「この子は、僕がいないと生きていけないんだからね。」

そう言った兄はケイに意味深な目配せをした。
その兄妹しか判らない僅かなやりとりをサンジは見逃した。

「取引ってのは、立場が対等な者同士がやる事だ」とサンジは冷然と言い放った。
2度とこんな変態に言いなりになど絶対にならない。今は、それだけの力もあり、
なんの引け目もないのだから。

「俺はあんたに解毒剤をくれ、って頼んでるんじゃねえ。」
「寄越せ、と脅してるんだぜ。」

そう言ってサンジは数歩、緩慢に歩いて、壁際に飾ってある女性の裸体の彫像が
花を捧げ持っている調度品に近付いた。
ポケットに手を突っ込んだまま、足を振り上げる。
女性の頭の部分へと戸惑いなく、真っ直ぐに踵を振り下した。

ヒビが入るどころか、その彫刻は一瞬で粉々に割れ、床に零れた水が飛び散り、
生けられていた花は千切れて無残に散らばった。
その様を見て、ケイが息を飲む。

「そんなネタで俺を玩具に出来ると思ったのか。」
「その頭を砕かれたくなかったら、さっさと解毒剤を持って来い。」

兄はまた、ケイに目配せをした。
その目配せは、サンジにも判った。ケイは怯えた様に頷いて、黙って
部屋を出て行く。義足がズレてしまったのか、酷く足を引き摺っていた。

その痛々しいほど細い肩と自分と同じ色の髪が美し過ぎて却って、悲愴な風情の
ケイの背中をサンジは黙って見送る。

「随分、乱暴に育ってしまったものだね」とケイの兄が馴れ馴れしくサンジに
微笑みかけても、サンジはその存在を見もしない、聞きもしないで、完全に無視する。
睨みつけると視界に入る。罵倒や脅しであっても喋れば声を聞いてしまう。
これ以上、この男の顔を見るのも、声を聞くのも忌々しかった。

ケイは小さな瓶を握り締めて兄とサンジが待つ部屋に向かって歩いていた。
その足取りは足を引き摺っている故に重いのではなく、自分が今から兄の指示に
従ってしなければならない事に対して、怯え、怖れ、そして、
強い罪悪感に苛まれているからだ。

(私がグズグズしていたらシビレを切らして帰ってくれないかしら)と
サンジがこの家から立ち去ってくれる事を期待したが、その気配はない。
兄達のいる部屋に戻る途中の廊下で何度も立ち止まる。
兄に逆らう事などケイには出来ない。

どんなに酷い仕打ちをされても、酷い言葉を言われても、最終的には兄はケイに
優しい。焼け爛れた体、汚れた体でこの先、誰が自分を愛してくれるのか、それを
自問自答した時、ケイ自身が見つけた答え、それがケイを兄に隷属させた。

ケイは瓶を一旦、摘んで持ち、震える手で兄が自分に与えた特別誂えの指輪を
そっと嵌めた。

(神様、私達兄妹をどうか、お救い下さい)と心の中で贖罪し、唇を噛み締める。

「これが解毒剤です、サンジさん。」

サンジはなんの警戒もなく、ケイに手を差し伸べた。
ケイとサンジの眼が合った。
そのサンジの目は、ケイを憐れんでいた。ここから出て幸せになる道を
探すべきだ、とケイに語り掛けている様にさえ思えた。
一瞬、それに縋りたい、と言う衝動が体を突き抜けた。

けれど、(この人に助けを求めてはダメ)すぐにケイは眼を伏せる。
(誰も私を救えはしない)今までに積み重ねた罪に、一つ加算されるだけで、
この地獄から救われる術など今更、求める事さえ罪になると思った。

「ありがとう」と差し出されたサンジの手をケイは握った。
毒針と言う飾りがついた指輪が嵌った白い手で。

何人、肌の美しい者を兄の餌食にしてきただろう。
金色の髪と滑らかな肌をしていたら、女も男も子供も関係がなく、
兄はその肉体に対してケイが目を背けたくなるほど卑しく欲情し、
時には力任せに、時には、今のサンジのように昏睡させてベッドの中で
己の肉欲を満たす。その様をケイに見せつける。

「本当はお前とこうしたいんだ」
「僕が本当に愛しているのはお前だけなんだから」と別の人間との肉欲に溺れて、
恍惚とした声でケイに呼び掛けるのだ。

「自分が僕に抱かれていると思えば、目を逸らしてなどいられない筈だ」

僕が愛しているのは、お前だけ。

嘘だ、と思う。
血の繋がった兄と妹で許されることでもないとも知っている。
けれども、嘘でも、罪でも、自分が必要とされているなら、
自分で死ぬ勇気もない以上、それに縋って生きる寄る辺とするしかない。
それがケイが見つけた答えだった。

意識のないサンジの肌は今まで、兄が弄んだ者達と比べても抜きん出て美しかった。
見る間に皺だらけになっていく白いシーツに投げ出されたまま、動かない四肢も

(火傷さえしなかったら私も)あんな風だったのだろう、といつしか、
ケイは兄の一方的な行為に知らず、見入っていた。兄に抱かれているのはサンジの体、でも側でそれを見じろきもせずに眺めていると、

皮膚が引きつれた乳房に、皮膚を移植した小さな傷跡が残るうなじに兄の指や唇が
触れているような錯覚さえ覚えて、心だけは兄に抱かれているような、
愛されているような幻想を見る。

兄が香油を滴り落ちるほど手に受けていた。
その芳香が部屋中に立ち込めた時、サンジと兄の下半身から湿った音が
聞こえ始める。

ケイは耳を塞ぎ、目を閉じ、体を丸めてうずくまった。
こんな事は違う、といつもその時に我に返り、自分の罪の重さに慄く。

兄さんが愛しているのは、私ではない、と兄の快楽から漏れるうわ言のような
喘ぎを聞く度に胸が張り避けそうになる。


サンジが目を醒ましたのは窓の外がもう既に真っ暗になった頃だった。

気だるい嫌な疲労感をまず、全身に感じた。
猛烈な眠気が目が醒めているのに 思考をぼやけさせる。

(どこだ、ここは)
疲労が蓄積し過ぎて眠れないのに眠い、と言う感覚をサンジはベッドの中で感じて、まず、それに抗う様に体を起こした。

ベッドの側には自分の服がていねいに畳んであった。
その上に小さな瓶が置いてある。

可愛げな小ぶりのランプに灯りが灯って、ほんのりと部屋は明るかった。

上質のガウンのようなものを羽織ってはいるが、下は素っ裸だ。
(ッツ・・・)起き上がろうとして、下半身に疼痛が走り、自分の体内から生暖かい
どろりと粘り気のある液体が流れ出すのを感じた。

胸元には点々と赤い痣が残っている。
何が起きたのか、サンジはやっと理解出来て、そして、愕然とし言葉を失った。

着替えを済ませるのをどこかで見ていたかの様に、部屋のドアがノックされた。
「サンジさん」とケイの声がした.

「入って来ない方がいい.」
サンジはドアの方を見もせずにケイの声に答えた。

「今君の顔を見たら 本当に殺すかも知れない」
「2度と俺の前に現れないでくれ」

そう言うのが、精一杯だった。
酷く疲れて、何も考えたくなかったけれど、サンジは瓶をポケットに入れて、
窓を蹴破った。

(どうしてこんな目に遭わなきゃならねんだ)とサンジは悔しかった。
意識があろうとなかろうと、あの男に犯された事には変わりはない。
なめ回されてべたつくような気がする肌、湿ったままの体の奥、自分の何もかもを
汚されて、報復する力さえ今は出せない。

誰もいないところでゆっくり休みたかった。
体を綺麗に洗い流して、吐くほど酒を飲んで、泥の様に眠って、悪い夢だと
思えるなら、なるべく早くそうしたかった。

だが、解毒剤を一刻も早くチョッパーに届けなければならない。

サンジは体を引き摺る様にして、仲間の待つ宿に帰った。

「サンジ、お前、どこに行ってたんだ!」
宿の玄関を開けた途端、ウソップがサンジに向かって責めるような口調でそう言った。

「朝、言わなかったか?昔の知り合いに会いに行くって」
「ナミとロビンの具合が悪くなったんだ。町の医者にもチョッパーにも
その理由がわからなくって」

(あれは脅しじゃなかったのか)
サンジはウソップの話しを聞いてケイの兄の
言った事が紛れもない事実だった事を改めて思い知らされる。

「これをチョッパーに渡してくれ。解毒剤だそうだ。」と例の瓶をウソップに渡す。

「お前、これをどこで手に入れたんだ」とウソップはそれを受取り、目をむいて
サンジに尋ねるが、もう、サンジは口を利くのも、立っている事さえ億劫になっていた。
「悪イ、疲れてるんだ.ワケは後で言うから、とにかく寝かせくれ」

「そう言えば、お前、顔色が悪イぞ。怪我でもしてンのか」とウソップが
怪訝な顔でサンジの顔を覗きこむ。

サンジの胃がギリギリと軋んだ。それはケイに刺された毒の所為なのか、
それともサンジの心が悲鳴をあげている合図なのかは判らない。

「いいから、早く持って行けよ。」とウソップを押し戻してサンジは
自分の部屋に戻った。

正直、目に付くところにゾロがいなくて、こんな憔悴した顔を見られなくて良かったと
安心した。
そして、一気に力が抜けた途端、胃の痛みはますます激しくなった。

(やっぱり、ダメだ)その痛みに耐えて体を丸めながらサンジは思った。
こんなにおぞましい爪痕が体中に残る行為など、とても出来そうにない。