この島には、ログを貯める為に立ち寄ったのではない。
だから、ログが貯まる前に出航しなければ、今、ナミの腕に巻かれているログホースが
書き換えられてしまう。

幸い、サニートの傷も、もう、だいぶ良くなった。
「普通の人間なら、とても、航海させられないだろうけど、」
「サニートなら、あと3日も寝てれば大丈夫だよ。」とチョッパーも明確な診断を下した。

例の赤ん坊も、その乳母も、もう、海軍へ無事、送り届けたし、
ミユは、別の駐屯地にいる、サンジのよく知っている海軍中佐のところへ預けられる事になった。

「大丈夫なの?」ジュニアも、その中佐の事を良く知っている。
頼りになる人だとは承知しているが、相手は忙しい上に、
最前線で戦う部隊の指揮官だ。
そんなところへ、ミユを送ったら 危険ではないか、とジュニアはサンジの
段取りに僅かに不安げな表情を見せた。

「大丈夫だ。俺の頼みをあいつが迷惑がる事もないだろうし、」
「ミユちゃんにも、海の厳しさを知っておいて貰わなきゃならねえから」
「ちょうどいいんだ。」と、全くなんの心配も不用だ、といわんばかりに、
きっぱりと言いきった。

そして、
「お前、ミユちゃんがオールブルーに来たからって、鼻の下伸ばして、
「気の抜けた仕事するんじゃねえぞ。」と真顔で言うと、ジュニアの顔は 耳まで真っ赤になった。
「何、バカな事言ってンのさ。」

その会話を側で見ていたナミが ジュニアの反応を見て、ただ、微笑んでいる。

サンジは ナミのその表情に気がつき、二人の目が合った。
どちらともなく、微笑ましいジュニアの初恋の成就を願い、柔らかな微笑を交し合う。

そして。

「今夜、出航されるそうですね。」
サニートにずっと付き添っていたニアが 帰り支度を整えた頃をまるで見計らっていたように、
アラバスタからずっとニアを護衛していた衛兵が ゴーイングメリー号にやって来た。

「ニア様をお迎えに上がりました。」とルフィにも丁重に礼を欠かさない態度を取る。

「ちょっとだけ、待っててくれネエか。」とルフィは船首の方を振りかえった。

やっと、起き上がって動けるようになったサニートとニアがフィギアヘッドの近くの甲板で佇んでいる。

衛兵は、ルフィの視線の先に気がつき、頷くと、「承知しました」と一礼した。


「どうか、お元気で。」と海を眺めて、ニアに背を向けたままの
サニートに にこやかに、静かな声でニアは別れの言葉を口にする。

婚約を破棄して欲しい、と一旦、自分の口から出してしまった言葉を
今更 無かった事にして欲しいとは言えない。

けれど、
「婚約者だった」とサニートと自分の繋がりが過去の事になってしまうのは、やはり、悲しい。
この船を降りれば、例え アラバスタに帰国したとしても、
もう、会うことはもちろん、話す事さえ出来ない、雲上の人になってしまう。

自分は、王妃になどなれる人間ではない、
だから、王となるべきサニートとは結婚できない、と決めたのは他ならぬ自分なのに、

もう、二度と 呼び掛けてもらうこともないと思うと
握りあった掌の温もりが とても懐かしく、切なかった。

少女の頃から、己の意志ではなかったけれども、永遠の伴侶と憧れ続けた人。
命を駈けて守ろうとした人。

翡翠色の髪も、蒼い海の色の目も、憧れて思い描いて来たとおり、
いや、それ以上に美しかった。

自分以上に、この人にはきっと、相応しい人がいる。
その人と、幸せになって欲しいと願う心と裏腹に、

後姿から目が離せないまま、ニアの瞳から涙が零れ落ちた。

その瞬間、サニートはやっと振りかえる。

何かを決意し、決して引き下がらないと腹を括った
真っ直ぐな瞳がニアに向けられていた。

「ニア。」

まず、名前を呼んだ。
サニートは 自然に口から零れた響きに それがとても綺麗な名前だと思った。

強くて、優しい、ニアが好きだ。
最初に見た時とは比べものになら無いくらい、今はニアがとても綺麗に見える。

海の風に吹かれて、少し乱れた髪も、
日に焼けたような褐色の肌も、夜と昼の間に見える夕焼けの名残のような
紫の瞳も、今のサニートは 
一旦 ニアに目を向けるともう、目が逸らせない。

「今でも、僕と婚約破棄する、と言う気持ちは変わりませんか。」



その甲板の下は、砲撃するための大砲の格納庫だ。
出航準備の為、そこで雑事をこなしていた ゾロとサンジの手が止まる。

聞くとも無く、サニートとニアの会話が切れ切れに聞こえていた。


「僕と、結婚するのが嫌な理由はなんですか。」

ニアが自分を決して嫌いではない、と もう、サニートは知っている。
婚約を破棄してしまったら、身分の違い過ぎる二人は
2度と会う事も出来ないだろう。

3年はアラバスタに帰るつもりは無いけれど、ニアと2度と合えなくなるのは 絶対に嫌だと思った。

少なくても、ニアに自分の気持ちを何も言っていなかった、アラバスタの王位継承者としての言葉でなく、

17歳の、ひとりの男としての純粋な想いをニアに伝えていなかった事に
サニートは気がついていて、
どんな言葉がニアから返って来るか 予想できない怖さを噛み殺して、勇気を振り絞り、尋ねたのだ。

「以前、お伝えしたとおりですわ。」とニアはやや、顔を俯けて答える。弱弱しい、頼りなげな声だった。

「僕が嫌い、と言う訳じゃない。」
サニートは口元を綻ばせた。
そのまま、ニアの側にゆっくりと歩き出し、少し手を差し出せば
繋ぎ合える距離にまで近づく。

「なら、ニア。」
「僕と結婚してください。」

「これから先、僕はたくさん、君を泣かせるかもしれないけど、それでも、僕は君が好きだ。」
「もっと、色んな君を見たいし、泣いてる顔より、笑ってる顔をもっと見たい。」
「結婚したくない、理由の有無がはっきりしてないんなら、」
「国に帰ったら、」

「僕は、君と恋をしたい。」
「一生、君と恋愛をしたいと思ってる。」

サニートは一気に、けれど、一言、一言、噛み締めるように、
戸惑いも迷いもなく、ニアに 想いを言の葉に乗せて全て伝えた。

伝えきった。
後は、答えを待つだけだ。

二人の胸が痛いほど高鳴る。
ニアの褐色の頬が 紅潮して、瞳が大きく揺らいでいた。

「ご無事に、アラバスタへお帰りになる日をお待ちしています。」
ニアの声が震えている。

その言葉では、まだ、サニートの求めていた答えか、そうでないか、
判らない。

口付けたい、と言う衝動がサニートを揺さぶるけれど、
口付けてしまったら、ニアとここで別れるのがますます 辛くなると思って耐えた。

握り合った時、思いの他、華奢で細かったニアの右手を手に取った。
唇の替わりに、ニアに唯一、振れたその場所へサニートは口付ける。


「盗み聞きするなんて、クソ趣味の悪い野郎だな。」
「お互い様だろ。」

格納庫では、すっかり手を止めて 頭上の動向を気にかけていた
ゾロとサンジが お互いの行動を小声で罵倒し合う。

「プロポーズか。ガキの癖に生意気だよな。」と言うも、
なんとなく、サンジは嬉しげな口調だった。

「いいなあ、プロポーズ。俺も一回やってみてえな。」と、完全に手を止めて、
傍らの木箱に腰掛け、新しい煙草に火をつけた。

「やってみろ、聞いてやるから。」ゾロも少し離れた場所に腰掛け、
煽るような、それでいて、温かな眼差しで サンジの方へ顔を向ける。

「お前に?バカ臭エ。」

つまらネエ奴、とゾロは大仰に溜息をつく。

共に生きたい、と願った理由など、数え上げたらキリがないのか、
それとも忘れたのか。

あるいは、思い起こす事も、記憶に残す必要もないのか。

オールブルーへは、あと数週間の航海だ。
一緒にいられる、その間に 出来るなら、

(まあ、素直に言うわけネエだろうが)

ゾロはサンジに 自分の過去と未来を共に生きると願ってくれた
その理由の有無を問うて見たいと ふと 思った。


(終り)