断絶して、そして縫合した神経や腱が滞り無く、回復に向かっている事を
確認して、やっとチョッパーはサンジの傷ついた右手に麻酔を処方した。

痛みはないが、その所為で力も入らない。
だから、モノが握れない。

手首から先の感覚がないのは、却ってサンジを不安にさせるのか、
やっと痛みから解放されたと言うのに、顔色は冴えなかった。

船はまた、不天候に見舞われる。
どんよりと曇った空からはか細い雨が降り、時折、強い風が大きな波を
引き寄せて、ゴーイングメリー号の小さな船体を弄ぶ。

「やり過ごしましょう。」次の島までどれくらい掛るのか、まだ判らない。
側に島陰を見たナミはその無人島に舳先を向けた。

ログが溜まるか、溜まらないかは不明だった。
ただ、この悪天候は嵐が来る前触れだとナミは確信して、サンジと言う
クルーが欠けている今、無理にその嵐に突っ込むのは危険だと判断した。

小さな岩だらけの島の入り江の中に碇を下ろす。
入り江の中でも帆を畳んだ船は風に荒れる波に揺らされた。

それでも、荒れ狂う海と戦う夜よりはずっと穏やかに過ごせる。
「どんな島か判らないから、見張りは必要ね。」とやはり、
ゾロが見張りをする事になった。

サンジは、痛みにのたうち回った疲労の所為か、ナミの部屋でこんこんと
眠っている。

ゾロは、一晩中、雨に打たれ、嵐の入り江を眺めながら見張り台で一人きりで
過ごす。いつも夜食を持ってくる者を無意識に待っているのか、誰も来ないと
判っていても、見張り台へと登るロープが軋む度につい、
その音がなる方向へと顔が向く。

(あいつ、)昼間から、ぐっすりと眠っていた。
(そろそろ目を醒ます頃かも知れねえ。)

「世界中で、一番、お前が大キライだ。」と言った時の熱の所為でやけに
潤いのある目をして、照れくさそうに笑っていた顔と声が急に脳裏に浮かぶ。

顔の温度が急上昇して、筋肉が勝手に妙な具合に動いて、ゾロはそれを押える為に
掌で雨でズブヌレの顔を撫でた。

もしも、側にナミがいたら、「なに、そのだらしないニヤケた顔」と言って
バカにした目でゾロを見るだろう。

自分でも馬鹿馬鹿しいと思うくらい、猛烈にサンジに会いたくなった。
顔を見たくなった。
ロープを降り、数歩歩いてドアを開けばそこにいる。

サンジなりの精一杯の純粋な気持ちが篭った素直な言葉に、
浮き彫りにされる筈の罪悪感が薄れてしまっている。
サンジの怪我の原因が自分だと判り過ぎるほど判っていて、その償いをどうしても
しなくては自分で自分が許せない、そんな気持ちも確かにあるのに、

(みっともねえ。)と我ながら思う程、ゾロは嬉しくて溜まらなかった。
あの時、力一杯抱き締めたかったのに、その力がサンジの手に痛い思いをさせると
思ってただ、サンジの胸元に顔を埋めて、その「だらしないニヤケた顔」を隠すのが
精一杯だったのだ。
そんな事を考えていると、また、ロープが軋む音がした。
登って来るリズムは、やっぱりゾロが待っている人間ではない。

「ゾロ、交替だ。」と上がってきたのは、ウソップだった。

「ズブヌレだな。」とウソップはゾロの姿を見て、呆れたようにそう言った。

まるで、深まる秋の嵐の様相で風に乗って吹きつける雨はやたらと冷たい。
ゾロは雨よけのマントをウソップに手渡し、そんな雨に打たれながら、見張り台を降りた。

そのまま、男部屋に向かうより先、まだ、サンジが休んでいる筈のナミの部屋へと
勝手に足が向いた。
こんなに短時間、雨と風に吹き晒されただけでゾロの体は冷えきっている。

ノックはしない代りに、ゾロは音を立てないようにそっとナミの部屋のドアを開いた。

その隙間から差しこむ僅かな光りで部屋の中の様子が見える。
サンジがベッドの上でゾロの気配に反応して寝返りを打った。

「起きてたのか。」「妙な揺れだからな。」

ゾロの呟きにサンジは横になったまま答える。
ゾロはその言葉に答えるより先、靴を脱ぎ、一歩、一歩、足音を忍ばせて近付く。
ほんの微妙な振動でさえ激痛を感じると言う状態ではないのに、ゾロは自分の
立てる音がサンジの体に痛みを与える事がないように、と無意識に気遣っていた。

そのゾロが歩いた跡には水が滴り落ちて染みが出来ている。

「妙な揺れ?」とゾロはサンジの声を聞き漏らす事のないように、ベッドの側で
ひざまづきつつ、サンジの言葉をそのまま、聞き返した。

「停泊してる時の揺れ、嫌いなんだ。」
「それは、ホントか。」ゾロはからかう様にサンジに尋ねる。

「お前は嘘吐きだからな。」ゾロのそんな戯言にサンジは小さく声を立てずに息だけで
笑った。

「雨、強そうだな。」とサンジはゾロを見上げてそう言った。
部屋の中でやっと気がついたが、吐く息が白いほど、気温が低い。
それなのに、ゾロは全身ズブヌレのままだ。

寒いと感じる体には、怪我の所為で少し熱を帯びたサンジの体、
それを大事に包んでいるベッドの中の温もりがとても心地良さそうに見える。

(こいつだけだろうな。)とゾロは思う。
同じ状況でどこの誰が目の前で横になっていても、その隣に滑り込んで、
その温もりを分けて自分を温めて欲しいなどと思う事は絶対にない。
そんな風に甘えにも似た感情をゾロに抱かせるのは、世界中でもサンジだけだ、と
ゾロは改めて思った。

そんな想いを込めて、ゾロは無言のままサンジの唇に口付けた。
軽く、触れるだけ、まるでエサをついばむ小鳥のように、軽い接吻を数回
繰り返す。

「冷てえな。」とサンジはその合間にまた、呼吸を震わせて笑った。

「寒くて死にそうだ。」とゾロは少しだけ顔を離してサンジを見下ろした。
「凍え死ぬかもしれねえ。」

「バカか。」とサンジは今度は喉の奥で小さくククっと音を立てて笑う。
「氷漬けにされたって死なねえだろ、お前。」

「ここは、ナミさんの部屋でナミさんのベッドだぞ。」とサンジは
柔らかで、少し、皮肉めいた目つきでゾロを見上げている。

「そんな事くらい、判ってる。」とゾロはビショヌレの上半身の服だけを
脱いだ。

「お前がイイって言うまで何もしねえよ。」

(まだ、俺は俺自身を許せてねえのに。)と心が咎める。
それでも、ゾロは今、まるで駄々をこねる子供と同じくらいの理不尽さで
サンジの温もりが欲しかった。

温もりだけが欲しくてたまらなかった。

食欲も性欲も、暑さも寒さも、痛みも、どんな辛さにも耐える自信がある。
でも、サンジが欲しい、と言う欲求にだけは抗えない。

ゾロがこの世でたった一つだけ、自分でも制御しきれない唯一の欲求だった。

サンジは答えずに、ただ、寝返りを打つ。
ゾロに背中を向けたけれど、その分、ナミのベッドに一人分の隙間が出来る。

それから、サンジはもう一度寝返りを打った。

「迷惑なんだが。今やっと寝つけそうなのに。」とゾロと鼻先が触れるほど
近くに顔を寄せてサンジは顔を本当に迷惑そうに顰めて見せた。

「それはホントか。」「ホントだ。」とゾロの問いにサンジは下手な役者の大根芝居の
様に大仰におおマジメに答える。

「お前は嘘吐きなんだよな。」また、ゾロがサンジに尋ねる。
心の中は溢れそうな程、暖かで優しいモノで満たされていく。

「ああ、嘘吐きだ。」と答えたサンジの唇をゾロはゆっくりと塞いだ。

ゾロの髪の感触を確かめるか様に、サンジの包帯でぐるぐる巻きの右手の指が
ゾロの髪を梳く。




「ビショヌレで冷てえな。」冷たい感触も、ゾロの髪の感触も麻酔が掛っていて


何も感じない筈なのに、確かに感じるのは、きっと サンジの脳に刻み込まれた
記憶の所為だとサンジは思った。

「お前、まだなんか悶々してそうだな。」とサンジは唇を離してから
ゾロの目を覗きこむ。

「怨み言の一つくらい、言ってくれるといっそ、スッキリするかもな。」とゾロは
図星を刺されて、苦笑いしながら答える。

「そんなのねえよ。そうだ。」とサンジは一瞬、ゾロの言葉に困惑げだったが、
すぐに気を取り直して、
「俺が寝つくまで絶対エ寝るな。」
「もし、誰かが入って来てみろ、こんな恥かしい事はねえからな。」
「俺が寝たら、ここから出ていけ。」と囁いた。

「それで、勘弁してやれよ。」とまるで他人事の様に言って
サンジはゾロから少し体を離し、仰向けになって目を閉じた。

ゾロが自分自身を許していない事を知っているからこそ、サンジはそんな風に
言ったのだ、とゾロには判る。

温かなベッドの中で重なり合っているのは、掌と心だけなのに、
冷たい雨に冷やされたゾロの体は少しも寒さを感じなかった。

「余計なお世話だ。」と答えた時には、もうサンジから何も答えは返って来ず、
静かでなんの警戒もない、穏やかな寝息だけが聞こえた。

「俺が寝たら、ここから出ていけ」と言われたけれど、ゾロは
すぐにはその場から離れられずに、自分が寝入ってしまうギリギリまで
サンジの側に身を横たえて、その寝顔に見入っていた。

サンジが愛しいと思えば思うほど、自分の失敗が許せなくなる。
その罪悪感をサンジが優しく包んでくれればくれるほど、居た堪れなくなる。

もっと優しくしてやりたいのに、その方法が判らなくて、
今は、闇雲にサンジの側にいたいとそれだけの事しか考えつかない。

「こう言う時に限って、優しいってのも堪えるモンだな。」とゾロは呟き、
サンジを起こさない様にそっと体を起こした。

言われた通りにベッドから出るけれど、やはり離れたくなくって、
結局、ベッドに凭れたまま、ゾロは瞼を閉じる。

朝が完全に開けるまで、雨は止みそうになかった。

(終り)