「僕は、必ず、幸せになるから。」
そう書かれた手紙を俺は誰の目にも触れないように、4年も前から肌身離さず持っている。
俺宛てじゃない、その手紙は差し出し人の心を誰にも伝えないまま、
日毎に色褪せて行く。捨てることも出来ずに、また、読み返すこともない。
「雨」
学校からの帰り道だった。道には雨に打たれて濡れ落ちた葉っぱを蹴散らして、
俺は駅までの道を、カバンで激しい雨を、せめて頭だけでも濡れないように避けながら
出来るだけ急いでいた。
国道沿いの道をひたすら真っ直ぐに行けば、駅に着く。が、その道のりが
歩くと女子なら1時間は掛るくらいのふざけた距離だ。
前を見るのに、目を細めないと雨粒が容赦なく眼球にぶつかってくるから、
俺は目を細めて、全身ズブヌレになりながらとにかく走っていた。
運動は決して苦手じゃないけど、雨の中をそう長い間全力疾走も出来ない。
俺は息が苦しくなって、一息つこう、と足を止めた。
大きなトラックが横を通り過ぎるのが目の端に映った。
その途端、まるで、海の波をひっかぶるような勢いで、
「ザバッ!」と道の端から水が俺に襲いかかった。
「ふざけんじゃねえぞ、ボケ!」と俺は雨の音と車の騒音で聞こえないだろうと思い、
そう喚いた。すると、そのトラックは暫く走った後、バックして来たんだ。
「悪イ、悪イ。」とトラックの、助手席まで体を捻って、そのトラックの運転手が顔を出した。
日に焼けて、どす黒い顔をしている癖に、目許だけは涼しそうな顔の、やけに体の丈夫そうな男だった。
「駅まで送るよ。」と言われても、ガキじゃないんだからアヤシイと思って当然で、
俺は断わった。「その制服、A高校だろ。俺、4年前までそこの先生だったんだ。」
その言葉で俺はその男を信用して、高い踏み台に足を掛けて、
初めて、「大型トラック」ってやつに乗った。
俺は、じつに良くある名前だ。
「田中浩二」あまりにありがちで、同性同名が日本で一体何人いるだろうと思う。
そのトラックの男は、これまた、良くある名前で「鈴木」と言った。
鈴木と知り合ったのは、そういうキッカケだった。
それから、偶然、俺のバイト先の弁当屋に買いに来た。
「この前の礼に、奢るよ。」と言ったら、鈴木は「助かるよ、給料日前でさ。」と人の良さそうな顔で笑った。
俺は不思議とその鈴木に好意を持った。
「なんの先生だったのか。」と聞いたら、「英語だよ。」と答えた。
なんで、そんな人が大型トラックの、運転手なんかやってるんだろうと不思議に思った。
特別、遊びに行く約束とかはしないけれど、普通に携帯番号を教えあって、
俺と鈴木は「知り合い」になったんだ。ある時、俺は鈴木に尋ねた。
「4年前なら、田中幸一って生徒、知ってる?」
田中幸一は、俺の、4つ上の兄だ。俺は、兄貴と同じ学校に通っている後輩でもある。鈴木はそれを聞いて、さっと顔色を変えた、ように見えた。
「良くある名前だからなあ。その田中幸一は田中くんの」「兄貴だよ。」と俺は鈴木の言葉を遮って答えた。
「4年前に死んじゃったけど。」
俺の言葉を聞いて、鈴木は絶句した。普通に教え子が死んだ、と聞いたら驚いても
全く不思議はないけど、その時の鈴木の驚きっぷりは普通じゃなかった。
怒っているような、とにかく、激しい感情が吹き上がっているけど、どうにか俺に
それを悟られないようにしている、そんな感じがした。
そう言えば、その日は、俺に「ビリヤードを教えてくれる。」って、
初めて二人で遊びに行く約束をした日だったっけ。
それで、その日もやっぱり雨だったんだ。
「君が幸一の弟だったんなんてスゴイ偶然だ。」と鈴木は俺をトラックに乗せて、
走り出した。多分、ビリヤードなんかには行かない。そんな気がした。
前を見る鈴木の横顔は悲しそうで、いつもみたいに軽口が利けない雰囲気だった。
「幸一はどうして」死んだんだ、と鈴木は随分長い沈黙の後、絞り出すような声で俺にそう尋ねる。
「川で溺れたんだ。」「いつ?」「いつって。だから、4年前」
「知らなかった、ちっとも。」そんな会話の途中、信号が赤に変わった。
鈴木の目が真っ赤で、目尻には涙が零れそうになっている。
「兄貴を知ってるんだ。」担任だったとか、クラブの顧問だったとか。
とにかく、俺は兄の事を聞きたかった。家族で兄を理解していた者は誰一人いないのだ。
理解出来ない置き手紙を残して家出して、その日に雨で水嵩が増えた川に落ちた
塾帰りの小学生を助けて、兄はその川で溺れ死んでしまったからだ。
当時、中学生になりたての俺はあまりにその手紙の内容が衝撃的だったから、
両親に今だに見せられずにいる。自分の学校の先生と駆け落ちする、
でも、それが今、自分が望む幸せの形に一番近いから、心配するな、って。
「幸一がもういないなんて信じられない。」何度目かの赤信号で止まった時、
鈴木は搾り出す様にそう呟いた。「兄貴はどんな生徒だった?」と俺は
勇気を出して鈴木に尋ねた。俺の学校は、共学で女の教師もいる。
その中で、兄貴は恋した誰かと駆け落ちしようとしたんだと俺は思っていた。
鈴木から、その教師の事を、家族の俺さえも知らない兄貴の事を少しでも知りたかった。
「それより、幸一は君にとってどんな兄貴だった?」と鈴木は聞いた。
どこに向かってトラックを走らせているのか、聞く必要はない。
行く宛てなどなく、ただ、兄貴の話をする為だけに、時間が必要だった。
運転する事で鈴木は、感情を剥き出しにしないようにしているんだと俺には判った。
それなら、目的地は俺が決めてやろう。
「兄貴の墓に行って見る?」と聞くと、鈴木は前を向いたまま頷いた。
土砂降りの雨は降り止まない。
世界はどこもかしこも灰色で、雨が降って来る音と、その雨が墓地を優しく飾る木々の葉っぱを激しく打つ音しか聞こえない。
夕闇の迫る、雨の墓地など人っ子一人いなかった。
幸い、兄貴の墓は駐車場のすぐ側にある。俺と鈴木は線香も手向ける花も持たず、
ただ、兄貴が好きだった缶ジュースだけを持ってその墓の前に濡れるに任せて立った。
雨の中で、他に墓もたくさんあるのに、田中、と刻まれた俺んちの墓はなんだかひどく寂しそうに見えた。
その墓の側面に兄貴の名前と死んだ歳が彫ってある。
「田中幸一 享年18歳」お袋が秋に供えた花はもうボロボロに朽ちていた。
「幸一。」鈴木が兄貴に、そこに兄貴が立っていて、その兄貴に謝るような声で
名前を呼んだ。「ゴメンな。」何を謝っているんだろうと俺は不思議だった。
けれど、雨に濡れるがままの鈴木の目から滴り落ちているのが、雨粒だけじゃなく、
横に立っているだけなのに、俺の胸に、鈴木の悲しさが流れこんできて、俺も
泣きそうになる。兄貴が死んで、悲しかった日々の辛さが蘇る。
「幸一、ゴメンな。」と鈴木はまた言った。声が震えていた。
大きくて、逞しい鈴木が可哀想だった。なんでだか、可哀想でならなかった。
なんて慰めて良いのか、なぜ、そんなに悲しいのかが判らないから何も言えない。
ただ、鈴木が可哀想だった。こう言う時はきっと側から離れた方がいいのかもしれない。
でもその時、俺は鈴木の側を離れるのは嫌だった。離れちゃいけないと思ったんだ。
とても寒そうで、デカイ図体が雨に溶けそうで、俺は思わず、鈴木の体を抱き締めてた。
雨に濡れてても、その体がとても温かくて、懐かしい気がした。
とても好きな感じだった。鈴木は驚いて俺を引き剥がそうとして、俺の顔を涙と雨で
グシャグシャの面のまま見下ろしている。その唇の形も、鼻の形も、困ったような顔も、
初めて見たのに、とても。
言いようがないくらい、胸の中が熱すぎて痛くなるくらい好きだと思った。
思い切り腕を伸ばして、鈴木の濡れた髪に触れて、頭を引寄せた。
女子とだって、誰とだってした事がないのに、俺は鈴木にキスをした。
人間の体は不思議で、鈴木の体を抱き締めている俺の手には鈴木の温もりを感じられるのに、合わせた唇はやっぱり、雨と同じ温度で冷たい。
温めて上げたいと純粋にそれだけを思って、俺は鈴木を離せなかった。
「幸一、」と鈴木は兄貴の名前を叫ぶ様に呼んで、俺の体をしっかりと抱き締め返した。
俺は、幸一じゃないのに、なんの違和感もなくて、俺は兄貴の名前を呼んで、
体を震わせて泣く鈴木を何よりも大事な人に想えた。何故、そう思うのかなんて、
判らない。兄貴がこの世にいなくなって、悲しいと思う心が重なったのか、
俺はもっともっと鈴木と、色んな要因で色んなものを共有して、
一つになりたいと思った。肉も、血も骨も、皮膚も全部邪魔で、鈴木の中に溶けて
行きたいと思った。
鈴木のトラックの荷台で、そんな理論付けることも、誰にも自分自身にさえも説明出来ない感情のまま、俺達は黙って座り込んで見つめあった。
幌に雨が落ちて、やかましい。もう日が暮れて、墓地の中の街灯が幌越しに差しこんで来るだけで、鈴木の顔も鮮明には見えない。だけど、濡れて、寒くて、可哀想だった。
「寒いんじゃない?」と言いたかったのに、声が出せなかった。
声を出せば、あやふやなこの感情がどこかに消し飛んでしまって、なにか大事なものが永遠に、取り返しのつかない事になりそうで、俺は鈴木の側に黙って近寄った。
自分の体温が鈴木の中に入れば、少しでも鈴木が温かくなるだろうと思って、俺は
鈴木と溶け合いたいと思った。だから、鈴木の太い首に腕を回して、自分に引寄せる。
でも、鈴木はまた俺を引き剥がそうとした。
その顔が本当に悲しそうで、また、鈴木の気持ちが俺の心の中に流れこんで来る。
鈴木の悲しい顔も、寒そうな体も、冷たい掌も、なにもかもが大事で、かけがえのない宝物だと感じた。
出来る事なら、悲しい顔じゃなく、優しいいつもの笑顔と、
太陽の温もりを孕んだ体に触れて欲しい、そう思ったから、俺はまた鈴木を温める。
抱き締めて、覆い被さる様に鈴木の唇に自分の唇を押し付けた。
勝手に涙がボロボロと零れて、鈴木の顔に零れ落ちて行く。
謝りたい事がたくさんあるような気がする。それなのに、言葉が何一つ出てこない。
一つに溶け合う為に、俺の体に、鈴木の唇で、鈴木の手で、触れて欲しかった。
その気持ちが伝わったのか、鈴木の手がゆっくりと俺の背中に回る。
痛いくらいの力で抱き締められて、息が詰った。
首筋を撫でる鈴木の唇の感触も、俺の指を絡める様に握った手の温もりも俺は知っている。
とても懐かしくて、二度と触れられる事もないと確信しているから、
涙が止められなかった。優しく、こんなに優しく人に触れられた事がないくらいに、
鈴木は俺の体に優しく触れる。俺も鈴木の体が温かくなる場所も、やり方も知っていた。
セックスなんてした事なかったのに、まして、男に抱かれる方法なんて考えた事も
なかったのに、俺は鈴木の温もりを体一杯で受けとめた。
唇も掌も、目も、肌の温もりも鈴木を作ってる何もかもが大事だった。
その雨の夜は、確かに鈴木をかけがえのない人だと想ったんだ。
俺は、その夜、兄貴の手紙を読み返した。
父さん、母さん。浩二。心配させてごめん。」
でも、約束する。僕は、必ず、幸せになるから。
世の中で一番、大事な人と生きて行く為には父さんや母さんの知らない場所で、
誰も知らない場所で生きて行くしかない。その方法しか思いつかないんだ。
僕を愛してくれた父さんも母さんも悲しませたくないから、
僕はちょっと早く巣立ちするだけです。
昔から、母さんは"子供の幸せが親の幸せ"って言ってた、
その言葉を信じます。離れても、どこにいても、僕は父さんと母さんの息子で、
浩二の兄貴であることには変わりないから、僕の幸せを祈ってくれるなら、
僕が皆のもとへ堂々と帰ってこれるまで、僕を信じて待っていてください。
兄貴が大事な人だと言っていたのは、鈴木の事だったとその手紙を読んで
俺はやっと判った。
鈴木にその手紙を渡すと、それに顔を押しつけて暫く動かなかった。
兄貴の字が滲んで行くのを俺は涙を止めらないでだた、見ていた。
嗚咽が雨の音に混じった。
きっと、兄貴の魂は確かにあの世ってところに逝ったんだと思う。
でも、想いだけが残っていたんだ。兄貴がどれだけ鈴木を大事な存在だと想っていたか、
それが、もしかしたら「愛してる」って事なのかもしれないけど、
今となっては俺にはもう判らない。手紙は、鈴木に渡した。
それから、鈴木からはなんの連絡もない。あの雨の夜の事はこうして
書きとめておかないと、いつか忘れてしまいそうな気がする。
忘れた方がいいのかも知れないけど、忘れたくない事がある。
それは、俺もいつかきっと、兄貴が鈴木を愛した様に、誰かを何よりも誰よりも
大事に思い、魂と想いが別離するくらい、愛したいと思った事。
雨が降る度に俺は初めて鈴木と会った日の事を思い出す。
そして、何度もこのノートを読む。
いまでも、どこかの街であの手紙を胸の内ポケットに入れたまま、大きなトラックに乗っているんだろうか。
どうか、いつまでも悲しみの雨に濡れていないで、幸せに生きて欲しい。
また、偶然に鈴木と出会えたら、俺の中に残った兄貴の想いを俺の言葉で伝えられたらいいと思う。
(終わり)