「奇蹟の星空」


崩れて形を変えた地形までは元に戻らない。
けれども、いよいよ、店となる新しい船も完成間近となり、具体的に
営業を再開出来る日を決められるほど、オールブルーの復旧が進んでいる。

(冬さえこなければ、)とサンジはいつの頃からか、すっかり自分の部屋で
休む習慣を覚えさせてしまったゾロの寝息を隣に聞きながら、
天井を見上げて溜息をついた。

いつもは、押さえても肌に寒いと感じる風が吹けば無意識に
冬の到来を心待ちにしていた。
夢を選んだ生き方を貫く、その為に突っ走ってきた体と心を癒せる唯一の季節。
吹き荒ぶ冷たい風は、雪と氷とゾロをサンジの元へ運んでくる。

バラバラの道を行く自分達の運命の道が交わり、同じモノを見、同じモノを聞き、
同じ感覚を感じる季節。
その季節が近付いている、とサンジだけが判る。

春の次ぎに夏が来て、秋が来て、冬になる。そんなに行儀良く季節は巡ってこない。
何ヶ月も夏が居座り、そしてやっと涼しくなったと思っていたら、突然、また暑くなったり、逆に唐突に気温が下がって、見る見るうちに冬になったり。
その気まぐれな天候の変化を、ナミがどこの海の天候でも読めるのと同じ様に、
このオールブルーに限って言えば、サンジだけが的確にその気まぐれな気候と
渡り合える。
だから、今のサンジには、気候のデータは知識ではなく、オールブルーと言うこの
海と命が繋がっているかのように、本能的に次に訪れる季節が判る。
そして、不思議な事に、サンジが最も孤独になる季節にゾロは必ず、
たった一人きりでオールブルーに残るサンジの元へと帰って来る。

(冬が来る)ゾロをここに閉じ込めてしまう冬がやがてこのオールブルーを飲み込む。
それだけではなく、もうすぐ、やっと完全に復旧出来る日が目前に迫っているのに、
冬が来れば否応無く、その作業は中断せざるをえない。

「・・・足りねえか?」寝入ったとばかり思っていたゾロが柔らかく、温かな声で
冗談めいた口調でサンジにそう尋ねてきた。
きっと、また、らしくない溜息の音を聞いて、目が覚めたのだろう。

「充分だった、」とサンジは寝返りを打って、ゾロの方へ向き直って、
心の中の迷いを隠すように表情を取繕った。
自分の中でも全く具体的にもなっていない迷いをグダグダと人に言うのは、
それがゾロだからではなく、誰に対しても、サンジは(無様だ)と思うから、
言葉にして言う気はない。
けれど、さっき体温を感じ合う様な行為の最中に、何度と無く交わした口付けの中で、ゾロは察したに違い無かった。
「眠れねえんなら、甲板に行って酒でも飲むか」
「付合ってやる」そう言って笑って、ゾロは素肌の上着を羽織る。

人っ子一人いない甲板には、星明りだけでくっきりと影が出来る程、
見上げた星空は晴れ渡っていた。まだ、二人の髪を撫でる風は心地良い温度で、まさか、
数日後には一気に気温が下がって、一月も経たない間に、この海が真っ白な雪と
氷に閉ざされるなどと、サンジ以外に思う者は誰もいない。

靴も履かずに、二人は素足で昼間、サンサンと降注いだ太陽の温もりをたっぷりと
吸い込んで、まだ温かい樹の板の上を同じ速度でゆったりと歩く。
「あそこ、登ろうぜ」
「ああ?見張り台にか?」ゾロが何故か楽しげに指差した場所を見上げて、
サンジは呆れて顔を顰めた。

「俺達、素足なんだぜ。ロープが食い込む」と言っても、ゾロはサンジを煽るように
「足が痛エとか言うんなら、俺がお前を背負って登ってやるよ」と笑いながら言う。

ゾロに背負われて登るくらいなら、多少、足にロープが食い込もうが構ってはいられない。二人は今だに着慣れない寝間着を風にはためかせて、ロープを伝って、見張り台に
登った。

「久しぶりだろ。こう言う場所から空を見るのは」と登りきって、空を見上げて
ゾロは静かに呟く。それは独り言ではなく、サンジの心へと、言葉に篭めた
気持ちが染みる様にと声を顰めたからかもしれない。

久しぶりだろ。こう言う場所から一緒に空を見るのは

ゾロの言葉はサンジの心に直接流れ込んで来る。
今、口を開けば、心の中にあるものが全部、流れ出てしまいそうで、サンジは
曖昧に笑って、ただ頷き、ゾロの見つめる先の星空へと視線を向けた。
「お前、覚えてるか?まだ、ルフィ達と旅をしてた時に、今日しか見れない彗星を
どうしても見るんだって言って、1晩中、なんにもしねえでボケっと空を見上げてた事があっただろ」

何百年に一度しか見れない彗星が空を横切る日、それは今から何年前だったのだろう。
無くせない思い出があまりに多過ぎて、サンジは咄嗟に思い出せない。
けれど、そんな夜があった事は間違い無く覚えていた。

「これだけ曇ってたら無理よ」とナミが言って、皆が諦めてしまった夜だった。
その彗星を一緒に見た者同士は、どんな姿に生まれ変わっても、
再び、その彗星の下に集う事が出来る。
そんな伝説にあやかって、彗星の出現を待ちわびていたのに、分厚い雲が邪魔をして
彗星はおろか、星の一つも見えなかった。

「畜生、せっかくとっておきのセリフをナミさんとロビンちゃんに用意してたのに」と
こういう事に一番、執念深いルフィ以上に、サンジは更に執念深く、ずっと見張り台の
上で空を覆っている雲を恨めしそうに見ていた。
「そういう下らねえ事言うやつがいるから、雲が晴れねえんだよ」とゾロは憎まれ口を利いて、サンジにじゃれついた。

「ナミが晴れねえっつったら晴れねえよ」と言いながらも、ゾロも一瞬でも
雲間が見えて、例え、彗星のシッポでも構わないから見れたらいい、そう思いながら、
サンジと一緒に空を見上げた。
晴れたらいいのになア、晴れろ、晴れやがれ。晴れろ。
晴れろ、一瞬でもいいから。晴れろ。
ふざけていた言葉が途切れ途切れになり、やがて、二人は黙って同じ眼差しで
真っ暗な空を見上げた。心の中で祈りの様に繰り返す言葉がそのまま、
同じ想いとなってぴったりと重なる。

そして、一瞬、ゴーイングメリー号を大きな波が揺らす。
その波を生んだ風は、上空のびっしりと広がった雲を優しく、ほんの一時だけ、
華やかな舞台をそっと緞帳をたくし上げて覗き見するかのように、二人に彗星の光を
見せてくれた。
「見えた」と呟いて、お互いの顔を見合す。何故か、とても素直に笑顔になれた。
そうして、そのまま、また空へと視線を向ける。
濃紺の空に薄く、白く輝く細い光の帯が雲間に見えた。
言葉も無く、ただ、二人はその光をしっかりと記憶に焼きつける。
例え、この生が尽きても、生まれ変わって、また、再び会える約束の光が二人の
頭上に降注ぐ。

「お前の執念深さがなけりゃ、あの光は見れなかったな」とゾロは思い出し笑いを
しながら、星を見上げている。
「執念深さじゃねえよ、あれは」とサンジはそれ以外に、相応しい言葉が
見つからず、とても小恥ずかしいセリフだと判っていても、そう言わずには
いられなかった。
「あれは、奇蹟だったんだよ」

サンジがそう言った途端、聞きなれた水鳥の声が海に響き渡った。
この入り江に棲む、渡り鳥達が目を覚ます、朝の柔らかな光が徐々に濃紺の
星空の色を薄めて行くけれど、まだ夜は明けない。

1羽の水鳥の声を合図に、一斉に群れが羽ばたき、軽やかに風を叩く音を立てて、
サンジとゾロの前を飛び立つ。
その羽根が起こす風で海面にさざなみが立ち、弱い風が吹いた。

空へと自由に飛び立った鳥の群れ、何気なく見上げたその影の向こうにまだ輝く
星空に、流星が降った。
声を立てる暇さえなかったけれど、ゾロの目も、サンジの目もはっきりとその
光を捉えた。

「奇蹟だな、確かに」
そう言ってゾロは見張り台から身を乗り出していたサンジの手を握った。
こうして今、二人空を見上げている事も、たくさんの奇蹟が重なり合った結果なのだと
サンジは胸が熱くなる。

自分の知らない世界のどこかでゾロは生まれた。
そのゾロをこの世に生まれさせる為に、ゾロの両親が生まれ、その両親もまた、
その両親から生まれ、愛と言う絆を育む奇蹟が数えきれないくらいに繰り返されて来たに違いない。
そうしてゾロと言う命が生まれ、育ち、同じ様に奇蹟を繰り返して生まれて、
生きて来た自分と出会った。
共に生きて、ここにいる。
ありふれた流星を見上げている、それだけの事がかけがえのない奇蹟の様に
思えた。
その奇蹟の積み重ねに気づいた者だけが感じられる幸福感で、心の中が一杯になる。
(なんて下らねえ、ちっぽけな事で悩んでたんだ、)と溜息ばかり吐いていたの事を
サンジは自嘲し、ゾロの手を振り払う事もなく、その手の重みと温もりをしっかりと
心に刻み込む。

今まで、常に自分達のしたい事を貫いて来た。
そして、時には傷つく事も、傷つけられる事もあったけれど、それでも、今、
こうして温かな気持ちを二人で抱えて空を見上げている。
たくさんの選択肢の結果が今ならば、その選択肢を一度も間違えなかったと
胸を張って言い切っていい。

思いのままに生きて来た。無理強いも、我慢もしたつもりはない。
だから、思いのままに行動すればいい。

「あと、10日したら木枯らしが吹く」
「建物の基礎工事も終ったし、春が来るまでここを出ようと思う」

急がなくても、必ず、レストランは再開出来る。
ゾロが歩いている道に少しだけ、寄り添って歩いて見たい。
そう素直に思えるのも、星空が呼び寄せた奇蹟の一つなのかも知れない。

「分かった」とゾロは頷く。
さして、驚いた風ではないのは、きっと、重ねた手の温もりからサンジの心の動きを
感じ取ったからだろう。
「嬉しいか?」とサンジはそんな落ち着き払ったゾロの気持ちをはっきりと知りたくて、
からかう様に尋ねる。
「ああ」ゾロはまだ、流星を探す様に星空を見上げたまま短く答えた。
自分の胸の中を満たしている、奇蹟を知る者だけが感じる幸せがゾロの胸の中にも
あって、それが余りに膨らみ過ぎて、どんな喜びの言葉でも的確に言い表せないから
そんな短い言葉になっているのだと、ゾロがサンジの気持ちを何も言わなくても
分かる様に、サンジにも分かる。
「さっきの鳥と一緒に行くか。そしたら、いつ、ここへ帰って来ればいいのか分かるからな」そんなゾロの呟きを聞いて、サンジは思わず、声を立てずに笑った。


(続く)