耳を劈く轟音がひっきりなしに鳴り響く。

今だ、意識を失ったままなのは、チョッパーとサンジだけであとのものは、
どうにか動けたので、コニスが待つゴーイングメリー号に帰りついた。

(ウソップさん、皆さん、無事だったんだわ。)とコニスは遠くから
その一向の姿を観止めて、安堵の溜息を漏らした。

だが、いざ、乗船し、出航する時になってナミとルフィがいない事、
チョッパーとサンジの意識がとても戻りそうにない程、重傷だと言う事実を思い知らされる。

「意識が戻ったところで、ちゃんと医療行為が出来るかどうか、わからねえぞ。」と
ウソップは、しきりにチョッパーを呼び起こそうとするロビンにそう言った。

「体が動かなくても、どんな薬が効くのか、どんな治療をすればいいのかさえ、」
「教えてくれたらなんとかなるかも知れないわ。」
「船医さんの怪我よりも、コックさんの方がずっと酷いのよ。」
「一刻も早く、なんとかしないと。」

(なんとかしないと、なんだ)とゾロは自分が担いできたサンジをそっと、
キッチンに設えられていた簡易の寝台の上に寝かせながら、ロビンの言葉を
腹の中で聞き咎めた。

声に出して尋ねて、返って来る答えを聞くのが怖いから、声が出せないのだと言う
自分の心理に自覚はない。

人間の肺が潰れるほどの水圧の中、血反吐を吐きながらも死ななかった男だ。
雪に押し潰されて、背中の骨を折っても、死ななかった男だ。

(こいつがそう簡単に死ぬ訳ねえだろ)とまた、心の中でロビンに反発し
その自分の思いが間違いでない事をサンジの姿を見る事で確認したくて、
ゾロはサンジを見下ろした。

その途端、背中に寒気が走る。

アラバスタの雨の夜、包帯だらけになって眠っている顔を見ているし、
ドラムで怪我を負った後も、平気で自分に喧嘩を売って来た、そんな男がただ、
瞼を閉じて眠っている、見慣れてもいないが、さして動揺するほどのものではない。

その筈なのに、ゾロはサンジの顔を見て、息が出来なくなった。

見下ろした、サンジの顔には生気がまるでなかった。

今でだって、何人と数えきれないほどたくさんの人を斬り、その中には
少なからず死んだ者もいるだろう。
今、自分の心臓を嫌な温度の血が巡る。
そんな感覚は、人の死に顔を初めて見た時の衝撃に似ていた。

(死ぬな)と口に出せず、棒立ちになったまま、サンジを凝視する事しか、
ゾロには出来ない。怯えて、くすみ上がって身動き出来ない感覚がゾロの心も
体をも支配している。

(なんでだ。)
廃墟で血まみれのチョッパーを見た時の動揺とは違う。
その訳をゾロは自問自答する。

人間は、とてつもなく強靭だと思う。
特に、自分は超人的に、そして、このコックだって同じ筈だ。
このくらいの火傷で死ぬなんて、有り得ない。

それよりも、戦闘慣れも怪我にも慣れていないチョッパーの方がずっと
ひ弱で、ロビンとウソップに呼び掛けられてもなんの反応もせずに
横たわっている姿を見ても、全身が寒さに浸透されるような動揺は少しも感じない。

頭ではそう思っているのに、目と心がサンジに集中する。

あれだけ、剣も強く、丈夫この上ないくいなが死んだのは、
ただ、階段から落ちて頭を打った、と言う事故だった。
それだけの事で人間は死ぬ。
どれだけ体が丈夫でも、運が尽きれば人はあまりにあっけなく死ぬ。

なぜ、今、そんな事を思い出したのか、ゾロには判らない。

自分が死ぬ、なんて事は考えた事もなかったし、だから、怖いと思った事もなかった。
死、と言うものは自分からとても遠い物だとどこか奢っていた事にゾロは
気が尽く。

人間の肺が潰れるほどの水圧の中、血反吐を吐きながらも死ななかった男でも、
雪に押し潰されて、背中の骨を折っても、死ななかった男でも、

あの日の、くいなの様に。
あまりにあっけなく、眠ったような顔のまま自分の前からいなくなってしまうかも
知れない。それも永遠に。

そんな事が頭を過った時、全身に鳥肌が立った。
何故か、眼球にだけ、痛みと熱さが走る。

傷ついたサンジの体を担いでいる時から、ずっと思っていた。
(こいつ、こんなに頼りねえ体をしてやがったのか。)

生命力が迸るほどの肉体しか見た事がない。
喧嘩する度に、振り回す足の力強さと、笑ったり、怒ったり、皮肉っぽく顔を歪めたりする、鮮やかな表情の変化を見せる顔しか知らない。

身動きもしない体に触れて、こんなに細い体をしていた事を初めて知った。
煙草を咥えず、罵声を吐かない弛緩した唇が
常に気強く輝いているのに、薄い皮膚に遮られているだけの固く閉じられて開く気配が
微塵も感じられない瞳がこんなにこんなに自分を慄かせる事を

自分以外の者が目の前で死ぬ、その恐怖にこんなに自分が怯える事を、

ゾロは初めて知った。

そして、その怯えに抗う術をゾロは見つけられない。
でくの棒の様に言葉の一つも出せずに呆然と立ち尽くすだけだ。

ただ、目がやたら痛くてその痛さに耐え切れずに瞬きをした。
目尻から、熱い雫が零れ落ちた。
鷹の目のミホークに無残に敗れた時と、くいなが死んだ時にしか流したことのない
涙がゆっくりと鼻筋をなぞって伝い流れ落ちる。

(なんで、泣く事がある。)と自分自身でもその涙の理由が判らない。

死ぬな。
死ぬな。

死ぬな。
死ぬな。

涙が零れ落ちた後、頭に浮かぶのは、その言葉だけだった。

目の前からいなくなる。
声も聞けない。
姿も見えない。
当たり前の様に食べていた食事も追憶の中に埋もれて2度と口には出来なくなる。
どれだけ呼んでも叫んでも、自分の声も届かない。
思い出だけを残して、何も届けられない所ヘ逝ってしまう、

死、とはつまりそう言う事だ。

取り残される哀しみは、鋭い爪で引っかかれたような傷跡を心に残す事をゾロは
くいなの死に寄って身に沁みている。

それと同じ事を再び経験する事が怖い。

大事な者を失う辛さ、その事が創り出す感情の激流に飲み込まれて
もがく苦しさを味わうのは嫌だ。

だから、ただ、思って、願う。
それしか出来なくても、

死ぬな。
死ぬな。
死ぬな。

と繰り返す。そして、ゾロはその言葉を呟く自分の声で気がついた。

サンジは
今の自分に取ってこの生意気でソリの合わないこのコックは。
(大事な奴なんだ。)

だから、失いたくはない。
死ぬ姿を見据えるなんてとても出来ない。

「ゾロ、何やってンだ。」
「コックさんに呼び掛けてあげて。」

自分に向かって咎める様にそう言う、ウソップとロビンの声でゾロは我に返った。

「呼び掛ける?」呆然としたゾロの声だけれど、ウソップとロビンには
それはとても落ち着き払った口調に聞こえた。

「このまま、眠ったままだとどんな具合なのか判らないでしょ。」
「なんでもいいから、気付かせて。」

口早に言う、ロビンの言葉にゾロは頷いて、サンジの側に跪く。
間近で見ると、呼吸さえもう既に止まってしまっているかに見えた。

また、背筋に寒気が走る。
だが、ゾロはもう、言葉を飲み込む事はなかった。

今自分が出来る唯一の事がそれしかないのなら、精一杯声を張り上げて。

初めて、名前を呼んだ。

「起きろ、]


「目を、開けろ」



「サンジ。」



(終り)