「陽だまり」


東の海には、コスモスが咲き乱れる季節がやって来た。
数年前に、突然亡くなったオーナーシェフの、それでもあたかも今でも
健在かの様に常に部屋は古参のコック達によって整頓されて、いつか
この店を継ぐべき、今はグランドラインで伝説の海を探す為に海賊となった
副料理長の帰りを待っている。

男の手、それも仕事の傍らにする程度の掃除では、床を通り一遍に拭きあげるだけで、
埃の降り積んだベッドの下までは誰も気が回らない。

そこには、1足、いや、片方だけの靴が今でも静かに転がっている。
左足だけの靴、その持ち主だったゼフが亡くなるほんの数日前にふと見つけ、
1度も履く事のなかった靴。

「生きていた頃のまま」保とうと敢えて、家具を移動させたり、大掃除をしたりするのは避けて来た。だが、その日、パティは掃除をしている時、ポケットから小銭が落ちて、
それがベッドの下へと転がっていき、やっとその靴に気が付いた。
「こりゃあ・・」と床に這いつくばって、その靴へと手を伸ばした。

埃にまみれ、流行遅れの形の古びた左足だけの靴。
(どうして、こんなものがここに)と不思議に思った。

その靴の由来は、その靴自身とその靴を買った者しか知らない。
靴はただ、ただ、埃にまみれて、パティの手の中に在るだけだ。


まだ、ゼフの胸辺りまでしか背丈がなかった頃。
「チビナス」と日がな、ゼフに怒鳴られっぱなしだった頃。

店で使う食材はゼフが買いつけ、それを店まで買った店の者が運んできてくれるのだが、
その日は、店の物ではなく、生活用品を買いにゼフとサンジは陸にあがっていた。

二人は両手に袋を下げて街をまた、躾の悪い子供とガラの悪いその親の様に、
口汚い言葉でお互いの買い物の無駄を罵り合いながら歩いていた。

道の両端に店がずらりと建ち並び、街路樹も綺麗に刈り込まれて、石畳も整然と
敷き詰められている歩道で、ゼフが足を止めて、サンジの襟足を掴んで引っ張った。
「道を空けろ、チビナス」「なんだよ、急に!」拾われた子猫の様にゼフに
襟足を引っ張られ、サンジは喚いた。だが、ゼフは静かに前を向き、押し黙る。

道を譲ったサンジとゼフの前を全く同じ顔の中年の男が二人、一礼して通り過ぎる。
サンジはその男二人が自分達の前を通り過ぎて行った背中を何気なく見送り、
やがて、その目線が彼らの足もとに達した時、
「コクリ」と小さく息を飲む。

一人は右足が
もう一人は左足が義足だった。

「不躾な眼で見るんじゃねえ、ボケナス」とゼフは小声でサンジを叱った。
「シャムの双生児」と言われる双子をその時、サンジは初めて見た。

「知ってる人なのか」一礼した時、二人の男はにっこりとゼフに笑い掛けたから、
サンジはそう尋ねた。見たことのない顔で、店の客ではなかった。
「靴屋の常連だ」そう淡々とゼフは答える。実は、今からその靴屋に行くつもりだった。
成長期のサンジは足も著しく成長する。半年前に買った靴はもう、窮屈になっているらしく、足の先が破けそうになっていたから、ゼフはサンジの靴と、ついでに
自分の靴も買いに行こうとしていたのだった。

「やあ、いらっしゃい、珍しいね。今日はボウヤも一緒かい」
靴屋の主人はのっそりと店に入ったゼフに愛想良く迎え入れる。
サンジはゼフに靴屋に伴われるのはその日が初めてだった。
被っていた帽子を取り、サンジは靴屋の主人に向かって頭を下げる。

「これでいい。これをくれ」とゼフは丈夫そうなこげ茶色の靴を無造作に指差す。
「あいよ」と白髪混じりで少し小太りの主人は人の良さそうな笑みを、
なんとなく顔に浮かべながら答えて、左足分だけを当たり前の様に箱に入れた。

(あ)
片足分しか入れて貰えない、その靴の箱はとても物足りなさげだった。
何か積め込まないと、とても不恰好でなんだか不釣合いで、少し、片方だけの靴が
寂しそうにサンジには見え、慌てて、
「あの、俺はこれを」と自分の足に合いそうな靴を手に取り、靴屋の主人が箱を
閉めてしまう前に、自分の靴をその箱の中に突っ込んだ。
「ボウヤの靴は別の箱に入れてあげるよ」と主人は苦笑いし、少しサンジの
行動が迷惑そうな口調でそう言ったが、
「荷物が増えるから同じ箱でいいよ」と無理矢理その箱を閉める様に頼んだ。
そんなサンジをゼフは他の靴を物色するかに装って、見ない振りをしながらも、
そっと眺めていた。

(右足の分はどうするんだろう)とふと、サンジはまだ、棚に飾られている
ゼフの買った靴の片割れをその店を出る直前に振りかえる。
店の主人はその靴の事などもう忘れたかのようにまた、忙しく新しい靴を作り始めた。

翌日、サンジは昨日慌てて買った靴がやはり、大き過ぎたので替えてもらいに
その店をもう一度訪れた。

「あ」と店に入るなり、サンジは驚いて小さな声を上げる。
昨日、道で擦れ違った双子の男が靴屋の主人と談笑しているところだった。
「どうしたんだい?」と主人はすぐにサンジの方へ向き直ってくれた。
「あの大き過ぎたから替えて欲しいンだ」

それから主人と男達の雑談に引っ張り込まれて、サンジはゼフがバラティエと言う
レストランのオーナ―である事を話した。
「そりゃ、是非、伺わないと。あの有名な海賊レストランのオーナーだったなんて」と
靴屋の主人同様、双子の男達も明るく、人が良さそうで、幼いサンジにとっては
「優しい大人」と言う印象を受けた。

「二人の体がくっ付いている時は一生、結婚どころか恋も出来ないと思っていたが」
「離れてみて自由になって、人並みに暮らせるようになっても」
「ただ、自分の行きたい所へ自分の足で歩いていけるってだけの事が」
「実はものスゴイ幸せなんだって事を歩く度に感じるよ」と左足だけで歩く男が
穏やかに微笑んでサンジにそう言った。

「はい、おまちどおさま」と主人は二人が買った靴を箱に詰めずに、剥き出しのまま
二人に手渡した。

一人が右足だけの靴を、一人が左足だけの靴を受取る。

「安上がりだねえ、1足分で二人で使えるんだから」と主人は笑ったが、
じっとその様を見ていたサンジの、子供らしくない、曇った表情を見て、
申し訳なさそうにその無邪気な笑みを消した。

両足履く事を前提に靴は一対で作られるのに、ゼフの為の靴は片方、
右足の分の靴は誰にももう、必要とされない。
靴屋の主人が皮をなめして裁断し、一針、一針、丁寧に丹精こめて作り上げた品なのに、
ゼフに選ばれたその靴は、常に片割れが不要品になってしまう。

ピカピカに磨き上げられたまま、片方だけ残った右足分の靴はまだ、昨日と
同じ場所にあった。
ゼフに買われた左足の靴が箱の中で物寂しげに見えたように、その靴もやはり、どこか
寂しげだった。
サンジは、その寂しさを自分が感じてしまうのは、
(靴に責められているような気がする)からだと思った。

誰の所為で片方しか靴が必要ないのか。
誰の所為で足を失ったのか     と。

それから、また、半年余り経った頃。
サンジはまた、一人で靴を買いに行った。

「やあ、久しぶりだね。今日は一人かい?」店の主人は半年ぶりにこの港に立ち寄った
レストランバラティエの小さなコックの少年をちゃんと覚えていてくれたらしく
サンジが店に入ると、顔を見るなりいつも通りに明るく声を掛けてきた。

「靴を買いに」また、体が大きくなったから、とサンジは言葉少なく答えた。
幼い少年から少し人に警戒心を抱く年頃に差しかかって来た所為と、半年前に
この店を訪れた時に感じた、片方だけ取り残された靴が訴えた侘しさをまた、
感じてしまうのが心詰まりだったからだ。

「兆度良かった、これ、オーナーに持って帰ってくれないか」と主人は
左足だけの靴をサンジに差し出した。
「サイズもオーナーと同じだよ。」
「貰っていいのか」とサンジは不思議に思ってその靴を受取りながら尋ねる。

「ああ、どうせ捨てるモノだし。」
「なんでだ」少し、哀しそうな主人の顔を見て、サンジはますます不思議に思って
尋ねた。
「片方しか必要の無いお得意様がもう一組、出来たのさ」
「これからは、オーナーとそのお客様で一対で事足りるんでね」

「二人の体がくっ付いている時は一生、結婚どころか恋も出来ないと思っていたが」
「離れてみて自由になって、人並みに暮らせるようになっても」
「ただ、自分の行きたい所へ自分の足で歩いていけるってだけの事が」
「実はものスゴイ幸せなんだって事を歩く度に感じるよ」

そう、サンジに嬉しげに語っていた、左の靴だけを必要とした男が亡くなったのだ、と
言葉少ない主人の言葉でサンジは悟った。

「縁起の悪いモノだと思わないでおくれよ。オジさん、やっぱり自分が一生懸命作った靴を捨てるのは辛くってね」と靴屋の主人はサンジにそう言って目を伏せる。
「判るよ。俺はコックだ。コックだって職人なんだから」とサンジは同情する様に笑って、手渡された片方だけの靴を見つめた。

僅か半年の間にサンジは少しづつ、大人になっていた。
些細な意地の張り合いで素直にゼフの側に行けず、僅か半年前までは甘えが罵声に
変わっても誰よりもゼフの側にいる事が当たり前だと思えていた。

この半年の間にバラティエは規模を拡大し、ゼフは日々、忙しく、数日サンジと全く
言葉を交わさない日も有った。たまに交わす言葉は半人前のコックを怒鳴り散らす
オーナーシェフとしての叱責と言う罵詈雑言だけだった。

突っ走るゼフの背中に置いて行かれない様に必死になっていても、背中だけ見ているのは寂しかったのに、サンジはそれを口に出す事も、また自覚する事さえ出来ずにいた。

「ありがとう」とその靴を貰って、靴屋を出たら、強い風と雨が降り出していた。
けれども、サンジはその日、靴をゼフに渡す事は出来なかった。
次の日も、その次の日も。毎日忙し過ぎて、毎日、大人になって行くサンジと、
バラティエと言う故郷から力強く飛び立てる様にとサンジを突き放すゼフの間で
しっかりと繋がっている筈の絆が捩れて行く。

そして、旅立ちの時は唐突にやってきた。
麦わら帽子を被った強い光を宿す黒い瞳の少年がサンジに羽ばたける翼を使って
巣立つ方法を教えた。

サンジは荷物を纏めて、自分の部屋を出た。
前の夜に自分の持ち物を整理していた時、その古びた靴を見つけた。

渡そうと思って渡せなかった靴。箱に入ったままだったから埃も被らずに
新品のままだった。

(今更、どんな面して渡せばいいんだ)サンジは箱からその靴を取り出し、
手に握り込んでじっと眺める。今日までも様々な記憶が頭を過った。
まるで、靴が記憶を呼び覚ます魔法の道具の様に。

沢山の言葉でゼフを傷つけた。
本当は誰よりも大事なのに、それを何一つ言えないまま、何一つ、恩返しをしないまま、
たった1足の、片方だけの靴さえ渡せないまま、
何一つ、礼らしい礼も言えないまま、何一つ、詫びる事もないままに、

それでも、ゼフと自分の夢を背負って生きて行く為にバラティエを旅立つと決めたのだ。

サンジはその靴を海に投げ捨てるつもりで手にぶら下げて持って出た。

ふと、壊れっぱなしゼフの部屋の前を通りかかる。
そっとドアノブを回すと「ギイ・・」と少し軋んで開いた。

酷い嵐が来る度に潜り込んだ懐かしいゼフの部屋。
もう、自分を見送る為に皆、甲板に出ていて辺りは静まり返り、小さなさざなみの音
しか聞こえない。

サンジはその部屋の中に無造作に靴を投げ込み、ドアを締める。
左足だけの靴は、脱ぎ散らかされた様に床に転がった。

どんなに言葉にしても足りない。
足りないと思うなら、最初から何も言わない方が良い。
そのつもりでサンジは甲板に向かって歩いた。


サンジが旅立ってからすぐにゼフは見慣れない靴が自分の部屋に転がっているのに
気が付いた。

旅立つ直前にサンジが部屋に投げ込んだのだ、と判るくらいにそれは無造作に
床に転がっていた。

何年も前に流行った流行遅れの形の靴。
「バカ野郎が」とゼフはその靴を拾って、ベッドに腰掛けて眺める。

まだ、修理の終っていない天井から木漏れ日のような陽光が優しく掌の中に
陽だまりを作ってその靴を照らした。

渡したくても渡せなかったサンジの思いをその靴はしっかりと吸い込んでいて、
ゼフに訴え掛ける。

履き慣らした靴ではない、新品のその靴にはサンジの、チビナスの思い出が
たくさん詰まっている。
そんな靴をゼフは1度も履くことはなかった。

海賊になった男に手紙など書いても無事に届くとは思えない。
また、あの意地っ張りが殊勝に手紙など寄越すとも思えない。
だから、サンジが残したその靴を気まぐれに眺めてその無事をただ、祈るだけだ。

そして、その靴は今もバラティエのゼフの部屋にある。

忙しい店の喧騒から離れて、いつも静かな波音が聞こえる陽だまりの中で
ゼフとサンジの不器用な思いを詰めた左足だけの皮靴は
静かに今も、ゼフの部屋に在る。