「ふわあああ〜。」チョッパーは背伸びをし、それから大あくびをした。
「眠そうだな。」となんとなく、ゾロがその仕草を見て言うと、
「サンジの手当てに時間が掛ったし、それから全然休んでないから、ちょっとくたびれた」と目を擦った。

「何かあったら起こすから寝ろよ。」「別に何もないと思うけど。」と
ゾロの言葉にチョッパーは疑わしそうな眼差しを浮かべて答え、「俺が寝たら、
この部屋に入ったりしない?」と尋ねる。
「入らないし、誰も入れねえ。船医の替わりにしっかり門番やるぜ。」とゾロは苦笑いして答える。

「じゃあ、寝る前に1度、塗り薬を塗るよ。」
「ゾロ、それくらいはやらせてあげる。」

思い掛けないチョッパーの言葉にゾロは驚いて、黙ったまま、まじまじとチョッパーの顔を見る。
「いいのか。」「うん、俺、本当はもう立つのも億劫なんだ、サンジの枕もとにあるから、」
「掌の傷にそっと塗るんだ。」

手を消毒してからだよ、と言うとチョッパーは本来の獣型に姿を変えて、
丸くなって眼を閉じた。

ゾロへの気遣いと言うよりも、本気で疲れていたのだろう。
すぐにスーピースーピーと小さく鼻を鳴らして眠ってしまった。

ゾロは音を立てないようにしてそっとナミの部屋のドアを開け、再び、
中へ入る。

普段のサンジなら、ゾロがどれだけ気配を殺してもすぐに気がつくのに、
手の痛みに全神経が集中しているのか、ベッドに伏せたままだ。

「薬、塗らせてもらうぞ。」とゾロは囁く様にサンジに声を掛ける。
すると、サンジは気だるげにやはり、手に衝撃を与えない様にゆっくりと体を起こして、
効き手ではない左手で、右手の包帯を取ろうとする。

「やる。」とゾロはベッドに歩み寄り、目だけを動かしてチョッパーが言っていた、
塗り薬を探しながら、サンジの通常の倍に腫れた指が覗く右の手を
決して痛みを感じる事がないように、羽根で触れるよりも優しく自分の手を添えた。

塗り薬はチョッパーの言っていた場所にある事を確認し、すばやく、サンジの表情に視線を移す。自分の手がサンジの手に痛みを与えていないかを、サンジの病みやつれたような虚ろな眼差しの中に探るが、どうやら大丈夫のようだった。

ゾロはゆっくりと包帯の結び目を解き、一重、一重、そっと、息をするのも忘れるくらいの繊細な動きでサンジの手を保護する包帯を解いた。
傷口に当てられている消毒薬がたっぷりと沁み込ませていた布には鮮血も沁みている。

(こいつがあんなに痛がるんだから、相当痛エんだろうな。)とゾロは露になった
傷を見て、思った。

チョッパーが余程気を使って縫ったのだろう。細く、細かい縫合跡はまだ、腫れ上がって、肉に糸が食い込んでいる。こんなところに直接指で塗り薬など塗ったら
(メチャメチャ痛エんじゃねえか。)と思った。

「自分で塗る。貸せ。」

ほんの1秒か、2秒、ゾロがサンジの手の傷を見ただけなのに、もう焦れたサンジが
そう言って、ゾロを急かした。

「俺が塗る。チョッパーに頼まれた。」とゾロはサンジのその高圧的な口調に
急に我に返って、包み紙を片手で器用に開いて、自分の人差し指と中指で
その薬を擦り取った。

「ちょっと痛エかも知れねえ。辛抱してくれよ。」とつい、余計な気使いが
言葉に出る。けれど、普段ならそんな言葉を決して聞きのがさずに噛み付いて来るサンジなのに、今は、ゾロの言葉に返事さえしない。
ただ、黙ってゾロの左手に自分の右手を乗せ、なすがままになっている。

ゾロは居合の時と同じ様に呼吸を整える。
すると、サンジの体の「呼吸」が判った。

痛みがどんな風にサンジの体を伝って行くのか、理論では判らなくても、
その呼吸がゾロに教えてくれる。だから、どんな風にどのくらいの強さで触れたら
いいかが自ずと判った。

ゾロは盛り上がった傷跡の上をなぞる様に薬を塗る。

1度、2度、と傷の上をなぞった。
3度目にゾロの指がその傷の上をなぞる途中、サンジの小指と薬指が小刻みに震えながら、ゾロの指を傷の上に押し付ける様にゆっくりと曲げられる。

「・・・っつっうっ・・・」サンジの口から搾り出すような呻き声が漏れた。
サンジが痛みを堪えて、息を詰めているのをはっきりと感じるが、
ゾロも息を飲んで、サンジの指の動きを見守る。

やがて、その二本の指はゾロの指を軽く押えてしまい、続いて、
中指と人差し指、そして親指、全ての指がゾロの指を包み込む様に曲げられた。

「曲がった。」とサンジは呟く。
その声にはゾロがはっとするほど、強烈な嬉しさが混じっていた。

「ちゃんと握れる。」そう言うと、痛みが走るのも構わずにゾロの指を自分の
腫れ上がった指で握る、その力を強める。

「お前の指だって事も判る。」じっと握り込んだゾロの指と自分の手を見下ろして、
サンジは独り言の様な痛みを堪えている所為で震える声でそう言った。

「無理するな。」と言うも、ゾロはサンジの手を包む様にするだけで何も出来ない。
「やっぱり、チョッパーは凄腕だ。」そう言うと、やっとゾロの顔を真っ直ぐに見た。

腫れた手はゾロの頬の感触を確かめる様に輪郭をなぞって、鼻頭を撫でた。
熱を持っている手に触れられるとゾロの顔の表面までが熱くなるような気がする。
ゾロを見ているのではなく、目に映るモノと手で触れているモノとそれに触れていた時の記憶を頭の中で照合している、不安げでも、懸命なサンジの表情をゾロは
じっと目を逸らさずに見つめた。

その真剣なゾロの顔の中心、鼻にサンジはそっと触れ、気合を入れる様に唇を
キュっと噛み締める。人差し指と親指でゾロの小鼻をギュっと摘んだ。

「ハハハハ。」その作業は猛烈に手が痛くて、頭が一瞬ふらつくほどだったのに、
体のどこからか、安心感が吹き上がり、それが掠れていても、軽い笑い声に
なってサンジの体を揺らす。

そして、また、ゾロの指をゆっくりとにぎる。
嬉しさが零れた感情を隠しもせず、ゾロに向けて汗だくのまま笑った。

その笑顔は、ゾロの中の複雑な感情を激しくかき混ぜた。

後悔とか。
様々な失態についての、贖罪の気持ちとか。

一番、強く思うのは今更、今、この時にわざわざ言わなくても、
十分にサンジは知っている筈の想い、

お前が好きだ。

そんな単純な感情がそのまま、言葉になって心の中を隙間なく埋め尽してしまう。

何故、今、そんな馬鹿げた事がしたいのか、分析しても意味がない。
感情の起伏の理由を説明するのに、こうだから、故にこうなる、と言う方程式は
存在しない。

好きだから、抱き締めたい。
誰よりも愛しい想うから、大事にしたい。

その気持ちを例え、鼻で笑われても、場違いで見当違いな言葉だと罵られても、
口に出さずにはいられなかった。

「サンジ、俺。」お前が好きだ。

ゾロがそんな昂ぶった感情のまま、ついに言ってしまった後、
言われた方のサンジは唖然とした顔をする。

「お前は単純でいいな。」とサンジはまた笑った。
自分の手が間違いなく、もとの状態になると確認できた事で気持ちに余裕が
生まれたのだろう。

「包帯。」と言って、ゾロの言葉にすぐには答えず、ぬっと手をゾロの前に突き出した。

「すまん。」ゾロはすぐに新しい包帯をサンジの手に巻き始める。

嫌な思いをさせた。痛い想いをさせた、事に対する心からの謝罪も、その短い言葉に
含まれていて、サンジは間違いなく、それをくみ取る.

「別に何も謝る事ねえよ。」と静かに言い、じっとゾロが自分の手に包帯を巻くのを
見つめる。

コバトと出会ってから、この数日の目まぐるしい日々とその中で感じてきた
自分の感情を思い返す。

(人に惚れるって事は)楽しい事ばかりではない、とつくづく思う。
まして、自分の価値観を根こそぎひっくり返して、決めた相手だから、
それなりの覚悟も腹も据えていたつもりだったのに。

自分の中の醜い感情と向き合う事の辛さ、
どんどん愚かになって行く自分に気付かないほどその感情に知らない間に
がんじがらめにされてしまう怖さ。
その事によって思い知らされる自分の中の、深い想いと独占欲。

「俺がバカだっただけの事だ。」
「お前だけがバカだったんじゃねえ、俺もバカだった。」

サンジの言葉にゾロもつい、自虐的な言葉を吐く。
包帯ごしに伝わる、ゾロの指の感触はほのかに痛むけれども、自分だけを労わる繊細な指の動きに安心する。

息が掛るほど目の前にある緑色の髪、
やがて、世界一の男と言われるゾロの全て。

それを見て、
(こんな事、バカ臭エから2度と思わねえ。)と自分を戒めながら、
サンジは腹の中だけで呟く。

(てめえは、誰も触んな。俺にだけ触っとけ。)

きっと、この戯言もゾロは自分の腫れ上がった手から感じ取るだろう。
今は、それでも構わないとサンジは思って、包帯を巻き終わったままでも、
ゾロが手を離すまでは、ずっと自分の手を預けておく事にする。

お前が好きだと言った、率直過ぎるゾロの言葉にサンジは何も答えられない。
いつもの自分らしさをようやく取り戻すと、一緒にいつもの、下らない意地と
照れくささも道連れのような顔をして、サンジの心の中に根付いてしまう。

「そうだな。お前の方がやっぱりバカかもな。」とサンジはゾロの
「俺もバカだった。」と言う言葉尻を捉えた。

「お前が惚れた男は実は世界一の嘘吐きだ。」
「本当は女の子が大好きで野郎なんて、絶滅しちまえと思ってるし。」
「煙草の匂いもホントは好きじゃねえのに、背伸びする癖が抜けないままいつまでも」
「止められないし。」

「俺は嘘吐きなんだよ。」

ゾロは単純でいい。
たった、オマエガスキダの7文字で全ての感情をサンジに伝えられる。
それが出来ない「嘘吐き」で意地っ張りなサンジは、自分の声の響きさえ傷に響くのに、
言葉を沢山並べなければ、素直に自分の思いを言葉に出来ない。

「世界一の男に向かって、俺は嘘しか言えねえんだ。」
「俺は。」

恥かしさでさっきまで流していた脂汗とは全然違う、薄い汗がサンジの額を伝って流れる。それでも、サンジは言わずにはいられなくて。
笑いながらゾロを見つめて言ってのけた。

「世界中で、一番、お前が大キライだ。」

(終り)

2003.8.09

BGM  もらい泣き