「ナミさん、」とサンジが女部屋のドアをノックする。
「あら、もうそんな時間？」と呟いて、ナミは顔をあげた。

サンジが呼びに来た、と言う事はもう昼頃だろう。ナミは机の上の時計を見て、
一応、確認する。

今日は、珍しい組み合せで船番をしていた。
深い理由はない。ただ、船を降りるのが億劫だった者が残っただけだ。

（ゾロと喧嘩でもしたのかしら。）ナミは書き溜めた海図を仕舞いながら、
サンジが残った理由を考える。
（あたしが残るって言ったからかな）とちょっと自意識過剰な事も思い浮かべ、

「あたしとゾロとどっちが大事？」なんて聞いたらどんな顔色で「ナミさんです。」と
答えるだろう、などと意地悪な事を思いつく。
「ンナミさ〜〜ん。」
キッチンへ向かおうとしたナミをサンジは蜜柑畑から甘えた声で呼んだ。

「ピクニック気分でデートしましょう。」とサンジは蜜柑畑の下のあまり広くない
場所にいかにも　"ピクニックに来ました"といわんばかりの小道具を用意して、
ナミを待っていた。

（マメねエ。）とナミは呆れて笑う。

「わあ、素敵ね。」ただの弁当ではなく、綺麗に、お洒落に盛りつけられたそれは、
まるで女の子が彼氏の為に気張って作る為に見る、料理の本の写真そのものだ。
「ナミさんが喜んでくださるなら、これくらい毎日だって作りますよ。」とサンジは
にこやかに言う。
「ロビンがいたら、ロビンにもこんな事してたんじゃないの。」と皮肉を言うと、
「そんな意地悪言わないで下さい。」とサンジは苦笑いをする。

ゾロと特別な関係になってから、サンジは、女性との距離を前よりも上手く
測る様になった。媚び方も、笑い方も、どことなく、違う。どこかしら、余裕がある。（妙な話だけど。）イイ男になった、とナミは思う。

「蜜柑の木の下でお弁当食べてたら、昔の事を思い出しちゃうわ。」とナミは
一つ、芳ばしく焼けたパンに瑞々しい野菜や肉を挟んだサンドイッチを頬張りながら、
遠い追憶、遠い故郷を想う。

「まだ、ココヤシ村が平和だった頃ね。」
「ベルメールさんとノジコと三人でピクニックに行ったの。」

貧しかったし、農家に長い休みもなく、旅行など行った事がない。
でも、ベルメールとの生活はナミにとってとても幸せな日々だった。

「挟むのが面倒だからね。」とバツが悪そうに笑ってベルメールが持たせた荷物は、
ノジコのリュックには焼き立てのパンと、蜜柑で作ったマーマレードの瓶。
ナミのリュックには、切りもしないソーセージが３本と、もぎたての蜜柑。
ベルメールの肩には、二人の娘が喉を潤すのに十分な水が入った水筒がぶら下がっていた。

途中までしか歌詞の知らない唄をデタラメに歌ったり、道端の花を摘んだり、
じゃれるような口喧嘩をしながら、海が見下ろせる山頂までを歩く。

「ナミは歌が下手だねエ。」と煙草を咥えたまま、ベルメールが笑う。
「そんなことないもん。」とナミが膨れると、その顔をノジコがからかう。

行き道は、蜜柑畑の急勾配を登った。そのルートはまるで、冒険で、
虫や、花、草、汗だくになった体に蜜柑畑を吹きぬける風、ナミとノジコは小さな体に
ココヤシ村の優しい自然の息吹を思い切り感じる事が出来る道だった。

笑ったり、膨れたり、怒ったり、歌ったり、嬉しい、楽しい、と言う感情で、
心の中は、はちきれそうな風船みたいになっていた。

ただ、焼いただけのパン。ベルメールのパンは決して、町のパン屋のパンの様に
柔らかくはない。固くて、パサパサだった。でも、ノジコもナミも、そのパンが
一番、大好きなマーマレードに合い、一番美味しいと思っていた。
それを三人で分け合って食べる。最後の一口さえも、三人で平等に。
お腹が一杯の時も、お腹がすく時も、喉が乾く時も、すっぱすぎる蜜柑に顔を
すぼめる時も、三人は一緒だった。

「帰りは、別のルートを行こう」と考えたベルメールは、蜜柑を取り入れた後、荷車を使って港まで運ぶ為に舗装された、歩きやすい道を選んだ。

「どうして？」とナミは不機嫌になって尋ねる。
「早く帰らないと日が暮れちゃうだろ。」とベルメールはそのルートに向かって
歩き出した。

ナミは口をヘの字に曲げてその場に立ち竦む。
何度か、このピクニックに来て、その道を歩く度に嫌いなる、その道を歩くのは嫌だった。「ナミ、置いて行くよ！」とノジコに急かされ、ナミは渋々歩き出した。

丸太を組み上げて、ふもとまでの距離の分だけガードレールがあり、
歩行者と荷車が通る道を隔てている。

大人が一人、ようやく歩けるほどの幅しかない歩道をベルﾒｰﾙが先頭になって、
ノジコとナミがその後に続く。

（一直線に並んだら、私、ベルメールさんと話しが出来ない。）と
ナミは膨れっ面のまま、ノジコの背中を見ながら歩く。

ノジコは、と言うと、そんなナミの気持ちを知ってか知らずか、いつもと変わらない
調子で、ベルメールに話し掛けている。普段、「ノジコ、あんたはお姉ちゃんなんだから、我慢しな。」と言われているのを知っているだけに、こんな時くらい、我慢しなきゃ、とナミは唇をかみ締める。でも。

（あたしだって、楽しい時に、楽しい話をたくさん、したいのに）

行き道は、三人で手を繋いで歩く事も出来た。でも、立派な道があるのに、
細い歩道として遮断しているガードレールの所為で、ノジコの顔も、
ベルメールの顔も見えないし、お喋りも出来ない。ナミはそれが寂しくて、物足りない。

「あたし、あっちを歩く。」そう言って、ナミはガードレールをひらりと飛び越えた。
「こら！危ないよ！」とやっと、ベルメールの注意がナミに向く。

「大丈夫だよ。」とナミは自分の目論み、ベルメールの注意を引きたい、と言う
目的が果たせて、嬉しくなった。
もっと、心配させたり、怒らせたりしたら、もっと構ってくれるかな、と
子供心にそんな天邪鬼な気持ちが沸いて来る。

「もうすぐ、荷車が通る時間だから、危ないよ。こっちにおいで。」と
ベルメールが何度も言うのに、ナミはそのまま、太い方の道を得意げな顔をして歩いた。

「ナミ！言う事聞かないとぶつよ！」とノジコが言うと、ナミはちょっと癪に障った。
「なにさ、ノジコのいい子ぶりっこ！。」とノジコにべーっと舌を出して見せる。

「ナミ！」とそのナミの態度に腹を立てて、ノジコまでがガードレールを乗越えようとした。その時。
山頂から、地響きが聞こえてくる。

（何？）とナミは振り返る。
物凄い勢いで、蜜柑を満載し、坂道を爆走してくる、一台の荷車の姿が目に入った。

（運転手がいない！）それに気がついた途端、身が竦んだ。
どっちに逃げたらいいのか、判断出来ない。暴走する荷車が緩やかに曲がる道を
どう転がってくるか、幼いナミに予想出来る筈がなかった。

「ナミ！！」

ベルメールの声が頭に響く。
なにがなんだか判らない、怖くて、ギュっと目を閉じた。

ベルメールの腕に抱え込まれて、そのまま道の端までごろごろと転がったらしい。

「ナミ、ナミ、大丈夫かい！」と呼ばれてやっと目を開けた。

ベルメールの肩が擦りむけて、服が破れていた。
そして、破れた皮膚から血が滲んでいるのが見えた。
（怒られるっ）とナミは今度はベルメールの雷が怖くて、また目を閉じる。

けれど、その雷は落ちる事がなかった。
替わりに、そよ風のような優しい手がナミの髪を撫でた。
「良かった、顔に傷なんかないね。」とベルメールの溜息混じりの声が聞こえた。

「女は顔が命なんだよ。美人なんだから、顔に傷がつくような真似はあたしが
許さないからね。」と言って、ベルメールは片腕でナミをギュっと抱き締める。

「片腕？」そこまで話した時、サンジが不思議そうに頭を傾げた。
「そ。その時、ベルメールさん、肩を脱臼したのよ、擦り傷も酷くって。」

そう言って、ナミは一気にカフェオレを飲み干す。
「そのガードレールに限らず、あたしはどこの町でもどこの島でも、どんな形でも、
ガードレールを見る度にその事を思い出すの。」とほろ苦い笑みをサンジに向ける。

「その度に、ちょっと、胸にチクンと来るのよね。」
「あたしの我侭で、ベルメールさんに怪我をさせたなって。」

その思い出がある限り、ナミは何度も同じ悲しみを掘り起こされて、後悔を繰り返す。
ナミたち、姉妹を助ける為に命までを投げ出してくれた人に、
なんの恩返しも出来なかった事までもをガードレールを見る度に思い出して、
その都度、ナミは心に鈍い痛みを感じていた、とサンジに漏らした。

「それは、ナミさん達が、お互いを愛して、愛された証拠だね。」
「ナミさんの胸が痛む分、それだけ大事な思い出って事だよ。」
「忘れたくないから、いつまでも覚えていたいから、胸が痛むんだ。」
「俺はそう思うよ。」

そう言って、サンジは微笑む。
ナミはその言葉を唖然とした面持ちで聞いた。
そんな風に考えた事は一度も無かった、と言う衝撃と小さくても確かに感じていた
心の曇りがふっと消えた。

「本当にイヤな思い出だったら、人間はさっさと忘れてしまうらしいから。」
サンジはそう言うと、ナミの空のカップにもう一杯、カフェオレを注ぐ。

「サンジ君って、本当に優しいわね。」とナミはサンジに向かって素直に感謝の気持ちを篭めて笑った。
「誰かさんにも、そんなに優しいの？」と何時もの様に悪戯っぽい眼差しで尋ねると、
「誰かさんって？」とサンジは空惚けて煙草をふかす。
その頬が少し赤んで見えたのは、多分ナミの気の所為ではない筈だ。