「…よう、やっとカタがついたか」
サンジのその声に、ゾロはハっと我に返る。
カクとの死闘で、精神がピンと張り詰めていた所為だろう、周りに誰がいて、どういう状況だったのかが、頭の中からすっかり消し飛んでいた。
我に返った途端、興奮しきって発散しきれない熱が体から汗になって噴き出す。
「…お前は」ゾロがそう尋ねると、サンジは「…とっくに済んだ」と淡々とした口調で答える。
顔中血まみれで、片足を投げ出してサンジは壁際に腰を下ろしている。
絶え間なくポタリポタリとサンジの体のどこからともなく血の雫が床に滴り落ちているのが見えた。そうして、サンジはゾロが刀を鞘に収めるのを黙って待っている。
やけに口数が少ない。
肉が焦げて焼ける匂いがかすかに鼻を掠めた。
「…相当ダメージ食らったみてえだな」ゾロがそう言うと、サンジは「…けっ」と忌々しそうに舌打ちし、
「…お互い様だろ。刀持ってるくせに、草食動物相手に何手こずってやがる」と言い返してきた。その声も、痛みを堪えてでもいるのか、腹の底から無理矢理絞り出したように聞こえる。
そう思った時、サンジがゾロに向かい、何かを投げてきた。
咄嗟に手を出し、キラリと光って、空に浮かんだそれを掴み取る。
「…鍵」
「あの狼拳法野郎が持ってたヤツだ」
そう言って、サンジは新しい煙草を口に咥えた。少し俯いた所為で、血と煙で薄汚れた髪が邪魔して、よく表情が隠れる。
口元に近づけたライターを持っている右手が小刻みに震えていた。
それを見た途端、ゾロの胸に不安が掠めた。傷ついたサンジを見たのは初めてではない。
だが、目の前のサンジは、いつもとどこか醸し出す雰囲気が違う。
悔しくて、歯痒くて堪らない。でも、諦めなければならない。
そんな葛藤を抱えているくせに、それをゾロに悟られまいと表情を隠している。
そんな風にゾロには見えた。
そして、そんなサンジがゾロを不安にさせる。
「…鍵は分かった。何でそれを俺に渡す?」
「…俺が持ってても仕方ねえからだ」
サンジの答えにゾロは鍵を握り締めたまま、息を飲む。
カクとの戦いで傷ついた傷口からじわりと血が染み出てきた。けれど、不思議と痛みを感じない。自分の傷の痛みよりも、サンジの口から出る言葉と、ゾロに本音を晒さない態度が気に掛かる。
「…てめえは、その鍵を持って、ナミさんと…ウソップを追い駆けろ」
「…何だと?」
ゾロは思わずサンジの言葉を聞き返した。
そして、もう一度、しっかりとサンジを見つめてみる。
(…足をやられたのか…?)そう聞こうとして、喉でその言葉を止めて飲み込む。
身動き出来ないほどのダメージを足に食らって、あの狼の能力者に勝てる筈がない。
第一、 側でカクと戦いながらも、耳にサンジと狼の能力者とが立てる壮絶な音が
聞えていた。そして、サンジは生きてここにいて、敵は白目をむいて床に転がっている。
「…立てねえんじゃねえだろうな?」
そんなワケねえだろ、バ〜カ。
サンジはきっと、そう答える。
それ以外の言葉はあり得ない。ゾロはそう思った。
サンジはゾロの言葉にゆっくりと顔を上げる。
ニヤ、と口元だけが強がるように笑っていた。
「…迷うなよ。今なら、…まだ、追い着けるかも知れない」
「…!」
思いがけないサンジの言葉に、ゾロは息を飲む。
そして、視線だけが何故か勝手にサンジの投げ出している方の脚へと向いた。
右足の、膝から下だけがまるで火事で焼け出されたように煤けて、ブスブスと燻っている。一見して大火傷を負っているのが分かった。
「…後先考えてたら、…前へも進めねえからな。とりあえず、出来る事だけやってみたら…このザマだ。」
そう言って、サンジはフフ…と鼻で自嘲する様に笑った。
「どうなってんだ、この足は…」
「…さあな。とりあえず、…今、下手に動かしたらきっと、骨が砕ける…」
そう言って、サンジは力なく壁に全身を預ける様にして凭れた。
「…熱が骨の髄にまで伝わってる…。これが冷めるのか、髄を伝わって、全身に回るのか…わからねえ」そう言って、大きく、深く、ふう…と辛そうに溜息をつく。
だが、その息を吐き出し終わると、キっとゾロを見上げた。
「…時間がねえのは、いくら頭悪くてもわかってンだろ?」
その顔がいつもよりもずっと蒼ざめて見えるのは、出血の所為ではない。
どういう熱なのか、さっぱりゾロには分からない。が、足に孕んでいる鉄をも溶かすほどの高熱が、地底から噴き出すマグマが真っ赤に燃え滾ったまま、地表に流れ出すように、骨の髄を伝い、徐々にサンジの体を犯し初めているのは確かな様だ。
「…骨が溶けて、足が使えなくなるのはごめんだ」
「せめて、足から熱が引くまで、…俺はここにいる」
「…だから、早く行けって」
サンジの言葉を最後まで聞かずに、ゾロはその側に屈む。
そして、有無を言わせずに脇から手を差し入れ、手を添えて立たせた。
「…てめ…何しやがる!」そう怒鳴ってサンジはゾロの手を振り払おうとする。
だが、それを許さず、強引にゾロはサンジの脇へ回した腕の力を入れた。
どうにか右足でも立とうとしたのだろう、だがやはり力が入らず、その体がガクンと傾く。それを支えようとした時、腕に掛かっていたサンジの体重がぐっと増した。
強がっても、意地を張ってもどうにもならない。
走るどころか、歩く事も、今は立つ事すら出来ない。それでも、ゾロは
「じき、砲撃されるって分かってる場所にてめえを取り残して行けるか…!」と
歩き出す。
「…ゴチャゴチャ言うなら、背負うぞ。それとも担ぎ上げてやろうか」
「…どっちもゴメンだ。俺を引き摺って歩く分、時間を食うだろ、離せ!」
サンジは必死にゾロの手を振り解こうとする。
もつれ合うようにして歩く分、遅くなるけれど、ゾロはサンジを半ば引き摺るようにして出来るだけ急いで歩く。
サンジから鍵を受け取り、ナミとウソップを追った方が速いのはゾロも分かっている。
だが、きっと、もうサンジは戦えない。ここに置き去りにしたら、もう二度と生きて会えないかも知れない。
ロビンも大事な仲間だ。サンジも、ロビンと同様、失いたくない大事な仲間だ。
どちらか片方を選べと言われている様なこんな状況の中であっても、どちらか片方を選ぶ事などゾロには出来ない。
「…あの逃げ足の早い二人に俺が一人で追い着けるワケねえだろ」
「お前がいねえと、…俺達があの二人に追いつかねえとどうしようもねえ」
「大人しく引き摺られてろ。暴れなきゃ、てめえの足が砕けるような乱暴な運び方はしねえ」
ゾロがそう言うと、サンジの抵抗が薄れる。それでも、
「…追いついたところで俺が出来る事はもう何もねえんだよ!」と、左足一本を踏ん張ってゾロの手を振り解こうとまだ抵抗はする。
それでも、最初よりはずっと引き摺りやすくなった。
「…ハナっからロビンを信じてたのはお前だけだ」
「そのお前が助けに行かなきゃ…ロビンがどう思うか考えろ」
「時間がねえのは、いくら頭が悪くても、…わかってんだろ?」
ゾロはサンジの口真似をして、その顔を覗き込む。
「…ナミとウソップに追いつくぞ。どっちに行ったか言え」
サンジは困ったような、悔しそうな顔をした。けれど、一度目を伏せ、そして腹を括った様に、「右だ」と答える。「…右だな」ゾロは頷き、前へ進む。
仲間を助ける為に、誰一人仲間が欠けてはならない。
再び、仲間全員が揃って、それぞれの夢を追い駆ける冒険の旅へと船を漕ぎ出すために、ゾロの二本の足とサンジの片足が不ぞろいな足音を立て、先へ先へと進んでいく。