「何事もなかった様に」皆が振る舞う。
けれども、ゾロが取った行動と、それが残した結果はまだ消えていない。

気にしていない、と言うサンジの言葉を疑っているのではない。
サンジの体から、僅かな血と嗅ぎなれないアスカ島の薬草の匂いが仄かに香るのを
感じて、胸が痞えたような、ゾロの心の曇りが取れないだけだ。

どんな理由があって、何故、あんな行動を取ったのか、皆はもう知っている。
それが正しいとか、間違っているとかは誰もいわない。
自分では間違っていたなど少しも思ってはいないが、それでもゾロは夢を見た。
サンジを殺す気などないと言う意志とは裏腹に、体が勝手に動いて、倒れたサンジに止めを刺し、息の根を止める夢。
そんな夢を見るのも、自分の心の中には酷く自責の気持ちがこびりついているからだ。
それが判っている、けれどそれを消す術をゾロは見つけられずにいた。

薄桃色に光る宝玉、あれがサガを苦しめている。サガが苦しいと言うのなら、
その苦しみを取り除いてやらねば、と思って行動し、それに立ちはだかったから、

サンジを斬った。

ただ、威嚇の為にサンジは向かってきた。
本気で自分を殺すつもりではないのは、ぶつかり合っている内にすぐに判った。
普段から、そうだ。
(あいつは根っからの戦闘家じゃねえ)とゾロは思っていた。
自分だから力加減していたのではなく、ぶっ殺す、と口では言うが、
サンジは人を簡単には殺さない。急所を知っているのだから、そこだけを狙えば
もっと沢山の人間を殺せるのに、戦闘不能にさえなればそれ以上の打撃は与えず、
生かしておく。それが判っていたのに、それなのに、ゾロは
サンジを斬った。
サンジが掛って来た時、自分とは敵対する立場にいる、と判って、
警告した。ワケのわからない状況で、半ば狂人のようになった海軍兵相手に
襲われても、サンジはワケが判らない状況だからこそ、殺さないだろう。
なんとか、何故自分達が敵対しなければならなくなったのかを分析しようと
斬殺するつもりで掛ってくると判っていても、力加減をする。
そんな気持ちで闘えば、必ず、サンジは自分が負わせた以上の、命に関るような
大きなダメージを受ける。だから、剣士に対して殺す気で来い、などとあの時は言ったが、
(本気で掛ってこられたら)過ぎてしまった過去に対して仮定の想像などしても
全く意味のない事なのに、考え、ゾロは自分の出す答えにゾっと寒気がした。
今、振りかえって考えてみれば、ゾロは腹を括っていたから、戦闘に迷いや
戸惑いはなかった。が、サンジはどうだっただろう。
何がなんだか、判らないままに仲間に傷つけられた、サンジの気持ちを
何もかも過ぎた今になってようやくゾロは省みて、自分の身勝手さに気付いた。

(あいつが俺を殺すのに躊躇ってなかったら、)
無意識に戦闘本能に火を着けられてしまっていたら、左肩の肉を削いだくらいでは
済まされなかったに違いない。
たくさんの人を斬った、その手応えなど今はもういちいち覚えていない筈なのに、
サンジを斬った、あの時手に感じた衝撃も、映像も、バケモノの様に変化した
サガを斬った時の記憶よりも、時間を経るに連れ、鮮明になってくる。
(何故だ)答えは簡単だ。
心が咎めているからだ。(悪かったな)なんて軽い言葉で済まされる事ではない。
だから、相応しい言葉を探しつづけている。
サンジが自分に寄せていただろう、信用を自分から壊すような事をして、
あの時はそんな事、省みる余裕さえなかったが、今、以前と変わりない日常を取り戻して、本当に以前と何も変わりないのか、不安だった。
だが、確かめる術もない。
サンジの言動は以前と何一つ変わらない。
けれども、それさえ本音なのか、そうでないのか判らない。

「いい加減、そのみっともねえ態度止めろよ。うざってえ」
いつもなら、不寝番の前の夜食の時、二人きりになって雑談を交わしていたが、
ゾロがその食事を終え、一言も交わさないまま外に出ていこうとした時、
サンジは冷めて淡々とした何の感情も篭っていない口調でそう言って、ゾロを
呼び止めた。
「てめえが正しいと思ってやった事だろ」

「うるせえよ」思わず、足を止めたけれどやはりゾロは素直になれない。
サンジに許して欲しいのではなく、自分が自分で許せないのに、
例え、それが当事者のサンジであろうと、横から口を出されるのはやっぱり腹が立つ。それも筋が違うと判っていても、どうしようもない。

「別にもうそんな事、気にしてる訳じゃねえ」

そう言った時、船が大きく傾いだ。立っていられない程、床が斜めに傾き、テーブルの
上に乗っていた食器が床に滑り落ちる。
当然、キッチンにいたサンジとゾロも立っていられず、床に向かってすっ飛んだ。

まず、サンジが壁に叩きつけられ、それを押し付ける様にゾロがぶつかる。
「!っ」左肩が壁に押しつけられ、サンジが大きく顔を歪めたのをゾロは見た。

すぐに船は安定を取り戻す。

一瞬見た、サンジの歪んだ顔の映像がゾロの胸に鋭い刃を突き立てた。
子供の様に拗ねて、避けていたのではいつまでも自分の胸の痛みは消えない。
そんな簡単な事さえ、また身勝手な理屈で躊躇していた自分の愚かさに胸が
痛んだ。その痛みに口をつぐんで耐える事などもう出来ない。

「痛むか、」まず、ゾロが口を開いた。
床にへたり込むように座り込んだ二人はお互いを見ようともしないで
言葉を交わす。出来るだけ、いつもと変わらない横柄な態度をゾロは装おう。
気遣ったり、労わったりする顔をサンジに向ける権利さえない、と思う。
どんな罵声もどんな非難も、黙って受けとめねばならない。
腹が立っても、サンジの感情を全部知り尽くしてしまわねば、この胸の中にある
鉛色の重たい空気はいつまでも居座ってしまう。
「当たり前だ」とサンジは憮然とした口調で答えて、煙草に火を着ける。
ゾロの謝罪つもりで言葉を続ける。
「俺のした事は間違ってねえと思ってるが、お前を斬った事だけは後悔してる」
それをサンジは「そんなの、必要のねえ」と途中で面倒臭そうに遮った。
「あの状況なら仕方ねえだろ」と言うサンジの言葉を今度はゾロが遮る。
「仕方ねえですむ事じゃねえ」
「自分の事で頭が一杯だったからって、・・・」ゾロは言葉を探し、声を詰まらせながらも、「なんで、何もかもを早く皆に打ち明けなかったのか、そうしてりゃ、
あんな状況になる事もなかったんだ」
「俺が悪イ」とどうにか声を絞り出す。
「そうだな」サンジはやっとゾロに向き直った。
「お前が悪イ」サンジはそう言ってニ、と滅多にゾロにはみせない、
誰かがサンジの作った料理を美味い、と言った時にだけ見せる、本当に嬉しそうな
素直な感情を満面に浮べた顔で笑った。
どんな事があっても絶対にサンジに対して一度たりとも非を認めた事のないゾロが謝罪の言葉を口にしたのが嬉しかったのだろうか。
それとも、自分の感情にやっとケリをつけるつもりになったゾロの様子が嬉しかったのかは判らない。けれども、サンジの顔をようやく真っ直ぐに見つめる事が出来て、
ゾロは胸の中に、熱帯夜のジメついた嫌な空気を澱ませた様な不快感が清清しく浄化されていくのをはっきりと感じた。

(俺達の間は何も変わってねえ)、とそれだけで信じられた。
2度と仲間に対してこんな不安な気持ちになりたくない、
自業自得だけれども、2度と仲間に自分の胸の内を明かさずに仲間に刃を向けるような
真似は絶対にしたくない。
そして、2度と同じ過ちを繰りかえさない為に、"約束"で自分を戒めなければと思った。
「2度と、こんな真似しねえ」約束する、と言い掛けたゾロの顔にサンジは煙草の煙を
吹きかけた。煙たくて、軽く「っケホッ」とせきんでしまった。
まるでサンジに言葉を遮られ様だ。
さっきの笑顔を一切の名残を残さずに消してサンジは静かに
「自分で決めた約束に縛られるヤツと約束なんかできねえよ、俺ア」と言った。
やはり、サンジは自分を許そうとはしないのか、とゾロは答えに詰まる。
「するなら、自分で自分としろ」
「それなら、俺がこの船を降りた後も有効だろ」
サンジはそう言ってゾロの顔を真っ直ぐに見据える。
が、違和感を感じたのか、左手の袖口にふと目を落とした。
蒼いシャツの袖にじわりと血が滲んでいる。
さっき、ゾロが伸しかかった衝撃で軋んだ肩の傷口が開いて、そこから腕を伝って
血が流れ落ち、シャツに滲んだのだ。
「動かすなって言われなかったなあ」とサンジは飄々と言って、胸元から首へと
手を突っ込んで傷の具合を確かめる。
「見せろよ、その傷」ゾロはサンジの側ににじり寄った。
どんな傷をサンジの体につけたのか、その状態を目にしっかりと焼き付けておく。
自分のした事の愚かさとその現実をこれからも決して忘れない様に、サンジの体に残る傷とゾロは約束する。

サンジはシャツを脱ぎ、傷を覆う布を固定する為の包帯を解いた。
そして、傷を消毒し、保護する、じっとりと血を吸った布を指で摘んで取り除く。
ゾロは目を逸らさずにサンジの動作を見、そして傷口を見つめる。

腫れ上がって、他の場所の皮膚よりも明らかに赤みを帯びた皮膚、
さっきの衝撃の所為でチョッパーが縫った糸は皮膚に酷く食い込み、ところどころ、
そのどす黒く赤色に腫れた肉を引き千切っていた。
傷の周りに固まった血がこびり付いていたが、その上を縫合の糸で千切れられた血管から流れ出る血と、癒着途中で引き剥がされた傷から滲む血とが混ざって、
傷口を濡らしていた。

こんな傷よりももっと深く、酷い怪我をしている姿を見ていたのに、
その斬り傷は誰でもない、自分がサンジに負わせたモノだと言う事にゾロの胸が抉られる。
今、胸の中に抱えたこの痛み、この辛さをゾロは決して忘れない。

ゾロの気持ちを汲んだ上でサンジが傷をゾロの目に黙って晒したのか、
それとも、もうこの事でお互いの距離を計り直すのが面倒になったのか、
もしかしたらそのどちらかでもあり、どちらかでもないのかもしれない。

サンジは喉の奥で笑った。
その少し嘲笑にも聞こえる笑い声にゾロは、サンジの傷から目をそらして
「何がおかしい」とその笑い声の理由をぶっきらぼうに尋ねる。

「約束だの信念だので突っ走って、そうやって後で悶々としてるのがおかしくってよ」
「でも、てめえのそういうバカみたいに不器用なトコ、」
サンジはクックック・・と小さく笑いながらゾロ見て、言った。
「俺ア、キライじゃねえな」

何故か、その言葉の意味が理屈で理解するよりも心にズン、と響く。
キライじゃない、というのは(一体エ、どう言う意味だ)と考えるより先に
頬の皮膚が熱くなる。

「笑うな、てめえが笑うとムカつく!」
「あんだと、ムカつくなら笑わせるような事ヤってんじゃねえよ、ヘボ剣豪!」

サンジと向きあい、サンジに本音を晒したら、その口から呪いを解く魔法の言葉が
弾きでて、それを吸い込んだらウソのように胸の曇りが消えた。
そして、また沢山の罵声の混じったその魔法の言葉を聞きながら、
いつもの距離、いつもの関係は何も変わらずに在る事をゾロは実感する。
そして、ゾロの頭に予感が過った。
サンジの言葉をこうしてたくさん聞いていたら、いつか、近い将来、
今以上にもっと近く、もっと強く、分り合える日が来る。

サガよりも、ルフィよりも。
(いつか こいつは誰よりも俺を判ってくれる存在になる)確かにゾロはそう思った。


(終わり)