている。
ただ、それだけの事なのに、約束を破ったと言ってイライラしていた鬱憤は
霧が晴れる様に消えていく。

「案外、早くカタがついたな」と言うものの、もう宿に戻って酒をのんびり飲んで
その後、寝床の中でゆっくり楽しむ時間は無さそうだ。
二人はその足で船に戻る事にした。

「酒、買い直そうぜ。お前、どっかに置いて来たんだろ」
例の自動販売機の路地の近くを通りかかる頃、やっとサンジはいつものサンジらしさを
取り戻し、ゾロにそう言った。
「誰の所為で置いてくるハメになったんだよ」と数歩先を歩いていたゾロが内心、
ホっとしながら仏頂面で振りかえる。
「・・・俺の所為だ」とサンジは拗ねた様に目を逸らした。

「何が自動販売機だ」とゾロはまた、「イラッシャイマセ・・・」と言う声を聞きながら、
サンジが買った酒を機械から取り出す。
「何がって何が」とサンジはゾロに半分だけ背を向けてゾロの言葉の意味を尋ねてくる。
「この声、あの女の声なんかじゃねえだろ」
似てはいるし、そうとも言えない事もないが、ゾロはサンジを助ける為にその女に
道案内させる途中で、聞いて見たのだ。

「あんた、自動販売機の声の女か?」
「え?自動販売機?なんの事ですか?」
女はゾロの言っている意味がサッパリ判らない様だった。

「お前が女の声をああ簡単に聞き間違う筈がないとして、だ」
「最初から自動販売機の声なんてどうでも良かったんだろ」
そう言ってゾロは酒の瓶を抱えてサンジに詰め寄る。
「なんでそんな回りくどい事やった?」

サンジは煙草をずっと咥えっぱなしで何も答えない。
「それなりの訳があるなら、聞かせてもらおう」とゾロはサンジに答えを急かす。
「なんでいつもみたいに勝手にすっ飛んで行かなかった?」

「・・・そりゃ・・・」サンジは見るともなしに自動販売機の中の陳列用の酒瓶に
目を向けて口篭もっている。
「その・・・あんまりガッカリさせてばっかじゃ悪イかなあ、なんて思ってさ」
「ああ?」
ゾロはサンジがようやく話し始めた言葉には、大事な主語がいくつか抜けている所為で、
その意味が理解できずに聞き返す。
サンジは足もとに煙草を投捨て、靴の裏でその火を踏み消しながらなんとなく、
照れ臭そうな、少しだけ申し訳なさそうな微妙な口調でゾロの質問に答え始めた。
「今度こそ、約束は守ろう、と思ってたんだ」
「本気で嫌だと思うくらいなら、最初からお前と約束なんかしねえ」
「同じ部屋で一晩、一緒にベッドで寝て過ごしたいって思わない訳じゃねえ」

「でも、俺の勝手で飛出したらお前、また怒るし、不満を貯めるだろ?」
「それがその・・・悪イと思って・・・」
「言い訳が欲しかったんだ」

(何言ってんだ、こいつ?)とゾロはサンジの言葉の意味が全く飲み込めずに
思わず、首を捻る。

途中までは分かった。
(約束は守るつもりだったんだよな?)
(でも、そこに女が助けを求めてて・・・それを助ける気になって?)
(俺よりもその女を優先する為に言い訳が欲しかったって?)
(それが"酒を買わせてくれた自動販売機に恩返しする"と言う突飛な理屈だったってのか?)
(アホか、こいつ)

「いつもやりたい放題やるくせに」とゾロが独り言の様に呟くとサンジも同じくらいの
声の大きさで「だから、今回は何があっても約束は守るつもりだったっつっただろ」と
言い返してきた。

「なんか、約束を破って怒らせてばっかりいると、いい加減、本気で・・・」
「愛想尽かされるかもなア、なんて思ったからさ」

(本気で言ってるのか?)とゾロは思わず、サンジのその言葉を聞いて絶句する。
そんないじらしい事をサンジが本気で言うなんて、自分の耳を疑いたくなる。
それ以前に、サンジの腹の中を疑いたくなってしまう。
表情から探ろうとしたけれど、サンジは照れ臭そうに背を向けてしまった。
耳がなんとなく赤く見える様な気がするのは、気の所為だろうか。

本当に本気でそう言っているのなら、きっと顔も真っ赤になっている筈だ。
それをゾロに見られるのが恥かしい、だからサンジは背を向けた。
口先だけで嘘を並べるつもりなら、却ってもっと大きな態度をとるか、わざとらしく
上目遣いでゾロを見たり、喋っている途中でいきなり口付けして来たりして
曖昧にゾロの腹立ちを誤魔化すのが得意なのに、そうしない仕草が却って
真実味がある様にゾロには思えた。

(俺が怒ろうが、どうしようが、あんまり気にしてねえのかと思ってたのに)
ゾロの挙動をちゃんとサンジは気に掛けている事が分かって、また少しゾロは嬉しくなる。
自分でも呆れるほど単純だ。
あまりにサンジが健気な事をいい、
その後もゾロが腕の傷を自分の黒手ぬぐいで巻いてやっても、
足の傷が痛まない様にと、歩くのに肩を貸してやっても、いつもと違ってとても素直に
ゾロの手の優しさを受け入れるそのサンジの態度についつい、ゾロはいつも以上に
サンジに優しい言葉をたくさん与えたくなってくる。

「これくらいの事で愛想尽かすワケねえだろ」
「自動販売機がどうのこうのなんて、そんな下らなねえ理屈を考えるくらいなら、
好き勝手やってろ」
「お前がどこの女のケツ追い回しても、気が済んだら結局俺のところに戻ってくるうちは、」
「何時間でも待っててやるよ」

そう言った途端、サンジはイヤに嬉しそうに黙って微笑む。
ゾロがその微笑みの意味がわかるのは、もうあと何度か、こんな経験を重ねた後だ。

その自動販売機で買った酒はなんだかやけに甘かった。


(終り)