(遅エな・・)ゾロは、リビングの中から雪が振り積んだ外を露で曇った
窓ガラスを手でぬぐって外の様子を伺う。
今朝も、サンジは一人、岬に行った筈だった。
何故なら、ゾロが朝起きるともう姿がなかったからだ。

亡骸の上がらない仲間が凍えるのが辛いのか、サンジは一晩ですっかり
雪にうずまってしまう墓碑の回りの雪を払いに一人で出掛けて行く。

朝飯の頃合には、必ず帰って来るのに、今朝はまだ帰ってこない。
腹が減っているわけではないが、ゾロはいつもよりも遅い帰宅に
少し、落ち付かなくなってきた。

見様見真似で覚えたコーヒーをいれて、暖炉の薪を増やして、とどうでもいい雑事で
そんな気を紛らわせる。
三倍目のコーヒーをカップに注いだ時、玄関で「ガタン」と言う音がした。

「ふう」とサンジが玄関先で溜息をつく声がする。
ブーツを脱ぐ音、上着の雪を払う音、とサンジは静かな部屋の中に、
冷たい空気とたくさんの音を引きつれて戻ってきた。

(ん?)ゾロは部屋に近付いて来るサンジの足音がいつもとはっきりと
違う事にすぐに気がつき、玄関へと続いているドアを開いて、サンジを
迎えに行く。ズ・・ズ・・と片足を引き摺って歩きにくそうに廊下を歩いて来た。

「足、どうした」「ああ、ちょっと新雪の下に氷が張ってるのに気がつかなくってな」
「滑って捻った」とサンジは答える。
長い金色の髪がぐっしょりと濡れ、降り積んだ雪が頭にのったまま、それでも体温に
解けた雪が額を伝って透明な雫は頬を流れ落ちている。唇は触らなくてもはっきりと判るくらいに冷えているのが判るほど、色が褪せていた。

「ドジ臭エな」とゾロはそっと腰に手を回して、ソファに座らせた。
みせろ、とわざわざ言えばきっと「余計なお世話」だと言う。だから、ゾロは黙ったまま、
サンジのズボンの裾をめくって、捻った場所を確かめた。

「折れちゃいねえが、随分、腫れてるな」と雪で濡れ、つま先まで冷たいサンジの足を
そっと両手で温めながら、その傷の状態をゾロは「捻挫だな」と診立てた。

「悪化させたくなきゃ、腫れが引くまで歩くなよ」

その夜から捻挫の所為ではなく、どうも、長い時間雪に埋まっていた所為で、
サンジの体調が崩れた。
そんな状態になるなど考えてもいなかったらしく、碌な薬がない。

ただ、水に浸して冷たい布をサンジの額と捻って腫れた足首に当ててやる事しか出来ない。
「こう、生きる死ぬ感じじゃなく、看病されるのってゼイタクだよな」とサンジは
ベッドの中で真っ赤な顔をし、眠っては暫くしては目を醒まし、覗き込んだゾロを
見る度にそう言って笑った。

「そう思うなら、もう少し、それらしい我侭言えよ」とゾロはその都度、そう言った。
「水くれ、しか言わねえんだから、看病のし甲斐もねえ」と言ってサンジの側に
腰掛けてその顔を覗きこむ。

もうすぐ、朝が来るシンシンと冷えた空気が部屋を暖めていても、窓ガラスを透けて
部屋の中に忍び込んで来る時間になっている。ゾロはサンジが目を醒ました時に
いつでもすぐに気付けるように眠らなかった。
静かに息をひそめて眠っている顔を見ていると、時が勝手に過ぎて退屈はしなかった。

(俺がいない時間にいろんな事があったんだな)とその事柄をサンジの心の中から
読み取るつもりで、熱で握った掌が汗ばむほど熱いサンジの手をずっと握っていた。
けれど、具体的に伝わっては来る筈はない。

規則正しい寝息を聞いているだけで、何故こんなに安心するのか、自問自答しても、
明確な答えなど表せる言葉を思い浮かべる事も出来ずに、ただ、ゾロは心地良い温もりがこの部屋を満たして、自分達を包んでいて、その静かな湖面の様な優しい空気の中に
心を溶かしてサンジの寝顔を見つめてきた。

そして、朝方空が白み始める頃、またサンジは眼を醒ました。
発熱の所為で喉や頭が痛むのか、眠りがとても浅いようだ。ゾロはまた、サンジの顔を
覗きこむ。そして、「「腹、減っただろ」」と二人は同じ事を同じ瞬間に言った。

「俺はいい、お前だ」サンジはゆっくりと体を起こし、側に置いてある飲み掛けの水が
注いであるコップに手を伸ばしてそうゾロに尋ねた。
「お前こそ、どうだ」とゾロはそう言いながら立ち上がった。
「ジュニアから教えてもらった汁なら作った事がある」
「作ってやろうか」

食えるのか、それ、などとまた無神経で無遠慮な言葉が返って来るかと思ったら
サンジは肩に上着を引っ掛けて黙って頷いた。
(喉が痛エのか)と言葉が少ない事から察して、ゾロはそう思い、部屋を出た。

材料を切って、鍋に入れて、寝室のストーブの火にかける。

「アザラシが流氷の上に乗ってたんだ」とサンジはオレンジ色の朝陽がゆっくりと
闇の中から雪の白さを照らし出している外の風景を曇りガラスから透かしてみようと
しているかのうように目を細めて呟く。

「アザラシ?」とゾロはサンジの言葉をそのままなぞって話しの続きをさりげなく
強請る。
「変り種のコックがいたんだ。魚が好きでホントは漁師になりたかったって」
「でも、泳げ無いのと餌が触れ無いから・・ってじゃあ、世界一魚を知ってる魚の
料理人になるってガキの頃に決めて、」

「腕はオーナーには及びませんが、魚の知識はきっとオーナー・サンジよりも豊富です」
「きっと、お役に立てます!」と力説して、このオールブルーのコックになった男。
目がぎょろりと大きく、本当に魚の様な顔をしていたけれど、笑うと愛嬌があって
厨房でも誰一人、彼を嫌う者はいなかった。

魚の話しをしだしたら、サンジでも止められない程夢中で魚の話しをしていた男だった。
年はサンジよりも少しだけ年下で、魚の頭の骨を見ただけでその種類を百発百中で
当てる男だった。

「そいつが、砂浜で親に逸れたアザラシの子を拾ってきた」
ゾロはサンジの話しを全身全霊で聞く為に、一旦、スープの入った鍋を
ストーブから外し、ベッドの側に歩み寄り、縁に黙って腰かける。
鼻先がもう少しで触れるくらいにサンジの顔が側にあった。

「そいつが乳離れするまでまで厨房には出て来るな」とサンジはその男にキッパリと
言った。「何時間かおきに乳をやるんだろ。アザラシを抱いたコックコートを着たままで客に出す料理を作らせるワケにはいかない」と言い渡したのに、
仲間のコック達は決して仕事に穴を空けない様、その男に協力し、皆が一丸となって、
なんとか、そのアザラシを育てた。
そして、魚の取り方を教え、病気になったら不眠不休で看病をして、
男はアザラシを無事に成長させた。けれども、
「名前をつけると、離す時に辛いから」とその男はアザラシの子に名前をつけなかった。

でも、名前をつけなかったのに、その男はアザラシの子を海に離す日、やっぱり
泣いて、仲間のコック達にからかわれても、見えなくなるまでそのアザラシを見送っていた。

「また、逸れてここに来たのか、と思ったんだ」とサンジはまた、窓の外を見た。
「ここに来ても、もうあいつはいないのに」
淡々とした口調が却って、サンジの心の中にあるものをくっきりと浮かび上がらせ、
それは呼吸をする度にゾロの胸の中に吸い込まれて行く。

どんなに辛い事があっても、哀しい事があっても、サンジはここを逃げ出せない。
自分の夢、ゼフの夢、そうしてオールブルーを夢見たコック達の未来を
一人で背負っているからだ。
ゾロと共に旅に出る、と言うのは、まるでその重圧に耐え切れずに逃げる様なもの。
サンジはそう思っている。

その逸れたアザラシが彼の育てたアザラシだと言う確証はない。
けれど今、それを今、口に出す事の愚かさをゾロは知っている。

「見て来てやろうか」とゾロは立ち上がり、窓ガラスの結露を拭って外を見やった。
「今朝もそいつが氷の上にいるかどうか」
「それから、もし見つけたら言い聞かせてやろうか、お前の代わりに」

サンジはゾロと同じ方向を見ながら首を振った。
もう強がってはいない、哀しみがほんの少しだけ滲んだ曖昧な表情でほのかに
微笑んでいる。

辛い、とも寂しい、ともサンジは一切言わない。
けれども、あの岬の上の墓碑に名前を刻まれている男の一人がサンジに残した
想い出をゾロに語る事で自分の心の中にある哀しみを癒そうとしていた。

「スープ、冷めたな」と暫く、二人は窓の外の雪をじっと見つめていたが、
唐突にサンジが思い出した様にはっきりとした声でそう言った。

一つの哀しみを吐き出して、少しだけ心が軽くなったのか、それとも、
素直にゾロに寄り添う様に心を曝け出してしまったのに気付いてまた強がる癖が
頭をもたげたのか、ゾロには判らない。

(ま、どっちでも構わねえか)と思い、ゾロは「不味かったら俺じゃなく、
ジュニアに言えよ」と軽口を叩きながらまた、スープの鍋をストーブの上に
置いた。ほどなく、スープが温められて鍋からほのかに湯気が立ち始める。

無理に心をこじ開けても、そこにはその扉以上に頑丈な扉が待っているだけだ。
サンジが心を開いた時、その瞬間を決して見逃さずに全てを見通して
世界中の誰よりもサンジのなにもかもを知っている存在で在り続けたいとゾロは
思った。

何故、こんなに頑なに自分のやり方で自分の心を縛るのか、とゾロが言葉で問うていたらきっとサンジは禄に真面目な答えを返しては来ない。

自分が辛い、哀しい、だからいつも側に居て欲しいとゾロに望めば、ゾロはその望みを叶えようとする。サンジはそれを知っていて、
(俺を縛らない為に)自分をこうまで強く縛りつけている。思い上がりではなく、
ゾロはそう信じていた。

サンジと共にここに留まる事は、強さを求め続けるゾロの道を断つ事になる。
ゾロと共に行く事は、自分の夢を捨てるだけではなく、ゼフの夢も自分を信じて
ここを生きる場所として選んだ者達の夢をも捨てる事になる。

どちらも選べない。けれども、一緒に生きていると言う実感をしっかりと
信じて、握っていたいと思う代償としてサンジは辛さも哀しみも全て一人で抱えて
じっとゾロが帰って来る日を待っている。

いつも二人が寄り添って見つめる景色の先は雪が降っていて、そんな時間をこれから先、
どのくらい重ねればいいのか、今のゾロには考える事さえ辛くなる。
ただ、信じているのはどれだけ距離が離れても、時間が過ぎても、
想いは決して変わらないと言うことだけ、それさえ口に出せば軽い睦言になり
却ってその約束は軽くなる。

ごく自然に重ねあった掌の温もりを感じ合い、瞳に舞い降る花びらの様な雪を写す事だけが二人を繋ぐ約束を確認し合う方法だった。