紺色と濃いオレンジ色が水平線の側で交じり合って行く。
もうすぐ夏を向かえる海風は切ない程優しく温かい。
砂浜に突き出た岩に腰を下ろして、それを眺めている僕の背中から、ゆっくりと月が昇る。
規則正しい波音が耳に心地良いのは、きっと、今僕の心も同じ様に揺れているからだ。
僕は、一年前に交わした、たった一つだけの約束の為にここにいる。
一緒に過ごした時間は半年。離れた時間は一年。
その間に僕らを繋ぐ物は何もなかった。
手紙も、電話も、メールもなく、僕達は立ち止まったのか、
それとも別々の場所で生きて行く時間を刻み始めたのか。僕は空を仰ぐ。
潮風に煽られて飛ぶ海鳥の向こうにはもう星がいくつか、輝き初めていた。
僕はつい数時間前にヨーロッパから帰って来たばかりだ。
一年間、本場のパンの技術を学ぶ為の修業。
僕と達彦は同性同士と言う壁を取り払って口付けする距離を築いてやっと半年経った頃に
僕は仕事場からそんな辞令を受けた。
「一年も?」僕に断わる権利はない。
断われば、いつまでも、一人前の仕事を任せてもらえない。
達彦は僕の話しを聞いた途端、険しく、寂しそうな顔を隠さずにそう聞き返してきた。
達彦は、小さな頃に親に捨てられて、施設で育った。
だから、一見すると、とても警戒心の強い奴に見られがちだ。
でも、本当は大きな図体をしている癖にとても寂しがり屋で優しくて、マジメだと僕だけが知っている。
「その話、受けたのか、慎二?」
重ねて達彦はそう聞く。
「俺になんの相談もなしに?」
「相談したって答えは同じだからな。」
僕は達彦にそう答えた。
すると達彦の黒めがちのくっきりした目に少しだけ苛立ちが走った。
「なんだよ、それ。」僕が達彦をないがしろにした、と思ったのかもしれない。
僕はそれでも達彦の機嫌を取るような事はしなかった。
口先だけで丸め込んで今だけ機嫌を治す事なんて出来ない。
一緒にいた時間の倍、離れる間にきっと僕らの気持ちは何度も擦れ違ったりぶつかったりして
お互いを想い合う気持ちが疲れて行ってしまうに決ってる。
僕だって、達彦の事を何も考えずにこの話を受けた訳じゃないけど、
もう、出発は出国準備が整い次第すぐ、と言われていたから、言い争ったり、
妥協案を探ったりする時間もなかった。
僕が押し黙ってただ、達彦の顔を見ているとその顔から静かに置き去りにされたくないと
駄々をこねる子供のような我侭が消えて行き、
いや、消えていったんじゃなくて、達彦は、それ以上我侭を言えば、僕が困ると思って
その気持ちを腹の中に押さえ込んだのかも知れない。
「俺はどうすればいい?」と達彦は一生懸命な眼差しで僕を見て尋ねた。
「待ってればいいのか。それとも、慎二が修業に打ち込める様に俺は慎二から離れた方がいいのか。」
そう聞かれて、僕は答えに詰った。
考えあぐねて、今度は僕が我侭を言う。
「達彦の好きにしていい。」
僕は達彦を置き去りにする。
慣れない言葉や風習の中、無我夢中で修業に打ち込む日々が僕を待っている。
電話をする。手紙を書く、と約束しても守れない事もきっとある。
その癖、自分が約束を守れなくても達彦が約束を破れば僕はきっと怒ったり寂しくなったりする。
僕は僕の必要な時に達彦の声や言葉が欲しい。
達彦が僕を必要としている時に僕が達彦の事を考えられないくらい切羽詰まっていたら、
僕はきっと達彦を傷つける言葉を吐いてしまうだろう。
そうして、遠過ぎる距離なのにお互いを傷つけあうような事になるのは嫌だ。
だから、僕はそんな我侭を達彦に答えを委ねる事で押し通そうとした。
「そんな言い方はずるいよ」と達彦は唇を噛む。
「慎二は勝手だ。」そう言われて、僕は本当の気持ちを達彦に話す決心がついた。
僕は、まだ、自分の恋人が同性だと誰にも言えずにいる。
笑われたり、気持ち悪がられたりするに決ってる。
それに胸を張って立ち向かえる自分になりたいのに、その自信がなかった。
日雇い仕事で、どんなに疲れていても、僕のパンを美味いと言ってくれる達彦の笑顔が
何よりも大切な事の筈なのに、それを人に隠している自分が嫌だった。
それに、僕が必要としているほど、達彦は僕を必要としているのだろうか。
僕達は性別を越えて、出会った本当の運命の相手なのだろうか。
答えの出ない愚問を全て払拭する為に僕は自らに試練を強いたつもりだった。
「半年間、離れてもしも寂しくて、達彦の替わりを見つけるような男だったら、
僕を思う存分、軽蔑してもいい。逆に達彦がもしも僕に替わる誰かを見つけたなら、」
「僕はずっと達彦の側にいる人間じゃなかっただけだ。」
そして、僕達はたった一つだけ約束を交わした。
電話も、手紙もメールもしない。
お互いが寂しくなるのを助長するだけだから。
お互いにとって、代替など出来ない存在だと確かめ合う為の時間、そして、
僕が孤独と心細さと戦って僕自身を鍛える為に必要な時間。
その時間を二人が一緒に越えられた時、僕達はきっと同じ場所に向かう。
その場所も時間も僕は遭えて口に出さなかった。
僕と達彦の心がまだ繋がっているなら、僕が見つめているこの海しかない筈だった。
離れて寂しさを感じる暇もない一年間だった。
でも嬉しい事があった時ほど、達彦が恋しかった。
会いたくなるから、と写真一枚持って行く事さえ我慢して僕は達彦の姿も声も心の中だけに閉じ込めて、がむしゃらに一年を過ごした。
帰国が近付いてくるに連れ、僕はその日を指を折って数えた。
待っていてくれる保証なんてない。
でも、一年僕は誰も知っている人のいない異国で一人で過ごした時間に
僕は僕の個性として、達彦を誰よりも大好きで、大事だと言える人間になった。
こうして、来るか来ないか判らない達彦を待つ間に、1年分以上に達彦の事を想う。
達彦の事だけを想う。
どんな一年を過ごしたのだろう。
楽しい事、
悲しい事、
腹の立つ事を達彦は誰に話していたのだろう。
そんな事を考えていると逆に心の底から打ち消していた不安が込み上げてくる。
寂しがり屋の達彦。
僕がいなくて、誰かにその埋め合わせを求めて、そしてどこかで
僕しか知らない筈の笑顔を零して、今夜ここには来ない。
自分勝手な約束を達彦に押しつけた僕にはそれを責める権利はない。
どうして、一年も離れていられたんだろう。
僕はこんなに達彦が恋しい。
柔らかな髪の感触も、不器用に僕の背中を抱く腕も、汗の匂いもはっきりと思い出せる。
思い出せるから息をするのが辛いくらいに胸の中が切なくて、僕の目の中にもさざ波が立った。
それが流れ出ないように、僕は星を見上げる。
一緒にいなくても、声を聞いたり、肌を触れ合ったりしなくても
想いは育っていくのだと僕ははっきりと知った。
一年前よりも僕の想いは強く、深い。
やっぱり、僕にとって達彦はたった一人きりの存在だった。
僕を追い越した月が砂浜に僕の影を描く。
達彦の事だけを考えて何時間過ごしたか、その影と遠くなった波打ち際がお節介にも僕に教える。
答えはもう出たんだと僕は想った。
人っ子一人いない海。思い切り泣いても誰にも聞こえない。
やっぱり、勝手過ぎた。僕は初めて後悔する。
達彦には僕しかいないと思い上がっていた。
達彦の寂しさを埋めて、優しく強く抱き締められる人間は僕だけだと無意識に思い上がっていた事を。
僕は嗚咽が漏れそうになって唇を食いしばった。
その瞬間に目尻に膨れ上がっていた涙の粒が頬を伝った。
波の音に混じって、車の音が近付いてくる。
防波堤の向こうに車の光が見えた。
僕と達彦は、この海で初めて、キスをした。
この砂浜で、僕達がキスしたように、きっと幸せそうなカップルがこの砂浜に降りてくるだろう。
一人きりで夜の海を見ながら泣いている男の姿を見たら、自殺志願者だと思われるかもしれない。
僕は涙を拭って立ち上がった。
砂浜の向こうには夏だけ営業する駐車場がある。
そこにさっきの車はやってくるに違いない。この先は岬で行き止まりなのだから。
その車は思ったとおり、駐車場で止まった。
そして、冴え冴えと眩しい光で砂浜を照らす。
そこだけ昼間と変わらない程だが、それにまともに照らされた僕は目が眩みそうになる。
ヘッドライトの目に刺すような光の向こうの風景などまるで見えなくなる。
(なんだよ、失礼な車だ)
まるで脱獄囚を捕まえる為に照らす照明の様にその光は僕を照らす。
車のドアが閉まる音がした。
一度だけ、バタン、とその音は鳴った。
真っ黒な影が一つだけ見えた。(カップルじゃないのか)
光を背負ったその影は一瞬、棒立ちになって
それから砂に足を取られながら、真っ直ぐに僕に向かって走ってくる。
影の背格好がはっきりと見えた。その途端、さっき拭ったばかりの涙がまた僕の目に浮かんだ。
顔が歪む。凄く変な顔をしているのが自分でも判った。
一年ぶりに会うのに、なんてみっともない顔を見られてしまったんだろう。
波の音に混じって記憶の中の声と何も変わらない声が僕の名前を呼ぶ声がして、
僕は早く走る為に靴を脱ぎ捨てた。こんなに強く人にぶつかって行ったのは初めてだった。
体当たりする様に僕らは距離を一気に縮めた。
「信じらない。本当に慎二か。」達彦の声が耳元で聞こえる。
肩をがっしりと握った達彦の力が嬉しくて声が出ない。
僕は達彦の背中に腕を回して、自分の記憶に何一つ間違いがない事を確かめる。
達彦の匂い、
達彦の息遣い、
達彦の心臓の音。
一緒にいた時間より離れていた時間の方が長いのに、僕達の時間は止まっていなかった。
「寂しかっただろ。」
僕は少しだけ僕よりも背が高い達彦を見上げてそう言ってまだ、変な顔のまま無理に笑って強がった。
「うん。」と答えた達彦も顔中がペタペタと濡れて光っている。
達彦もそんな顔を見られたくないらしく、僕の頭を大きな掌で包んで、胸に押し付けて切れ切れに話す。
「だから、俺、慎二の事ばっかり考えてるだけじゃ、慎二が帰って来た時、みすぼらしい男だって思われたら悔しいと思って、必死になれる事を考えたんだ。」
前に一度だけここに来た時は、僕がレンタカーを運転して来た。達彦には免許がなかったからだ。
「慎二が帰ってくるまでに、車を運転出来る様になろう。」
「二人でどこにでも行ける車を買おうって無我夢中で働いたんだ。」
達彦はそう言ってまた腕の力を強くする。
「一年、あっという間だった。」
離れていた時間に、僕らが抱えた寂しさが無数の星屑がちらばる空へと消えて行くような気がした。
初めて口付けした時のように、
達彦と唇を重ねた時、自分の心臓の音と達彦の心臓の音が両方聞こえた。
いつまでも、僕は達彦の一番近くにいて、ずっとその甘い鼓動を聞いていたい。
星明かりの下、僕らはずっと握り合った手を離さずに約束の海を眺めて数えきれないくらいたくさんキスをした。
「慎二、」
達彦の唇が僕の頬をなぞって耳に辿りついた時、何かを懇願する様に達彦が僕の名前を囁いた。
その意味を僕は同じ気持ちを抱いていたからすぐに判る。答えの替わりに僕は達彦の頭を引寄せた。
ライトを消すとまた、星と月明かりだけ。
でも、達彦が側にいるだけで、一人で待っていた時よりもずっと明るく見える。
砂浜のベンチに達彦は僕を横たえて、シャツのボタンを全部外した。
首筋を撫でる達彦の手が小刻みに震えている。
達彦の掌がズボンの上からなぞるだけで全身にビリビリと快感が走る。
愛撫の仕方も変わってない。
それが懐かしいと思えたのは最初だけで、
僕の体は僕が思っていた以上に達彦のくれる快感に飢えていて、
そして、達彦をどう受けとめるかを覚えていた。痛みさえも懐かしくて、達彦の腕の中へ帰ってきたんだと僕は幸せを噛み締めた。
朝が来る頃、僕達は達彦が買った僕達の新しい宝物の車の荷台で少しまどろむ。
運転席は二人乗り。達彦は得意げにこの車を選んだ理由を僕に話してくれた。
「いつか、慎二が焼いたパンを俺が運転するこの車に一杯積んで売るんだ。」
それを聞いて、僕は思った。もう、達彦を寂しがらせるような勝手は二度としない。
これからは、側にいて、お互いをしっかりと見つめながら時を重ねていきたい、と。
(終わり)