水仙の島
オールブルーに向かう途中、冬の海域を通過する。
砂漠育ちのサニートには、その湿った、冷たい風を体感するのは始めてのことで、
さっそく鼻の粘膜を刺激されたのか、鼻水をしきりに拭っていた。
「紙は貴重品なんだぞ、袖で拭け、袖で。」とサンジに言われても、
一応、王子足るもの、袖で鼻を拭うわけにもいかず、
鼻紙を大事に使って鼻をかんでいる。
「以外と繊細なんだな。」と皆が食事を取るためにキッチンに集まった時、
ゾロがからかう。
「これくらいの寒さで風邪を引いてるようじゃ、やっぱり、温室育ちなんだよ。」と
サンジとゾロはサニートに全く同情しない。
が、ナミとウソップは、
「仕方ないだろう、砂漠じゃこんな寒さは経験しないだろうし。」
「そうよ。いくら若くても気候の変化に慣れるまでは時間もかかるわ。普通の人間は。」と
暗に庇ってくれる。
それでも、日を追って悪化していき、その2日後にはとうとう
高熱を出し、寝込んでしまった。
「熱が高いし、近くの島に停泊して、ゆっくり休ませた方がいいよ。」と言う
チョッパーの意見で、その海域にある、小さな島に寄港する事になった。
「ログは関係ないから、サニートの熱が下がったら出航しよう。」と言う
ルフィの言葉に全員が同意する。
サニートだって、体が弱いわけではない。
小さい頃から、病気らしい病気をしなかったから、
39度の熱は初めての経験で、「俺はこのまま死ぬかも。」とひそかに思うほど、
体が辛い。
サンジが作った、粥も飲み下す時に喉に たくさんの針がブツブツ刺さるような
痛みを感じるし、背中も頭も、身体中の関節も痛いし、
鼻が詰っているから、口で息をすれば口の中が渇いて喉が余計に痛む。
身体の中には熱が篭っているのに、どう言うわけか汗をサッパリかかない。
だるくて食欲はないけれど、サンジの機嫌が悪くなるので
どうにか食事を口に運ぶが、後で胃がキリキリと痛んで戻してしまう。
チョッパーが処方する薬も、それと一緒に吐くので どうにも芳しくない。
「・・・風邪なのかな・・・?」とサニートは食事を運んできたサンジに
つい、弱音を吐く。
「チョッパーが風邪だってんなら、風邪だ。けど。」
さすがにその熱で真っ赤になって辛そうなサニートを見て、少し
眉を寄せた。
「もうそろそろ治っても良さそうなもんだが。」
額に手を置く。その瞬間、サニートがほうっと小さく溜息を漏らした。
「サンジさん、冷たい手をしてるんですね。」と心地よさそうに眼を閉じる。
「喋るな。」
喉が痛くて粥さえ飲みこめないサニートに サンジは叱るように言うと、
手の替わりに冷たいタオルを置いた。
「今、チョッパーがお前の体に合う薬を作ってるからもう少し辛抱しろよ。」と
タオル越しにもう一度手を置いた。
サニートは黙って頷く。
サニートが寝こんでいる時、ジュニアとウソップはその島に
色々と買いものをしたりするために上陸した。
「お父さん、こんなに寒いのに、花が咲いてるね。」と島中のそこかしこに
咲いている花をジュニアは指差す。
「ああ、あれは水仙だ。」
白い花弁に、中心がコックの頭に似た、明るさの中にもほのかに渋みを加えた
黄色の小さな花弁がある。
吹き付けてくる風が思わず、目を閉じ、身震いするほど冷たいのに、
その花は海の風に気持ち良さげな風情で揺れていた。
「お前のお母さんがいた島にも、たくさん咲いてたぞ。」とウソップは
何本かを摘み、ジュニアに手渡す。
ジュニアは、ウソップの容姿に良く似てはいるけれど、ウソップ自身より少し
顔立ちが大人しめで、目元などはウソップよりもすっきりとして
母親の美しさを偲ばせている。
「お母さん、この花が好きだったんだ。寒くても、こんなカラカラの土にでも、
綺麗に咲いてるからって。」とウソップは懐かしそうに話し出す。
「ふーん。」ウソップが母親の話をしてくれるのは始めてだ。
ジュニアは歩きながら、父親の言葉を聞き漏らすまい、と耳に神経を集中させた。
あれは春島だった。
けれど、巡る四季の存在する島でちょうど 冬の一番厳しい時期だった。
ウソップは、一緒にその島の探索に来ていたルフィとはぐれて
一人でその島をうろついていた。
崖にも、地面にも、場所を厭わず水仙が儚げにゆれている。
「そうだ、スケッチでもしよう。」
その可憐で、繊細な花は、遠く離れている心の恋人、カヤを彷彿とさせ、
ウソップの絵心を刺激した。
海を見下ろす、岬の先端に腰を降ろし、たった一輪の水仙をじっと見つめて、
ウソップはその花の姿をスケッチブックに映し始めた。
ようやく、デッサンが済んだ頃、ふと、人の足音が聞こえたような気がして
振りかえった。
(え!?)
白い杖をついて、足もともおぼつかない足取りで歩いてくる少女を見て、
ウソップは息を飲んだ。
今、水仙にその姿を想った、カヤ。
が、すぐにそんな馬鹿な、と自慢のどんぐり眼を凝らして良く見ると、
似てはいるけれど、別人だと判った。
けれど、顔立ちや、儚げな雰囲気や、細い体躯や髪の色、髪型などが
本当に良く似ていた。
「おい、危ないぜ。こっちは崖があるんだ。」とウソップの方から
その少女に声をかける。
吹き付ける風の音でウソップの声が良く聞き取れなかったのか、
その少女は僅かに首を傾げた。
真っ黒だが艶やかな瞳の焦点が酷く 曖昧な事と、白い杖をついていることから、
どうやら 目が不自由らしいとウソップは気がついて、思わず
注意を促す為に声をかけたのだった。
「崖があるんだよ。」とウソップは立ちあがり、その少女に聞こえるように
もう一度、声をかける。
「あ・・・有難うございます。」とほんの少し驚いたような顔をしたが、
その少女はウソップに向かって微笑んだ。
水仙の、爽やかな甘酸っぱい匂いが海風に運ばれ、ウソップの鼻をくすぐった。
「その人が、俺の母さんだったんだ?。」ジュニアはウソップの言葉を聞いて
尋ねてみる。
ウソップは軽く頷いて、肯定した。
「お母さん、目が見えなかったんだね。」
「その島自体が貧しい島で医者がいなかったんだ。」
ウソップ親子の会話が続く。
目が見えないのに、その少女は一人暮しだった。
両親は海に漁に出掛けたまま帰ってこなくなり、もう 半年が過ぎた、と言う。
水仙の花を摘んで、それで香水を作り、売ってその日の糧を稼いでいた。
名前を、サクヤ、と言った。
「なんだと、お前がそんな美少女をナンパあ?ゆるさん!」
その日、ゴーイングメリー号に帰って夕食の時に やや大げさにその話しを
皆にした。
相手にされないかもな、と思ったが その予想は外れて サンジが一番、
顕著な反応を見せ、ウソップはほんの少し得意になる。
「お前の言う事なんか、信用出来ねえ!明日、俺が直接、見に行って
本当に美少女かどうか、見てやらア」とコックの鼻息は荒かった。
「・・・でな、ウソップの言う事が本当かどうか、見に行ったわけだ。」
ジュニアとウソップが話しをしていた殆ど同じ頃、
ようやく食事を摂る事が出来、汗を掻き始めたサニート相手に
サンジが喋っていた。
どうしてそんな話しになったのか、と言うと
「ジュニアも小さい頃、よく熱を出したけど、今はすっかり丈夫になったんだぜ。」という
サンジの言葉から、話しがどんどんずれて行き、
「ジュニアのお母さんは・・・?」とサニートが船に乗ってからずっと
疑問だった事を何気なくサンジに尋ねてきたからだった。
「あいつを生んで、すぐに亡くなったんだ。」
恐らく、サニートとジュニアの二人は生きる場所がどんなに離れても、
生涯に渡る親友同士になるだろう、
だから、サニートがジュニアの事を知るのになんの不都合もないし、
興味本意の野次馬根性で人の過去を聞くような、不埒な男でもない、と
サンジは判断して、サニートにジュニアの生い立ちを話している。
ウソップの言うとおりだった。
男に「守ってやりたい」と言う庇護欲を掻き立たせ、それでも
凛とした強さをもっている、気高い少女だ、と言うのがサンジの印象だった。
(クソ悔しい〜〜〜。)と真剣に思った。
ウソップの口振りからして、自分が口説くのはどうにも気が引ける。
指をくわえて見ているしかない。
天候が悪い所為で、その島に暫く滞在せざるをえなくなったのだが、
その間に、その少女と麦わらの一味は年齢も近い事もあり、親しくなった。
特に、普段、むさくるしい男に囲まれて暮らしているナミにとっては
ビビ以来、久しぶりに出来た女友達で、毎日、サンジの指導で
ケーキを焼いたり、女の子らしく楽しく、日を過ごしていた。
そんなある日。
「サクヤの目、見えるようになるよ。」とチョッパーがサクヤの目を診断して
そう言った。
「本当か?」ルフィが思わず聞き返す。
大人しいけれど、ルフィの騒々しい言動にサクヤは良く笑うので、
ルフィもサクヤを来に入っていた。
目が見えるようになったら、一緒に行く事はとても出来ないけれど、
暮らしはきっと楽になる、とルフィは思っていた。
だが、そのチョッパーの診断に、ウソップがほのかに暗い表情を浮かべていた。
「サクヤは、どんな男の人がタイプなの?」
女の子同士だから、つい、ナミの口も軽くなっている。
二人でお喋りに興じている時、何気なく聞いていた。
その側で、ウソップはこっそり聞き耳を立てている。
カヤを忘れたわけではないが、その姿や雰囲気がそっくりなサクヤを目の前にして、
罪悪感に苛まれながらも、心惹かれてしまったのだ。
「そうね・・・。」サクヤは暫く考える。
ナミは、物影にウソップが隠れている事に気がついていた。
ウソップの恋心など、お見通しだ。
それに、最初からサクヤもウソップに対して明らかに好意的だったから、
お節介だとは思うが、普段、色恋から程遠いウソップに少しは
いい思いをさせてやろうと敢えて サクヤにそう言う質問をしてみたのだ。
サンジのように、デロデロしないし、ゾロの様にぶっきらぼうでもないし、
ルフィの様に子供でもないし、チョッパーのように天邪鬼でもない。
サクヤにとって、一番誠実に、かつ話題が面白いのはウソップなのだ。
「背がすらりとしてて、髪と瞳が綺麗な人が好き・・・でも、目が見えないから、
容姿より、性格が大事だわ。」とサクヤは答えた。
背がすらりとしてて、髪と瞳が綺麗な人・・・?
ちらり、とウソップの方を見て、ナミは溜息をついた。
サクヤの言葉どおりなら、ウソップの容姿はその条件は残念ながら満たしていない。
けれど、まだ脈がある。
「性格は、面白くて、男らしくて、優しい人がいいわ。それで、絶対浮気なんかしない人。」
とサクヤは好みの性格を語った。
ルックスはサンジ、性格はウソップかルフィ、と言うところか。
面白い、と言う時点でゾロは脱落。
浮気をしない、と言う時点でサンジが脱落する。
そんな会話を聞いて、どうせ 束の間の恋だとウソップは考えて つい、
サクヤに嘘をついた。
俺の髪は細い金髪なんだ。
目の色は、蒼い海の色なんだ、と。
だから、サクヤの目が見えるようになれば、その嘘がばれてしまう。
ウソップの顔が曇ったのはそう言うわけだった。
「どうして、そんな嘘ついたのさ。」ジュニアが興ざめしたような
声で父親に尋ねる。
「見栄だ、見栄。お前にゃ、まだわからねえだろうが。」と
ウソップは照れくさそうに苦笑した。
「水仙が見たいわ。」とサクヤが言うので、
ウソップはサクヤの手を引いて、初めて出会った岬に向かう。
チョッパーの手術が終わり、サクヤの目には包帯が巻かれていた。
嘘をついていた事を謝りたかった。
一緒にいれば入るほど、カヤとサクヤは別の人間で、似ている分、
そのささいな違いも際立つように思う。
それでも ウソップはカヤの代りではなく、
サクヤ自身のことが好きになっていた。
一緒に行けないのなら、ここに残ってもいい、とまで思うほど、
何時の間にかウソップはサクヤへの想いを深めていた。
「いいのかよ、ルフィ。」そんなウソップの事を
サンジもゾロもそろそろ心配し始めた。
「ウソップが決める事だ。」
勇敢なる海の戦士、と言う夢も、一人のお姫様を守る騎士になるのも、
選ぶのはウソップだとルフィは言う。
「それはそうだけどよ・・・。」
夢を諦めて船を降りるのではなく、新しい夢に向かって、
胸を張って陸に戻ろうと考えているウソップを止める権利など
仲間だからこそ出来ない。それはサンジにもよく判っているが、
何度も生死を分かつような窮地を乗り越えてきた仲間と
離れるのはやはり 心淋しい物がある。
「お母さんは、お父さんを許してくれた。」
「嘘をついたのは、お母さんが好きだったからだろうって。」
「お母さんも、お父さんが好きだって。」ウソップは、正面を向いたまま、
ジュニアに喋りつづける。
思えば、ジュニアを手放したのは僅か4歳の時。
その次にあったのは、10歳の時。
ゆっくりと母親の事を話す時間などなかった。
母親の愛情なしに、けれど、この息子はなんと素直に、強く、育った事だろう。
サンジにいくら感謝してもし足りないくらいだ。
「私も連れて行って、ルフィ。」
「航海術も、銃も覚えるわ。一人で生きて行くのはもう嫌なの。」
ルフィは、まるでサクヤがそう言い出すのを待っていたかのように、
頷いた。
「お尋ね者になってもいいのか?」とウソップはサクヤに聞いた。
「一人で生きて行くより、賞金首になっても一緒に行きたいの。」と
サクヤは即答した。
が。
「俺は反対だよ。」
強硬に反対したのは、意外な事に一番、優しくおだやな筈のチョッパーだった。
「サクヤを船に乗せるのは、俺は反対だ。」
「どうして、チョッパーが反対したんです?」
サンジはここまで喋って、(煙草が吸いてえなあ)と思ったが
どうにか我慢し、火をつけないままの煙草を咥えた。
「・・・ジュニアが腹の中にいたからさ。それに。」
「サクヤは、心臓が弱かったんだ。」
これ以上の話をジュニアに聞かせるかどうか、ウソップは迷った。
自然、中途半端な話の途中で口が閉ざされる。
(俺に聞かせたくない話なのかな。)ジュニアは水仙の匂いをかいだ。
母親が好きだった、と言う花。
正直、母親がいなくて淋しいと思ったことは一度としてなかった。
どんなに厳しくても、まだ物心つく前に充分に与えられた愛情を
信じ切れた。
サンジはもちろんだが、バラティエでも、たくさんのコック達が可愛がってくれたし、
淋しいなあ、と感傷的になる暇さえなかったから。
けれど、その花を見ていたら、父親の口からもっと母親の事を、
自分が生まれる時の母の言葉や想いを聞きたい、と初めて思った。
「それから?」と父親を促して見たが、その背中は黙ったままだ。
「俺に話せない事?」
母親の命と引き換えにお前は生まれたんだ、とジュニアにどう言えばいいのだろうと
ウソップは思案した。
父親らしい、いや、親らしいことは何もしていない自分が
余ほど言葉を選んでも、ジュニアを傷つずに事実を伝えることは
とても難しい、と思ったのだ。
いっそ、サンジに言ってもらった方がいいかもしれない。
サンジなら、ジュニアの気性も全て ウソップよりもずっと知っているのだ。
だが、そんなウソップの気持ちをジュニアの無邪気な言葉が叱責する。
「俺、お父さんから聞きたいよ。お母さんのこと。」
サクヤは、見かけの割りに気の強い、一度決心したことを決して曲げない、
意思の強さを持っていた。
今まで、我慢に我慢を重ねて来た、その反動なのだろうか。
自由も、恋も、新しい命も、サクヤは手にいれようとした。
諦めていた幸せを、短い時間で、一度に手に入れて。
夢を見ているように柔らかく微笑んで、生まれて間もないジュニアを抱いた。
その数日後、春の訪れが水仙の香を消し去って行くのと同じように。
静かに永遠の眠りについた。
「・・・止められなかったんだ。」
女性が 愛しいと思うその人の命をわが身を削ってでも育もうとする強さに
サンジは圧倒された。
男は女に絶対に勝てない。
「お前も覚えてろ。男なんかより、女の方がずっと強い。」
命も、夢もなげうって、それでもサクヤは全く後悔していなかった。
その姿、その生き方は男には真似できない、崇高な物だったと思う。
「お前の国を守ったのも、ビビっていう王女だったし、そもそも、
お前がここにいるのも、彼女がお前を産んでくれたからだろ。」
おっと、長話しすぎたな、と言ってサンジは立ちあがった。
「温かい飲み物、持って来てやるからそれ飲んで、もう一眠りしろ。」
もう一度、サンジはサニートの頭に乗せていたタオルを冷し、しっかりと
絞って頭に乗せてやる。
「腹も減りました。」
数日、胃腸の調子も悪かったが、チョッパーが新しく処方してくれた薬が
よく効いてきたのか、食欲も出てきて、空腹を感じ始めた。
「判った。」
食欲が戻ってきたなら、一安心だ。サンジは快く頷いて部屋を出て行く。
ウソップ親子は言葉を交わさないまま、船に帰ってきた。
ジュニアの手にしっかりと握りしめられた水仙を見て、
二人がどんな話をして来たかをサンジはすぐに悟った。
「どうしたんだ、体の調子でも悪いのか?ウソップ。」
どことなく、沈んだ様子で男部屋に戻ってきたウソップにゾロが声をかけた。
「いや・・・。ちょっと、な。」
親としての義務だ、と思って全部話した。
ジュニアは静かに話しを聞いていた。涙を堪えて。
けれど、泣かなかった。
事実を話す、それだけのことがこれほど辛いとは、想像もしていなかった。
なんだか、酷く疲れた様な気がする。
ウソップは、ゾロにその事を包み隠さず話した。
ハンモックに寝そべったままだが、ゾロは黙ってその話を聞いていた。
「・・・12歳でどこまで判ってくれたか、・・・。」とウソップは不安げだった。
「大丈夫だろ。」
あいつが育てたんだ。事実を知った今は確かに動揺するだろうけれど、
それで 自分が与えられた生命を呪ったりすることは絶対にない。
ゾロがもっと 上手に喋れる男ならそう言っただろう。
だが、簡単な言葉「大丈夫だろ」と口にしただけだった。
ジュニアは眠っているサニートの枕もとに水を少しだけ入れた小さな瓶の中に、
水仙を挿した。
サニートがぐっすりと眠っているのを確認してから、ジュニアは
堪えてきた涙をポロリ、と零した。
母親がいなくて、淋しいと思った事はない。
母親が恋しいと思った事もない。
むしろ、無敵の海賊団の全員が親だと思っている。
その事はむしろ、誇りでさえあった。
けれど、どうして泣いているのか、その訳さえ判らないのに、
涙が止まらない。
「どう生まれたかじゃネエ。どう生きるかがそいつの価値を決めるんだ。」
何時の間にか、後ろに立っていたゾロに声を掛けられ、
ジュニアは飛びあがるほど驚いた。
慌ててごしごしと目元を拭う。
「飯が出来たそうだ。」
ゾロはいつも言葉が少ない。けれど、掛けてくれる言葉の底には
いつも温かい心が篭っている。
「ありがとう。すぐに行くから。」と振り向いた時には、
ジュニアの顔にはもう、笑顔が戻っていた。
それを見て、ゾロも安心したように笑顔を浮かべて頷き、
「俺は、こいつ」とサニートを顎で示し、
「薬を飲ませろってチョッパーに言われてっから先にキッチンへ行け。」
「あいつがうるせえから。」と言い、部屋に入ってきた。
「判った。」
それと入れ替わりに、ジュニアが元気よく、外へ駆け出して行く。
その騒がしい足音でサニートが目を覚ましたのか、布団の中で
もぞもぞと動いた。
何気なく、ゾロはその顔を覗きこむ。
どうして、これだけ似ているのに、本人同士が全く気がつかないのが
不思議で仕方ない。
サニートは、「う〜〜〜ん。」と大きく伸びをして、顔中口になったのか、と
思うほどの大きな口をあけて欠伸をする。
その仕草一つとっても、紛れもなくサンジの血を色濃く引いていると思う。
・・・と言っても、そんな仕草を知っているのは自分しかいないのだが。
「ああ、ロロノアさん。ご心配かけました。」とはっきりとした、
張りのある声でゾロに声を掛けながら起き上がる。
「気分は良さそうだな。」とゾロも気軽に答える。
「今、面白い夢を見てましたよ。」サニートはそう言いながら汗に濡れた寝間着を
着替え始める。
「ほう?」ゾロは、チョッパーから渡された薬を用意して、枕もとに置く。
「どんな夢だ?」と何気なく、聞いて見た。
サニートの暢気な声がゾロの身体を固まらせる。
「赤ん坊の俺がサンジさんの身体から出てくる夢。」
何時の間にか、部屋の中には水仙の薫りに満たされていた。
(終)